創業社長が解雇されるまで

前職を突然解雇されたのが2014/3/31。今日でちょうど10年がたったので、その時の回顧録を書いてみようと思う。

前職は美容のポータルサイトを運営する会社でした。今のホットペッパービューティーのようなもので、そのサイトを立ち上げたのは2005あたり。そのもう一つ前の会社は営業会社で20代が中心の会社だった。

その営業会社へはフリーの営業マンをしていた26才の時にスカウトされて入った。まだ出来て数ヶ月の会社で社員も6名ほどだったと思う。この時の話も思いだすと何度か誘われていたが断っていた。それはフリーになった理由がその前に知人と立ち上げた会社が社長が4000万円を持逃げし潰れたからだ。後半の数ヶ月間は給与も未配でお金がないから車も売りなんとか生活していたが、突然取引先からのリークで社長が持逃げしたことが発覚した。それからは早く一ヶ月以内に会社はなくなってしまった。オフィスは大阪にあったが、仲間は名古屋で再出発すると言い移転した。その時に一緒にやろうと言われたが、もう人と組んで仕事をするのが嫌になっていた。フリーでやろうそう思い、一人はずれて行動することになった。しかし住むところもなく車もなく当時はマン喫などというものもなかったので千日前のサウナで雑魚寝するか彼女の家で寝るかの日々が続く。しかし収入はフリーになったことで社員時代の1.5〜2倍くらいになり50万円くらいあった。当時の25歳にしては多い方だと思う。そんな生活をしていた時にスカウトされる事になる。しかし他人と組むことにも疲れ、収入も上がっていたので行く気は全くなく断っていた。そんなある日、梅田を歩いていたら突然、白いミニバンが横付けした。スカウトして来ていた会社の社長とその立ち上げメンバーだった。なんだかそのまま車に乗せられ兵庫県の有馬温泉まで連れて行かれた。ほぼ拉致です。そこで朝まで延々と事業に対する想いや入社することの価値、今のままフリーを続けても先は厳しいと語られた。結局のところはその場で入社する事を決めた。決め手になった一つは、営業技術を教えてもらえる。今よりもレベルアップできる。その期待が大きかったからだ。25歳の盆も過ぎた夏の終わりごろの話だ。ある意味ここが大きな岐点となったので、今でも夏の終わりになると自然と心がザワザワするなんとも言えない気持ちになる。

初出社をした。20坪程度のオフィスで社長室もなく営業、事務とが一つの同じ部屋だった。挨拶をすませ仕事が始まるが出来たばかりの会社だったので足りないものも多い。自分は一番下っ端だったので、まず電話がない。しかし営業なのでテレアポをしないといけないのでFAXの機械についている受話器を使ってテレアポをすることになる。営業売上が上がったら電話を買ってやると。FAXの受話器は普通の電話よりも小さいので長時間電話すると耳がめちゃくちゃ痛くなる。テレアポで断られるのが嫌で掛けたくないのではなく、耳が痛いから掛けたくないとずっと思っていたのを覚えている。また詳しくは書かないが非常に厳しい会社で今でいうパワハラは勿論、暴力や脅しや虐待も日常的にある所謂追い込むマネジメントだった。当時はそのようは会社はたくさんあったように思う。そのようなスタートだったが売上が上げれるようになり、副主任、主任、係長と2年ほどで昇進し売上もトップセールスマンとして形が出来ていた。そして部下を持ちチームを持つようになった。その後も会社の売上のほとんどを自分のチームが作るくらいになり、マネジメントも工夫して暴力は使わず営業のテクニック研修をし、マーケティングを取り入れハードルを下げ、代官山に店舗を出したり神戸コレクションなどのイベント出展することのブランディング効果でモチベーションを上げるなど様々なことを変えたことが上手く回っていて課長代理、課長、次長、部長と毎年昇進し最終的には本部長となり気がつけば社長につぐ2番手の位置まで来ていた。入社した時に比べて会社もかなり良い方に変わっていた。ここで会社歴代最高売上を作ったことも認められ役員になった。部下も50〜60人、アルバイトいれると80人くらいはいただろうか。自分の年収も1000万円は超えていたと思う。この時32歳。ただ順風満帆でもなく会社は様々な問題を抱えていた。一つは20代後半になると社員は辞めていく。これは業界特有のもので同業者も皆同じような感じだった。もう一つは業界自体が斜陽産業で数年先の継続は厳しい状況でもあった。役員になった自分のミッションの一つとして崖っぷちの業界で、次の船を作ること。船とは新規事業のことで今いる社員達に次の仕事を作ることだった。社長は師匠と思っていて、ここまで上がれる場を与えてくれ、厳しくはあったがいろいろと学ばせてくれた。

営業の本部長という立場を捨てて新規事業の開発にあたった。今の自分があるのは師匠や部下のおかげでもあり大切な好きな仲間がたくさんいた。皆が次に乗れる船を作りたい。その想いで頭はいっぱいで試行錯誤の日々が始まった。営業本部長の立場から降りることで収入は2/3まで下がり30%のダウンとなったが、それよりも大切なことだったので気にしなかった。何が出来るのか?営業は出来るので、後は商品をどうするのか?仕入商品も試した、ECも試したが上手くいかない。そこで出会ったのが当時まだ単語すら認知されていなかったSEOのプロ。YahooやGoogleで検索した時に上位に表示させるアレだ。その人に技術を教えてもらう事が出来た。これは今思うと凄くラッキーでその後の仕事人生の軸になるスキルとなる。当時は誰も知らない事なので施策をするといろんなキーワードで上位表示させることが出来た。面白いくらいに上る。そして、その技術を売ることにした。美容系の会社から超大手の企業にも売れた。リスティング広告も当時はオーバチュアというものでYahooに掲載する広告が主流であった。検索サイトもGoogleよりもYahoo。時にIT系に転身することを決めた。ここも大きな起点となった。今でもSEOは自分でやれるのでパーソナルジムもクライアントのページにも対策が出来る。IT系といえ今でいうWEBマーケティングの領域で当時はそんな言葉すら知らなかった。そんな中でWEBで集客出来るのに、それをまだ皆使っていない事に気がついていく。グルメサイトはぐるなびくらいで、店を探すサイトはまだほとんどない。勿論ホットペッパービューティーもなくフリーペーパーの時代。ぐるなびの美容版を作る!そこに辿りついた。賛成もあったが多くは反対でそんなニーズなどないなどかなり否定され続けた。とりあえずサイトを作り無料で店舗を集めた。2ヶ月で2000店舗も集まった。次にその店舗を有料に切り替えていく戦略をとった。1店舗毎月10000円の掲載料金。当時の先行他社の料金は3000円だったが営業に自信があった。コンセプトでも差別化出来ていた。オシャレな店しか載せないと決めた。10000円でも売れた。ユーザーはSEOが自分で出来たので契約取れると上位に表示させる。それを繰り返すことで店へ送客が出来た。リスティング広告も回した。前述の神戸コレクションやエイベックスのa-nationなどにも出展しサンプリングもした。あらゆるプロモーションをした。次にアプリを開発した。ヘアスタイルとネイルのアプリだ。まだ競合はいない。リリースしてあれよあれよと300万ダウンロードまでいった。これは今でも凄いなと思う。ただマネタイズが上手く出来なかった。気がつけば大阪、東京、名古屋、福岡に拠点が出来て、それなりの売上もたっていた。東京の大手企業からも数億円で買収したいという話も来たがこの時は断った。ここまで5〜6年たっていた。立ち上げの目標であった次の船は作れた。しかし現実はもといた部下はごく一部だけが船に乗り、あとは乗らずに別の道を歩んでいた。もっと早くに作れたならと悔やんだことを覚えている。

この事業は営業会社の社内ベンチャーで土台を立ち上げた。その後にドロップアウトし別会社として伸ばしたという経緯がある。今思えばスタート時から大きな問題が抱えていたのだが、目をつぶり逃げていた。前の会社の社長が所謂株主であった。別会社にした際に自分が社長になった。この時に事業譲渡になるということで公庫で800万円を自分保証で借入て500万円を前の会社へ支払って買い取ったという形をとった。ただその時は前の会社で土台を作った際にできた赤字が2000万円ほどあり、その返済が終わるまでは株は持てない。返済終わったら持たしてやるという事だった。それまでの経緯と関係もあり疑いなく信用した。あと1500万円。損をさせたくはない、なんとか返して利益もとって恩返しもしたい、そう思っていた。最初の1〜2年は資金繰りに必死で、返済は出来なかったが、そのうち毎月50万円、100万円と払えるようになり完済した。その時にやっと権利も持てると思った。なぜ権利が欲しかったのかと言うと損得勘定だけでなく株主はこの事業に後ろ向きであったからだ。何度となく事業を止めようとしたり毎日のように詰められた。その理由について話すと思い当たることはいくつかある。まずIT事業自体に知見がなく自分がわからないこと。もう一つはその時の幹部と自分とのコミュニケーションに問題があったこと。これは立ち上げすぐに参画した幹部メンバーなのだが今の会社の権利関係をよく思っていなく株主を排除したいという思いがあった。これを何度か持ちかけられた言っている意味はわかる。しかし今の状況でそれをすることは難しく、また株主を裏切ることにもなるので断っていた。すると次第に距離ができはじめその幹部との関係は悪化していき派閥をつくるようになっていった。同時にその頃、前の会社が破産していた事もあり株主の気持ちもわかった。だからひたすら耐えた。とにかく利益を出し還元出来ると収まると信じて事業を伸ばす事に集中した。利益は引き続きとってもらい事業は完全に切り離して任せて欲しいと考えていた。でも結果は思惑とは真逆に動いた。完済し金融機関からも信用も融資もそれなりに受けれそうで、ここから勝負したいと思っていた矢先だ。現場ではホットペッパービューティーが大きな競合となり資金力の差で厳しい戦いが続いていた。迎撃には広告予算を上げてついていくこと。業界のNo3の中に残れれば死なない。次にやることは明確で可能性も十分にあった。先行の利で地域によってはホットペッパービューティーより認知もあり強いこともあった。まだいける。ホットペッパービューティーにはまだないアプリもうちにはある。そんなある日、突然、社長から降りろと言われた。ある言葉を思い出した。豚は太らせてから食え。何度かこの言葉は聞いていた。しかし本当にするのか、、、冗談かと思っていたが現実となった。立ち上げ資金を回収し融資も返済し無借金の会社になりストックビジネスなので毎月定額の売上は保証されている。向こう一年近くの売上が見えているので安定感がある。そんな状態になった時に経営から降ろされた。理由は組織をまとめられていないこと。そう幹部が派閥をつくり対立的な関係にあったことで組織は2分化していた。役員には残ったが事業をコントロールすることは出来なくなり、また社員の前でも会社をだめにしたのは自分だと否定されるミーティングも続きどんどん立場を奪われた。自分もモチベーションがなくなり、ただ出社するような日々になった。全部が周囲の責任にするつもりはない。今より思うと事業の成長や売上、サービスというものばかりに重きを置き、人間関係や感情の部分を後回しにしていた自分もいる。いろんな違和感を感じていることをあった。しかしそこを是正すると進行中のものが止まる壊れる怖さがありできない。それに蓋をしてズルズル進めたことは反省でしかない。

そこからだんだんと業績は落ちた。競合が伸びたことも大きいが、ついていけなかった。後発にも抜かれた。もうジリ貧でしかない。遂に赤字状態に陥った。この時には会社の数字を見てコントロールしてないので、この事業でなぜ赤字になったのかは未だにわからない。自分は東京に住んで東京エリアのみを見ていた。そんな中、大阪から幹部メンバーがやってきて食事をすることになる。その時の内容は忘れない。クーデターを起こそう。中村が主体となってコントロールする会社に戻したいといった内容だった。しかしモチベーションがもうなかったので良い返事はしなかった。もう1つの理由にこの幹部メンバーを信用していなかった。なぜなら社長時代に陰で自分の悪口をいい反対組織を作り派閥を作った本人だからだ。これは辞めた数年後に聞いた話だが内容はかなり酷い。というか執拗だ。そんな人からクーデターと言われても信用もないし乗ることもない。ただ相当やばい状況であったのだろうと思う。これが2013/12ごろ。

そして3ヶ月後の2014/3/30の夜。株主より電話で告げられる。明日からお前の席はないから来るなと。未だに年末のクーデターの話とこの解雇の話の関連は分からない。幹部たちの単独行動だったのか、株主も知っていたのか?自分が何を考えているかの情報収集だったのか?いろいろと考えられるが、その日から株主も幹部ともだれとも話していないし合ってもいない。その日からもう10年になる。その後、数ヶ月後に会社は誰もが知る大手有名IT企業に売却された。1年後には吸収され会社自体は消滅することとなった。

(あとがき)
積みあげたものでも簡単になくなる。なくならないものなど、ほとんどない。どうせなくなるのであれば保身にならず、自分から変化させて変えていこう。ビジネスはヒト、モノ、カネ、情報と言われるが、全ての起源はヒトでありヒトが全てである。ヒトかカネかと問われるとヒトを優先したほうが間違いなく人生にとってはよい方向になると思う。そのヒトとは人体という物質的なものとその人の持つ時間というもので出来ていて、時間というもので能力もお金も情報も手に入る。それぞれの人が持つ時間の総和で世の中は成り立っている。長い人生の時間の中で良いことも悪いことも起こる。それが普通であり自然なことでそれらを受け入れていくことが生きるという意味だと思う。

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