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【きれい事】きれい事にある真意

「きれい事だ」そう思う事はありますか。

きれい事と言う言葉を辞書で調べてみると、「実情にそぐわない、体裁ばかりを整えた事柄」と載っています。

その他にも「手際よく美しく仕上げること」とも載っていますが、きれい事という言葉が使われる時は「実情にそぐわない、体裁ばかりを整えた事柄」の意味の方が多いように思います。

確かに「きれい事だ」と言われる事に、そのような意味に該当する事があるようには思います。

しかし、すべての「きれい事だ」がそうかといえばそうとは限らず、本当はきれいな事なのに何もしていない自分を隠す為に、きれいな事をきれい事だと言っている時もあるように思います。

きれい事だという言葉だけでは、それが体裁ばかりを整えた事なのか、きれいな事をしていない自分を隠そうとしているかは、外から見ているだけではわからないように思います。

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それなのに人は「きれい事だ」という言葉の強さに惑わされてしまい、きれいな事をしていない事を隠そうとしている事を、体裁ばかりを整える事であるできれい事だと思ってしまう事があるように思います。

きれい事と言う言葉を、きれいな事をしていない自分を隠す為に使う時にあるのは、楽をする心だと思います。

きれいな事をした方が良いとわかっていても、楽をしたいという思いが強いと、それをしようとしない事もあるように思います。

そこには自分の事だけを考える思考があるように思います。

誰もが自分の事を考えるとは思いますが、自分の事を考えるとは自分の事だけを考える事とは違います。

自分の事を考えるとは、自分の事と同じように周りの事も考える事で、同じ自分の事であっても、自分の事だけを考える事とは雲泥の差があります。

しかし、自分の事と自分の事だけの間にはただ線が引かれているだけで、自分がその線を越えないように意識していかなければ、簡単に越える事ができてしまいます。

普段は自分の事を考えている人でも楽をしようと思ってしまうと、自分の事の線を越えて自分の事だけ考える思考に踏み入ってしまうようになります。

楽をする事がいけない訳ではありませんが、楽をする事でした方が良いきれいな事をしていかないのであれば、その楽はしてはいけない楽だと思います。

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本当に体裁ばかりを整える為だけの事を「きれい事だ」と言っているのであれば何も問題はないと思いますが、そうでない時は問題があると思います。

きれい事だと言われている事がどちらに該当しているのか、その事を自分がしっかり見極めていく事は必要だと思います。

口が上手い人ほど、自分の良くない行動を隠す為にきれい事だという言葉を使う事があるように思います。

本当にきれいな事をしていく為には、楽をしながらできる事はないように思います。

楽をするどころか、どちらかというと労力がいる事の方が多く、時には苦労する事もあると思います。

きれいな事をする為の苦労が、楽になるのは良い事だとは思いますが、苦労はしたくないと、きれいな事をきれい事だと偽って楽をしようとするのは良くないと思います。

時おり見かけるのが、きれいな事をできないというよりはしたくないので、きれいな事をきれい事だと言って、きれいな事をしない自分を隠そうとする事です。

こうした方が良いと思った事を提案すると「良いのはわかるがそれはきれい事だと」とサラリーマン時代に言われた事があります。

良いのがわかると言っている時点で、その人もその事が良い事であると思っているといえ、良いと思う事をきれい事だというのは言葉としては適切ではないと思います。

その後に何度も提案し直しても、きれい事だの一言で取り合ってもらえない事がありました。

今から思えば、私の提案の仕方にも不十分な所があったとのかもしれませんが、その時は自分の思いが強すぎて、相手の状況を見る事ができていなかったように思います。

後から思えばきれい事だと言っていたのは、良い事であっても自分はその事をしたくないがそれをしたくないと言えなので、きれい事だと言って突っぱねていただけのように思います。

した方が良いきれいな事をきれい事だと言われてしまう事があるのは、した方が良いきれいな事をしたくないという思いが隠されている時だと思います。

きれい事と言われる事が本当にきれいな事であるならば、そのきれい事はした方が良い事だと思います。

きれい事という言葉は、きれいではない事の体裁を整える為に使われているのか、きれいな事をしたくない為に使われているかは意外とわかるような気がします。

それなのにきれい事という言葉が使われると、きれいな事であってもきれいではない事のように思ってしまう事は良くあるように思います。

きれいな事をしていない事の責任から逃れる為に、きれい事という言葉を利用している事もあるように思います。

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時にはきれいな事をする事が難しいかどうかで、その事がきれい事かどうかが決まってしまう事があるように思います。

そこに居る人の多くが難しいと思う事であればきれい事になり、そでなければきれいな事になる、そんな事があるように思います。

個人的には、その事がした方が良い事であれば、どんなにきれい事だと言われる事があってもそれができるようにしていく方が良いと思います。

例え、現状ではできない事であっても、その事をきれい事だとしてその事から目を逸らしていく事は良くないと思います。

多くの「きれい事だ」と言われる状況には、きれい事だ言っている事をした方が良いのはわかるけど、できないという状況があるように思います。

仮に、したくてもできない状況があるならば、少しでもそのきれい事と言われているした方が良い事が、できるようになる状況になる為に、今の自分たちができる事をした方が良いと思います。

それなのに、そのような行動をする事もなく頭から「きれい事だ」と言っている事は、その事からただ逃げようとしているだけのように思います。

そこには、自分が良ければいいと思う、自分の事だけを考える利己的な思考があるように思います。

できる事ならした方がが良いと思う事であれば、どんなに多くの人がその事を「きれい事だ」と言っていたとしても、した方が良い事だと思います。

その時に大事なのは、まずは今の自分たちにできる事から始める事だと思います。

今の自分たちができない事ができる人はいません。

できない事はまずはできるようになる事が必要で、できない事を「きれい事だ」と言って避けていてはできない事ができるようになる事はありません。

「きれい事だ」と言っている事が、今の自分たちにはできない事でありならば、その事ができるようになる為に今の自分たちは何をしていけば良いのかを考えていく事が必要です。

それを考えるには「きれい事だ」と言って避けるのではなく、その事ができていない自分と向き合う事が必要です。

した方が良い事だけど今の自分たちにはできない事であっても、その事と向き合う事によって、自分たちが何ができるようになればその事ができるようになるかがわかってきます。

今の自分たちができないした方が良い事を「きれい事だ」と言って向き合わないようにしていては、した方が良い事ができるようになる事はなく、自分たちが成長していく事もありません。

今の自分たちができないした方が良い事を「きれい事だ」と言って、できない自分をできるように見せかけていくのはやめましょう。

どんなに「きれい事だ」と言って、した方が良い事をせずに良い事に見せようとしても、その事が本当にした方が良い事であれば、最終的にその事で困るのは自分だと思います。

「きれい事だ」そう思う事は、体裁ばかり整えている事なのか、自分がしようとしていないした方が良い事なのか、どちらの意味で言っているかで、自分の人生は大きく変わってくると思います。

きれい事という言葉にある真意を見間違えてしまうと、自分の人生にとって大きなマイナスになっていくように思います。

した方が良いきれい事は、きれい事と言うよりはきれいな事だと思って、そのきれいな事をしていけるようになる為にしていく事が必要だと思います。

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「きれい事だ」そう思う事はありますか。

体裁ばかリを整えて実情がない事であるならば
その事はきれい事だと思います。

しかし、そうでない事はきれい事ではないと思います。

どんなに多くの人が「きれい事だ」と言っていても
本当はきれいな事であるならば
その事をきれい事と言うのは違うと思います。

どんな事もきれいにできた方が良いと思いますが
すべての事が完璧にできる事はないと思います。

それなのに人はきれいな事であるならば
すべて完璧にできなければいけないと思う事があります。

すべての事が完璧にできる事がないのであれば
きれいな事がきれいにできない事もあるはずなのに

なぜかきれいな事に関しては
できない事はいけないと思う事があります。

そう思ってしまうと
きれいな事ができない自分がいる時は

その事を「きれい事だ」と言って
きれいな事ではないように見せていくように思います。

きれいな事を「きれい事だ」と言う事で
きれいな事でなくなる事はありません。

きれいな事を「きれい事だ」と言って
その事をしなくても良いようにしている人が
なりたい自分になっていけるとも思いません。

今の自分がきれいな事ができていなくても
きれいな事ができるようになる方が良いと思って
できていない今の自分を自分が認め、受け入れる事で

その事ができるようになる行動がわかってきて
なりたい自分になっていけるようになると思います。

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