劇団しようよ版『あゆみ』が本番まで一ヶ月なので(2015/4/27)
「今回の作品はだれに見てほしいですか?」
よくよくそういう問を投げかけられます。
それに、これまで僕はうまく答えられなかったな、と思い返しています。もちろん、それを突き詰めることが、たくさんのお客さんに見てもらうことになるはずだとも分かっていましたし、その焦点をさだめるということが創作の中でのひとつの軸になりえるとも思うからです。
けれども、どうしてもそれをうまく言えることができなかった、ああ、ちくしょう、と思っています。
さらに言うとすれば、自分以外の方に見てもらいたいというのは、めちゃんこ当たり前で、そんなわざわざ区切りをつけて、見て欲しいひとなんて、ちっちゃいこと考えておらず、ましてや、きっとすべての人に通じるものがある!だなんてことまで考えていたのだと思います。すみませんでした。
さてさて、そんなことを26歳になってまで言っていられないので、そういう問題にも向き合い、一定の回答(というか、計画というか)を出していくことを試み、それらしいことをああだこうだずっと考えたりするのですが。
根本的に見に来て下さる方々ってどんな情報をもっているんだろう。
ということが大変難しく、どうそれに思いを巡らせるかということに四苦八苦します。
お客さんは、どんな人生を経てきた人たちで、どんな原風景があって、そしてこの劇団しようよに触れたとき、なにを納得して、なにを受け入れられなくて、どういうことを演目をとおして見るんだろう。
そこを果てなく想像してはみるものの、手をすり抜けていく煙みたいなもののように思えて、うまく掴むことができず、どこかでとっても怯えながら作品を作っているんです。
僕は、例えば俳優さんは迷って欲しい。
し、ひいては創作者は、おおきな怯えや恐怖の中で、ものをつくるべきだと、思っています。それは、目の前の不透明さにたじろぎながらも、それでも一歩一歩、あゆみを進めるということ、なにかをつかもうと手を伸ばすこと、その誠実さと切実さとが、作品という実を熟させるのじゃないかなと思っています。
その怯えの中で、自分のもっているゆるぎない技術を、どこのだれにそそぎこむのかっていうのが、一番上に記したことなんだと思います。
でも、不遜ながら大きくものをいうとすれば、僕はそれでもすべての人にむけてつくるということへのあきらめは持たないでおきたいと、実はひっそり野望として心に忍ばせています。
でもそうしたところで、もちろんこれから出会う人たちのことを想像する範囲の広さというものは、拡大するばかりで、それに比例するように、怯えるということも大きくなっていくんだと思っています。
劇団しようよ版『あゆみ』、稽古後半戦スタートの中、その怯えみたいなものがより一層強くなってきた感じです。それに立ち向かう所存です。
よろしくお願いいたします。
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