考える日々5.16

そうか自分は躁鬱の傾向があったんだな、と 病院に行って診断されたわけではないけど、そう思うことで少しでも今の自分を許容できるなら、そうだということにしておこう。

今までの”自分”がどう生きてきたのか、どう考えてどう人と繋がってきたのか、何も思い出せないくらい こんがらがって溺れて地面に足がつかなくて、バタバタもがいている心境だった。なんで今さら、今年34になる年でこんなにも自分を見失うほどもがき苦しむなんて…とショックだったけど、ただ、大きな鬱(と言っていいのかはわからないけど)の波にのまれただけなんだ。

今まで本当に何も考えてこなかった、考える時間を自分に与えなかった、向き合うことを放棄していた。基本的に不真面目で面倒くさがり。常に軽い躁状態だったのかもな、というほど、ストレスとかけ離れていた。

そして、”考える”という行為を”悩む”と同義だと思っていた、そしてわたしは昔から悩むのが恐ろしく苦手なんだ。いつでも楽しいことだけしていたい。心配とか不安とか無理。なんとかなる、なるようになるの精神で押し切ってきた人生で、そんな自分に満足していたし自信も持てていた。

それがなぜ、こんなにも悩んで、グラついているのか? 

今までは なんか違うな、と思ったら 多少我慢もしていたけど基本すぐ抜け出していた。仕事を辞める、海外に行く、責任のない存在になる。

それが去年ごろから、自分に対して、こんな事ではいけない、真面目にならなくては、必要とされなくては、と 全く体質に合わないことをしてしまっている。

なんか違う、窮屈だな、と感じながら、それを見ないふりをして、人に合わせようと自分を押さえつけていた。 新しい環境に馴染むには必要な試練なんだと自分に言い聞かせて。

そのことに気づけた今、大声で言いたい、わたしは我慢なんかしたくない、と。

自己中とか不誠実とか義理人情にかけるとか言われても、できないもんはしょうがない。申し訳ないけど他を当たってくれよ、と思う。

好きなことだけして生きてなんかいけないよ、大人になりなよ、と言ってくる輩は、殺意満々の目で睨めつけて、特大の舌打ちをしてやりたい。お前がそう思うのは自由だけどこれはわたしの人生であって、全責任は自分で負うのだから、そんな説教は0.0000000000001ミリも必要としていない、と言いたい。

ハクナマタタ、陽はまた上る、生きてるだけで充分なのだ、自分に嘘ついて辛い思いして生き長らえたくはない。

ということで、わたしに関わってあらぬ期待をかけてくれた人たち、本当にありがとう、でもわたしは頭からつま先まで徹頭徹尾自分本位な人間なのです。

そして人からどう思われようと、わたしはわたしを変える気はさらさらないので、うまくやっていけたらいいけど、わたしは一段階先に進みます。そこで要らぬ氣を使って神経をすり減らすのはわたしの求めていることじゃない。

みんなが自分に満足して楽しく自由に生きる世の中を心の底から願っている。

そのためには、まず自分から、実践していこう。

悩まないで、考えなきゃね









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