定型人解体③

 今回は私の「傷つき体験」のお話である。ジョン曰く、私には未だ癒やされていない深い傷つき体験があるらしい。正直、私は「特技は傷つくことです」と言っても過言ではないレベルに傷つきやすいタイプ(HSPだとは思いたくないが)なので、傷ついた体験などそれこそ星の数ほどある。もう情けないくらいある。しかしながら心理検査の中で得られた私の反応から察するに、最も自分の心に大きく深い傷を残した体験はおそらく「妹の死」だと思っている。

 私が9歳くらいの時に母が「もうすぐ妹ができるよ」と言い、実感はないものの少しワクワクしていたことを今でも覚えている。妹が生まれたらこのおもちゃを妹にあげるとか、妹は大きくなったらこんな感じになるなどの空想をめぐらし、絵に描いたりして妹の誕生を待ち望んでいた。母は地元の産婦人科には行かず、車で片道1時間以上かかる県内でおそらく最も大きな病院に通っていたのだが、その当時は私も幼かったためそれが何を意味するのか理解していなかったが、ある日病院のロビーで父から妹についての説明を受けた。妹はどうも先天的な疾患のため1年くらいしか生きられないらしい。その時はまだ事態が飲み込めておらず、「わかった」としか言えなかった。妹が生まれてしばらくしてから我が家に大きな酸素吸入の機械がやってきた時、妹の普通の赤ちゃんとは異なる姿を見た時、やっと少しだけ理解できた。だが私も9歳とまだ幼かったため楽観的にとらえており、毎晩「妹が長生きできますように!そして一緒に遊べますように!」と神様にお祈りしていた。そうすれば妹はきっとそこそこ生きるだろうと何の根拠もなく思い込んでいた。何なら自分の残りの寿命の半分を妹にあげたら、妹と私は同じタイミングで死ねるし寂しくないのでは?と考えていた。しかしながら現実は思ったより早くやってきた。

 生まれて2ヶ月で妹は亡くなった。朝早くに母が私を起こして、「妹ちゃん、やっと楽になったんよ。」と言って、私は「嘘やん」と言ったのを覚えている。家の和室で小さな葬儀をあげた。親戚の人たちがやってきて、父も母も泣いており、私は泣くのを我慢するために妹が寝かされている布団の模様の数を数えていた。棺桶は見たことがないくらい小さくて、父の車で火葬場に連れて行った。サラ・ブライトマンの「私を泣かせてください」が車のステレオから流れていた。他のことはあまり覚えていない。

 それからしばらくして、家族で外食に行った日のことである。家族3人で中華料理を楽しむ予定だったのだが、隣の席にいた若い夫婦が赤ちゃんを抱いており、その赤ちゃんが泣き出した時、私の母がそれを見て泣き出してしまったのだ。父はなんとかして母を宥めていたが、出先で母が泣く姿を初めて見た瞬間だった。その時私は「母を泣かせないように、悲しませないようにしなければ。」と幼いながらに使命感を抱いたのを覚えている。
 
 それからの私は、「赤ちゃん」から母を遠ざけるのに必死になった。当時は父の車でよくジャネット・ケイのアルバムを聴いていたのだが、3曲目に赤ちゃんの鳴き声が入ってる箇所があったため、そのタイミングになると私は母の注意を自分に向けるためにどうでもいいことをたくさん喋った覚えがある。私は幼いなりに母の傷を庇おうと必死だった。

 だが1つ肝心なことを忘れていることにその当時の私は気づいていなかった。当然ながら、母や父だけでなく私自身も傷ついていたのである。なんなら妹の死後、クラスメイトに妹がいて羨ましいと言い、そのクラスメイトに「あんたは妹がいないから大変さがわからないんだよ」と言われてさらに傷つくなどしていた。私にも十分に大きな傷がついていた。だが無視してきた。信頼した友人に軽く打ち明けることなどはあったものの、誰かにきちんとケアされたわけではなかった。1度与えられて奪われた絶望感は大きく、親戚の集まりがあるたびに兄弟がいる従兄弟たちを妬ましい気持ちで見ていた。妹の死が私に与えた傷は「自分の片割れの不在」として私の心の中で燻り続けた。それをきちんと自覚し言語化できたのは心理検査後のカウンセリングの中であった。妹の死からおよそ20年後の気づきである。私は初めて他人に泣きながら妹のことを話した。自分の中の閉め切った場所に少しだけ風が吹き込んだ気がした。

 それから数日後、心理検査の結果を親に見せて、妹の話を母に話した。号泣しながら話した。母も泣いていた。子どもの頃絶対悲しませてはいけないと思っていた母をまた妹のことで泣かせてしまい申し訳なく思ったが、心の中で何かがストンと落ちた気がした。私は母をケアしようと必死だったが、そもそも私が母によってケアされる必要があったことを理解した。私は妹が死んだ時、「私には何もできなかった」と無力感と罪悪感を抱いたが、当たり前のことながら医者でもどうにもできなかったことを子どもの私がなんとかできるわけがないし、自分を責める理由もなかったのだ。この時初めて、私は私を許してあげられた気持ちになれた。使命感も無力感も罪悪感も感じる必要などなかったのだ。私は何も頑張らなくて良かったし、私は何も悪くなかった。勿論父も母も妹も主治医も誰も悪くなかった。それだけに悲しみのぶつけどころがなく、その矛先が自分に向かったのかもしれないが、私はただ妹の死を悲しむだけで良かったんだと大人になってやっとわかった。ここまでくるのに20年近くかかった。

 未だにこの傷は100%は癒やされていない。時々思い出しては「なぜ死んだのは私ではなく妹の方だったのだろう」などと余計なことを考えてしまう。だがこうやってブログに書いたり、誰かに話したりして外に出していくことによって緩和されていく痛みもあるんじゃないかと思っている。傷は癒やされてほしいが、妹のことを忘れたいわけじゃない。上手くバランスをとりながら、付き合っていけたらいいなと思っている。

 ちなみに妹の名前は沙耶といいます。良かったら心の片隅で覚えていてください。(妹が生きていたという痕跡を残すという名目で妹の個人情報をばら撒く極悪姉)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?