また明日

また明日。

学生の頃は、さりげなく一日の授業が終わった時に友達や先生に言っていました。何の変哲もない、ありふれた言葉で、もはや口癖に近くて全く特別感のない言葉でした。

社会人になってからは、かれこれ言う機会がなくなりました。まず、明日も会えると約束されている人は会社の同僚ぐらいしかいなくて、「また明日」ではなく「お疲れ様でした」とか「先に失礼します」とかの方が口に馴染みます。

そんな中、初めて「また明日」の素晴らしさに気づいたのは、オタク活動で二日連続イベントに参加した時でした。一日目が終わり、一緒に参加した同志に「また明日」と言われた時、「なんて素敵な響きなんでしょう」と感動しました。明日もこの幸せが続くんだ、と。たくさん幸せが詰まったその二日間の思い出の中で、「また明日」と言い合える事が私の中では特別なきらめきとして残りました。

時は過ぎ、季節は巡り、たくさんの絶望と希望が行き来して人生は続く。2022年の夏。一瞬でも目を離したら消えそうな子の口から、またその言葉と再会できるとは思いもしませんでした。まだ学生だったあの子からしたら、学生だった私みたいに何の変哲もないありふれた言葉だったのかもしれない。でも私にとっては、何重にもものすごく特別な言葉でした。明日という日があるなら、また会いたいと思ってくれるんだと。明日になったらあの子は消えるかもと思わなくてもいいんだと。明日も時間を共有できるんだと。「また明日」という言葉に恋しない人いる?と思うほど、あの時の私の琴線に触れました。

「またね」は私の大好きな言葉だって、前にツイートした事があります。なんで「また明日」ではなかったかって、強欲すぎるのかなと思ったからです。毎日会えるなんて、贅沢なんじゃないですか。明日じゃなくても、いつかまた会いたいと思ってくれるだけでもう十分嬉しすぎるというのに。そんな思いから、あの時は「またね」にとどまったのです。

だがあれから1ヶ月ほど、誰かにログボと言われるぐらいあの子と毎日一緒に話したりゲームしたり、毎日時間を共有する事になりました。夜になって「今日はまだ声聞いてないなぁ」と思ったら気持ちが非常に落ち込むぐらい、幸せに慣れてしまった自分がいました。「自分が思ってたよりも有象無象さんの存在は大きかった」と言ってもらった時、「今通話じゃなくてよかった」と内心思いました。なぜかって、号泣している所を聞かれずに済んだからです。「明日あの子が消えても自分にはなすすべがない」という無力感を噛みしめながら泣いた時と同じぐらい涙が流れました。関心を持たない方が自分の精神に良いと分かっていながらも、あの子を一瞬たりとも諦めなくて本当によかったと、自分の心に従ってよかったとあの時は本当に心から思いました。正直そう思える日が来る事さえ、期待もしませんでした。だから本当に、どんな言葉でも形容できそうにないぐらい今日への感謝と明日への期待を抱きながら、大切に大切に、「またね」「また明日」を毎日あの子に伝えていました。

どんな苦難にも終わりが来るように、どんな幸せにも終わりは付き物です。歯車が狂い始めた時から予知はできたものの、相も変わらず私になすすべもなく、全ては悪あがきに終わりました。もう一度虚無と仲直りして生き延びるうちに、「また明日」という言葉の存在が日々から静かに失われる事に気付きもしませんでした。

「また明日。」

昨夜そうツイートした時、初めてその事に気付きました。
あの時から一日も忘れた事はないけれど、「また明日」という蓋が開かれた時に色々な記憶が溢れ出して「懐かしい」という一言に固まって結晶化されました。
また言える日が来るだろうか。
来るといいな。

こんなに無駄に長い文章を生み出してもなお、行間を埋める事は無理な話でしたね。
なんて無駄な労力と時間を。
しかし、少しは、整理が付いて、もっと虚無と仲良くなれたのではないかと。
思います。

また、いつか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?