創作短編β版

「っはぁ〜……やっぱ可愛いよな……」
 ここは教室、だが今は放課後。今なら誰にも気を取られず、好きな人の写真を眺めながら1人世界に浸ることが出来るのだ。そう、今なら誰にも気を取られず──
「あれ、伊藤さんの写真?」
「うっわぁぁぁっ!!!???」
 こんな時間に帰ってくるとか誰だ!!??俺は慌てて振り返り、背中の人物を確認した。そいつは友人の仲西だった。
「なんでお前……!?帰ってなかったのかよ!?」
「あー、忘れモンして。んで、森田がいた。てかてか、なんで伊藤さん?あ、まさか……好きなん?」
 こいつ……!ピンポイントに人が嫌な所を……!つか早く荷物取って帰れよ!
「ちが……!……ぉ、推し!なんだよ!!」

 咄嗟にこんな嘘をついてしまった。だが、伊藤さん推し、というのは通用するだろう。なんせ伊藤さんはそこそこ有名なモデル。天才的なルックス、それに加えみんなに優しい天使のような性格と笑顔で、最近はテレビ出演も少なくない。
「あー、なんでも良いけどさ。伊藤さん、学校では普通に過ごしたいーって、どのテレビでも言ってんじゃん、聞いたことねー?」
「あ……いや、最近推し始めたからそこまでは……」
 嘘つけ。そんなのは百も承知だ。伊藤さんについては仲西より知ってる自信もある。
「ま!忘れモンも取ったし、今度こそ帰るわ。じゃ!」
「おっ、おう。じゃあ……」

 最っ悪だ……!!
 仲西の帰宅する背中、そして扉が閉じる音を確かに確認した後、俺はその場に膝から崩れ落ちた。
 このことは明日には仲西の手によってクラスメイト、学年、ましてや伊藤さん本人の耳にまで届いてしまうほどに拡散されるだろう。やがて全人類にもバレてしまうんだ。
 同じクラスの女子のオタクだと思われた俺の人権は無いも同然。伊藤さんにも避けられ、いや今も接点は無いが。避けられ、ペアワークは勿論、至る所での班分けにもチャンスは巡ってこないんだ。
 俺は枕を濡らすべく、さっさと帰って寝ることにした。

「森田くん、おはよう。」
「ぇ?あっ、おっ……はよ……う」
 ?????なんで、いま、伊藤さんが、おれに、あいさつ?……挨拶!!!???はっ?いや、はぁっ!?
 俺は教室内にいるはずの仲西を探した。すると意外とすぐに見つけられた。呑気に端の方で立ち話をしながらこちらを気に掛けていたのだ。あいつ……なんか言いやがったな……!ウインクしてんじゃねぇ!気持ちわりぃ!でも少しだけ感謝はしておく。
 呼吸を整えて伊藤さんの方に顔を向ける。やっぱ可愛い……
「森田くん、私のファンだって聞いて。応援ありがとう。これからも頑張るね。」
 ごめんなさい。俺、モデルのあなたが好きなわけじゃないんです。
「ぅ、ん、応援してる。」
 でもこれも嘘じゃない。許してくれ、恋心よ。

「なぁ、どだった?朝の伊藤さん!俺なかなかの働きぶりっしょ?」
 まだ10時30分だと言うのに、仲西は菓子パンを頬張る。
「学校は普通に過ごしたいって言ってた、ってお前が教えてくれたんだろ、なに余計なこと仕向けてんだよ。」
「あ、そうか。でもまぁ、これから普通の恋愛〜とかは無いの?アッハハ」
「その言い方は伊藤さんにも失礼だろ」
 こんなことを言ってはいるが、正直あって欲しい。伊藤さんには申し訳ないが、こちとら下心だけで挑んでいるのだ。普通に好きな子から挨拶されただけで朝からウキウキなのだ。
「次の時間さ、文化祭の出し物とか決めるらしいぜ、ここで伊藤さんと同じ班になって、距離縮めちゃえよ!」
「いや、そりゃなれたら嬉しいけど……」
 仲西よ、世の中そんな上手くいかんのだよ。

「うちのクラスはオリジナルのプラネタリウムで、各班リーダーが──」
 プラネタリウム。文化祭にしてはロマンティック、なかなか良いじゃないか。
「そして、必要物資の買い出しは、森田くんと、伊藤さんね」
 世の中、案外上手くいってしまった。いや、言い訳をさせて欲しい。これは、そう、ジャンケンである。俺はグー1本で壮絶なジャンケン戦争に勝ってしまったのだ。
「森田くんだ、ふふ、よろしくね。」
 頑張ろうね。と小さな手を自身の胸元で握りしめる姿の可愛らしさは計り知れないものであり、俺の走馬灯に出てくることは確実であった。

「私、お仕事で居ないときがあるかも、ごめんね。」
 伊藤さんの分も俺が走るからいいよ。
「あ!でも、私そのときの移動は車だから、時間が合えば何でも買ってこれちゃうよ。何かあったら連絡して。」
「わ、分かった。了解。OK。」
 挙動不審な上に言葉が重複してしまった。これじゃあ本当にただのオタクだと思われてしまう。
「早速ごめん、私これから打ち合わせで行かなきゃ……」
「全然大丈夫!仕事なら仕方ないよ、頑張ってください!」
 小走りで去って行く伊藤さんを横目に、俺はやたらと熱烈な視線の感じる方へ顔を向ける。
 その後、俺がクラス中の男たちから詰められたことは、言うまでもない。

 あの日から、特にハプニングも、俺の恋愛に進展も無く、文化祭準備が着々と進んでいった。強いて言えば、みんな俺にばかり買い出しを頼んでくることだろうか。いや分かる。俺だって伊藤さんに暑い中外に出ろだなんて頼めない。
「森田ぁーちょっと緑のペン無くなったぁー」
 プラネタリウム作りに緑のペンなんてどこで無くなるほど使うんだ。絶対落書きしてただろ。
「ん、分かった、100均?」
 俺は1度ため息をして渋々立ち上がった。視界の端で伊藤さんがこちらを見ているのが分かった。さすがに何もしていない自分に恥ずかしくなったのか。
「わ、私が行くよ!」
「結花ちゃんは座っててよ〜、森田ダッシュー」
 どうしてこんなに扱いが違うのか、なんてことは言わない。言ったとて確実に悲しくなるからだ。
「じゃあ!私も!行く……、2人なら、どう?」
 伊藤さんは俺に向かって迷惑じゃない?と言いいたげな顔で首を傾げてくる。どうやら今日は伊藤さんも引かないみたいだ。2人なら、ね……2人なら!?
「え、森田と……?」
 ちょっと伊藤さん、冗談がすぎるよ。さすがに幻聴かと思ったよ。緑ペン落書き野郎もドン引きだよ。
「森田くん、以外に居ないでしょ?……とにかく!2人で行ってくる!私にもお仕事させてよ」
 そんな可愛い顔で緑野郎を見つめないでくれ。ほら……
「分かった、じゃあ今回は結花ちゃんにも頼むよ、森田!結花ちゃんに怪我とかさせんなよ」
「はいはい、わぁってます」
 当たり前だ。伊藤さんに日焼けのひとつもさせてたまるか。

 ──とは言ったが、あっつい……こんな暑い中モデルの伊藤さんを悠々と日向で歩かせる訳にはいかない。影の方へ誘導しなければ。
「伊藤さん……暑くない?」
「うん、暑いね〜」
 うわ、めっちゃ涼しい顔してる。さすが美人、美人は汗かかないのか、あれなんでだろうな。いや、ここは腹を括って……
「もっと、こっち、おい、で」
「えっ、」
 あ、やばい、間違えた、絶対引かれた。今ので一気に涼しくなった気がする。顔、見れない
「いや、場所変わろうかなって!そっちの方が日、当たるでしょ、こっちちょっと日陰だからさ、それで……」
「うん、じゃあ失礼します……」
「ぅえ、?」
 伊藤さんが俺に近付いてくる。腕が触れ合ってしまうほどに。ずっとこうして歩いていたい、そんな欲にまみれた願いも、学校の立地の良さに敗れたのだった。

「店ん中涼しっ、あ〜帰りたくねぇ〜」
 あまりの気温差に叶わぬ願いががこぼれる。心なしか伊藤さんの顔も明るく見えた。日陰にいたとはいえ、相当暑かったのだろう。
「緑色のペン、だよね。油性水性とか、太さとか聞いてくれば良かったね。」
 伊藤さんは文房具コーナーの前で百面相に励んでいる。
「うん、これでいいんじゃない?」
 俺はパッと1番近かった緑のペンを手に取る。伊藤さんも俺の選択に納得したようで、大人しくレジまで着いてきてくれた。

「ねぇ、外出届、何時に帰るって書いたっけ?」
 数歩前を歩きながら伊藤さんが尋ねてくる。本当は俺もよく覚えていない。
「あー……多分、30分くらいだったから、14時……?」
 適当を喋る。行先はすぐ近くの100均なのだから、15分もあれば帰ってこれる。
「じゃあさ、ちょっと、遊んでかない?」
 目の前に提示された物を確認する。伊藤さんの綺麗に伸びた指は、地図アプリ上にあるゲームセンターを指していた。

 ゲームセンターなんて久しぶりかもしれない。それは伊藤さんも同じようだった。
「ねぇ、これで勝負しよ!」
 そう言われカートレースゲームで勝負をすることに。いやいや、負けませんよ。とタカをくくっていたが、意外と接戦になり俺が白旗を振ることになった。このままでは格好がつかない。どこかで挽回したい気持ちもあるが、伊藤さんが笑っているので諦める。
「これやりたい!」
 今度は太鼓のリズムゲーム。流行りのJ-POPや懐かしのアニメソングなど、伊藤さんも楽しそうに太鼓を叩いていた。
 お互いのやりたいゲームをある程度制覇したあと、俺は時計を確認した。時刻は13時50分、14時が近付いている。そろそろ時間だし帰ろうか、と声をかけようとしたが、それは先に発せられた伊藤さんの声によって阻まれた。
「ちょっとここ座って待ってて」
「飲み物でも買ってくる?じゃあ俺が」
「違うの!とりあえず座って待ってて!」
 俺はそう言われ、理由も分からず大人しく椅子に座って伊藤さんの帰りを待つことにした。

「はい、これ1個あげる、どっちがいい?」
 数分後に現れた伊藤さんの手には熊のキーホルダーが2つ。
「意外と得意なんだよ、クレーンゲーム!」
 そう言って笑う。今日だけで一生分の笑顔が見られたかもしれない。
「じゃ、じゃあ……」
 と青色の熊を取ろうとした矢先、伊藤さんに黄色の熊を押し付けられた。
「選ばせて貰えないの!?」
「交換!これでいつでも今日のこと、思い出せるでしょ。森田くんの、印象に残りたいの。」
 俺は意外と、振り回されるのが好きなのかもしれない。

 学校への帰り道は14時なのもあり、だいぶ日が高くなっていた。今が1番気温の高い時間だろう。行きよりも日陰が少なく、伊藤さんも俺も暑くて仕方なかった。俺の身長がもう5cm高ければ影になれたのに……と170cmもない自分の身長を憎む。今更涙を流すのも遅い。俺は背筋を伸ばして歩くことに専念した。

 Prrrr...…Prrrr...…...…
「あれ、電話、伊藤さんじゃない?」
 一瞬、伊藤さんの顔が暗くなった気がした。
「出なくていいの?」
 俺は続ける。インターネットが発達している今、電話をかけるなんて急ぎの連絡に他ないだろうから。
「電話、マネージャーさんから。出たくないの」
 やっぱり。
 出たくない。その言葉に思わず眉をひそめる。
 モデルなんて、選ばれし者しか出来ない誇り高き仕事だと思ってた。楽しくて仕方ないのだと思ってた。伊藤さんも仕事に行きたくないとか思うんだ。
「森田くんにこんなこと、言っちゃいけないとは思ってるんだけどね。本当は、モデルのお仕事、辞めようかと思ってて。」
 伊藤さんは心底喋りにくそうに続けた。
「ずっと言ってるけど、私、学校は普通に過ごしたいの」
 仕事と両立することが、伊藤さんの普通だと思ってた。
「お仕事で文化祭を休むとか、本当に嫌」
「そんなの、普通じゃない、って?」
 返事がない。俺は思わず伊藤さんの顔を覗く。伊藤さんは大きな目に涙を溜め、その滴を音もなく流していた。
「どっか座れるとこ行こう、そこで1回落ち着こう。」
 俺はどう思ったのか、手を取り歩き出していた。電話はもう鳴っていない。

 俺たちは近所の公園で一休みをすることにした。そこのベンチに座って、伊藤さんの話を聞こうと思った。
「ごめん、14時、森田くんだけで学校帰っていいよ。私、お仕事だから」
「そんなのいいから。今は、伊藤さんが泣いてる理由」
 口を動かしているのは分かるが、セミがうるさくてよく聞こえない。
「ごめん、よく聞こえない。ちょっとだけ近付いても良い?」
 俺は許可を待たず、口元に少しだけ耳を寄せる。 
「……普通に過ごしたい。モデルなんてしたくない。こんなワガママ、もう許されない。」
「じゃあ、辞めちゃいなよ」
 無意識的に喋っていた。
「伊藤さんが苦しい思いしてまでする仕事とか、そんなに価値ないよ。」
 伊藤さんは大きな目をさらに見開いて、俺を見ている。
「でも、そう簡単に辞められない」
 冷静になったのか、伊藤さんはすぐに顔を下げてしまった。
「要はさ、今普通じゃないのが嫌なんじゃん。」
 伊藤さんを無視して俺は続ける。
 それから俺は、どうしたら伊藤さんが今の状況を楽しめるか、考えることにした。

「……うーん、今日はもうサボろう!」
「えっ?」
 さんざん考えてこれしか出なかった。自分の頭の悪さに嫌気がさす。
「今日の仕事。もう学校もサボろうか。あ、うさぎカフェとか行く?」
 混乱している伊藤さんを横目に、俺は学校へ戻るために立ち上がる。
「普通じゃないこと、楽しもう。」

「ごめん、俺ちょっと親から呼ばれた。今日は帰るわ」
 作業をしているクラスメイトに嘘をつく。最近嘘ばっかりついている気がする。
「んで、伊藤さんは仕事入って先行った。」
 これは嘘じゃない。俺は自身と伊藤さんの荷物をまとめて早退届を出しに職員室に向かう。今日の午後に授業がなくて助かった。

「はぁっ、はぁっ」
 家に1度帰ったにも関わらず、シャワーを浴びずに飛び出してしまった。自分が今走っている理由もよく分からないが、多分、伊藤さんを待たせてはいけないと思っているからだ。
「はぁっ、ごめん、暑い中待たせて」
 呼吸を整えるのに精一杯だ。こんなに汗だくの男が走ってきて、気持ち悪いに決まっているのに、伊藤さんの顔は少しだけ嬉しそうに見えた。いや、多分これは自意識過剰だ。間違えたら自爆するタイプの。
「全然待ってないよ、ちょっと休憩してから行こう」
「ごめん、ありがとう」
 どんな人間にも、伊藤さんはいつだって優しい。ルックスに甘えずに育った優しい性格に、俺は惹かれている。

 普通じゃないことを楽しもう、と言ったものの、何もプランが思いつかない。伊藤さんくらいになれば、普通じゃないことなんて、ほとんど体験しているのではないか。仕事、学校をサボるのは初めてだろうし、ここはひとつ、青春小説っぽく海にでも行ってみるか。まずは、さっき話していたうさぎカフェに向かうことにした。

「わぁ、可愛い……!」
 到着するやいなや、伊藤さんは店内の装飾、そしてうさぎに感嘆。俺もそんな伊藤さんに感嘆。これだけで世界が平和になる気がする。
 伊藤さんは床に座り込み、辺りにいるうさぎを見渡した。今は平日の昼間というのもあり、お客さんは少なかった。ほとんどのうさぎがゲージ内や床で寝そべっている。
「この子すごい可愛い」
「珍しい。その子お店1の美人さんで、でも人見知りさんだから、私たちでもなかなか触らせて貰えないんですよ。」
 近付いてきたうさぎを撫でる伊藤さんに、店員さんが話しかける。へー、そうなんですね。と伊藤さんは店員さんの話を聞くためにうさぎを撫でる手を止めた。
「なんか、伊藤さんみたい」
 伊藤さんは顔を上げて俺を見る。何を言っているんだ、とでも言いたげな表情だった。
「伊藤さんも美人で、人見知りでしょ。」
 美人なんて言葉、言われ慣れてるのにいちいち顔を赤くするのも可愛い。
 俺たちは時間いっぱいまでうさぎを堪能し、伊藤さんは満足気な顔でカフェを後にした。

 暑さに耐えきれず、俺たちはショッピングモールに来た。伊藤さんの、最近見れていないお洋服でも、というお誘いだった。
「さっきの、辞めたいって話、聞いてもいい?」
 歩きながら尋ねる。伊藤さんは気まずそうな顔で少しだけ下を向いた。歩くスピードは変わらず、立ち姿も美しいままだった。
「いいよ。でもさっきので全部。話しちゃったのも、多分気の迷いだから。お仕事は辞めないし、忘れてもらって良いから。」
 そのときの伊藤さんの言葉は、俺に余計なことを聞かれないように、話させないようにも聞こえた。
「そっ、か。」
「でも、ちょっとだけ、後悔してるのは、本当。」
 ポツポツと、少しづつ、少しづつ言葉を紡ぐ。
「スカウトとか、軽い気持ちで受けなきゃ良かった。」

「こんな気持ち抱いちゃって、社長にも、親にも顔向けできない……」
「後悔は減点対象に数えない……よ……って、ごめん、これ、最近聴いた曲の歌詞で、はは」
 いきなり変なことを口走ってしまった。笑ってごまかす。
「この話終わりね、洋服見に行こうか。」
 いつの間にか止まった歩みを再開するために、俺は体の向きを正して動き出す。すると直ぐに、きゅ、と俺の足が止まった。袖にどこか引っ掛かりを感じたからだ。
「じゃあ、私、この選択も加点にしたい。もう、自分で選んだことに後悔なんてしたくない!」
 伊藤さんの目はSNSで見る輝きを取り戻していた。
「それなら、ワガママ全部、叶えに行こう!」
 俺たちは互いの手を取り、足早にショッピングモールを出た。

「どこ行くー!?」
 何も無い道を走りながら大声で尋ねる。
「海!見に行きたい!」
 伊藤さんの答えで行先は決まった。青春小説みたいなこと、出来そうだ。
「よし!行こう!」
 俺たちは海まで普通はバスに乗る距離を、今日だけ走ることにした。

 その後は、浜辺でかき氷を食べたりまだ明るいのに花火をしたり、綺麗とは言えない浜辺で走って転びそう、とか言って笑ったり。8月も下旬、今更2人で夏を取り戻すことにした。

「ねぇ、なんで、こんなにしてくれるの?」
 好きだから。好きな人の笑顔が、何よりも大切だから。そんなことは言えるはずもなかった。だけど、今なら言えそうな気がした。
「好きだから。伊藤さんのこと。」

「あ、ありがとう。この前もファンだって、聞い」
「ううん、ファンなんかじゃない。女の子として好き。」
 伊藤さんの顔が赤く見える理由は、やたらと暖色の街灯のせいなのか、照れているのかは、よく分からない。でも多分、今目を逸らそうとしているのは、照れているからだろう。
「こっち向いて。伊藤さんの顔、見たい」
「ゆ、か」
 え
「え」
「私、結花だから。伊藤さん、じゃ向かない」
 えっ、可愛い。てか、俺が呼んでいいのか。結花さん?ちゃん?……それとも、結花?今は心臓の高鳴りに頼るしかない。勢いが大事だ。
「結花、こっち向いて」
 やはりいきなりの呼び捨てに驚いたらしい。一気に振り向いてきたからか、ばち、と音がなりそうなくらい勢いよく目が合ってしまった。
 あ、顔赤い、そう思ったのもつかの間、またすぐ目を逸らそうとする。そうはさせるか、と俺は右手で結花の頬を押さえる。
「こっち向いて、って言ったじゃん」
「恥ずかしい、てか、呼び捨てとか聞いてない」
 こっちだって恥ずかしい。好きな人と浜辺で2人きり、その上名前で呼べだなんて無茶ぶりに答えたんだ。

 俺たちは浜辺で小さすぎる格闘を終えた後、不思議と肩で息をしていた。未だにお互い緊張していたんだろう。結花の笑顔はいつもより柔らかく見えた。
「あ、結花、さん……。LINE、教えてください。」
 結花はキョトン、とした顔で見てくる。
「ラ、LINE?クラスのグループ、入ってなかった?」
 グループLINEから追加すればいい。それもそうだ。だが、本人に確認を取らなければ追加してはいけない気がしたのだ。それが伊藤結花なら尚更。
「ふふ、いいよ。教えてあげる。」

「これからは、定期的に私のワガママに付き合ってもらう。それでも良い?」
「うん、良いよ。」
 行きは走って、浜辺で遊んで、さすがに疲れた。帰りは大人しくバスに乗ることにした。
「私のあんなところ、見られたんだもん。それくらいして貰わなきゃ。」
「結花と定期的に会えるとか、役得すぎ。」
「また、呼び捨て」
「あ、駄目だった?」
「良い、けど……」
 結花がまた赤くなる。今度はバスの車内なこともあり、街灯のせいでは無いことが分かった。

 俺たちを乗せたバスは案外早く、結花の家の最寄りまで到着した。
「今日はありがとう。」
「あ、仕事、どうするの?まだ辞めたい?」
 結花は目を見開いて、また少し微笑んだ。
「や!辞めない。本当は、康太郎くんと同じ世界にいたい。けどまだまだ光っていたいから。」
 結花が決断を下せたようで安心した。俺はこれから、結花が少しでも仕事を楽しめるように──って!
「なっ、名前!知ってたの!?」
「アハハ、そりゃ同じクラスなんだもん、知ってるに決まってるよ。」
「今まで苗字で呼んでたじゃん!」
「わーっ、もう解散!寝る前に電話するから!じゃね!」
 に、逃げられた……。結花が帰宅する背中を確かに確認した後、俺はその場にへたりこんだ。俺が結花のこと好きなの、バレちゃったな……いや、もう良いか。など、1人で悶々としている。

 ひとまず俺は、結花からの電話に備えるために、さっさと家に帰ることにした。

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