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綺麗なケーキって食べるの難しいよね

少し前にスタバの新作が発売されましたね。桃のフラペチーノとケーキ。いつもはスタバの限定はフラペチーノを飲んで終わりなのだけれど、紅茶と桃のケーキがあまりにも美味しそうで今回はつい頼んでしまった。
紅茶のムースに、大きくランダムにカットされた桃がゼリーで固められていた。ゼリーが薄らと色づいてきらきらとしていて、見た目から楽しかった。ただまぁ食べにくい。それはそうなんだけれど桃に合わせてケーキを切り崩すことしかできないがためにこのケーキを最後まで綺麗に食べることはできなかった。

綺麗な人が綺麗なままでないと安心する。
綺麗な人の、ダメなところが好きだ。それはサボり癖でも、めんどくさがりでも、なんでもいい。なんでもいいけど、そういう部分がどうしようもなく好きだと思ってしまう。自分には到底手の届かないような、なれやしないような綺麗な人のそういう側面があまりにも愛おしい。これは見下しとか、そういう感情ではないことをちゃんと書いておきたい。この人も(能力的にだとか人間的にだとかで)劣っていてよかった、という感情に起因する好きではない。綺麗な人が綺麗なままじゃなくてよかった、と思うのだ。ちゃんとこの人から透けてくる光があってよかったと思う。
言うなれば、蛙化とか冷め、といったものたちの逆だろうか。綺麗な人を神格化するか否かという部分ではあるのだろう。そんな人の弱い部分や汚いとされる部分を見た時、私は神様みたいな人が神様じゃなくてよかったと思う。ちゃんと人であることに安心する。綺麗な人がどこまでも綺麗だったら、きっと私はそれを全ての理由にしてしまう。その人の優しさも柔らかさもあたたかさも、何もかもを「この人は神様みたいな人だから」で済ませてしまう。そういうのってきっと良くない。少なくとも私は好きじゃない。その人がしている努力とか決意の相当な部分から目を逸らしているような気がしてしまうから。

本当に優しくて綺麗だなと思っている人が、自身の褒められたものではない生活習慣を教えてくれたことがある。確かに本当に一般的に褒められるものではなかったけど、それに心から安心した。神様じゃなくてよかった。

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