「勉強会に参加した」という事実だけではお前は成長しないんだぞ問題

これは反省である

今年1年、様々な勉強会に参加し、いろいろな人とつながり、話をした。
学びはあった。あったはずなのだが。
今一度戦利品を整理すると、残ったものはほんのわずかだ。
私は勉強会で何を得たのか。

「馴れ合い」が目的になったら行かない

企業がスポンサーをする大きなイベントに参加すると、取引先に挨拶に回るのが慣例となっている。
来年から時間の無駄なので行かないことにする。
いろいろな人が勉強会を主催する。
まずはネットワークの近い人が参加する。そして少しずつ、主催よりも「遠い」人が参加するようになる。
勉強会は本来「今の自分にない情報を得る場」だと考えている。そういう意味ではネットワークも発表も重要だ。
だが、ただ主催者の顔を見て酒を飲むだけならSNSでDMを投げればいい。
応じれば友達、応じなければそれ以上仲良くなれないというだけだ。
少なくとも主催者と仲が良いから行くというのは、主催者と遠いネットワークの参加者に対して敬意を払えていないように思われて仕方がない。
自分が行く勉強会に、自分の持っていないものが得られる期待があるのかどうかを見極めることのほうが重要だと思った。

「勉強した気になる」病

勉強会にいくと、具体的な言葉に落とせない「刺激」を受ける。
これは果たして事実だろうか。それとも錯覚だろうか。
このように疑問を持つことは重要だ。具体的にどのような「刺激」を受けたのかを言葉にできるのであれば、それはきっと言葉にした範囲で刺激になるのだと私は考えている。
例えばTech系なら「この実装は知らなかった」「このライブラリ/OSSは有益だ」など、具体的な内容を記憶して、それを実際に活用できればよい。
非Tech系でも、考え方のフレームワークや新しい概念、見方を学び、それを人生の場面で活かせればよい。
よく聞く感想に「すごく刺激になった!」「勉強になった!」「明日から頑張る!」などという小学生並みの感想があるが、こういう感想しか持てない場合は、たいてい「勉強した気」になっているに過ぎない。せっかくの勉強会というチャンスを無駄にしたという事実に向き合い、反省したほうが良い。
よほどのことがない限り勉強会の内容はオープンなのだから、ちゃんと何が学べたのかを言語化したほうが良いと思う。

「私はこの勉強会で何を学んだのか?」という自問

そういう意味で、勉強会の参加録を書き起こすというのは、自分が何を学び、何を得たと認識しているかを言語化できる点で合理的だと考えている。
言語化できなかった勉強会は、少なくともその回は、きっと私がちゃんとインプットすべきことをインプットできていなかったのだと思う。そのように反省する。
そうして究極的に「何を学びたいのか、何を得たいのか」に向き合うことになる。

「何も得られなかった」ことを勉強会の責任にしない

「私の知りたいことをあの勉強会で知れると思ったが、そうではなかった」という場合は少なくない。その場合、意志の弱い人間は「あの勉強会が悪い」と考えてしまう。意志が弱いので仕方がない。
「私があの勉強会で学べなかった」ということを受け入れる精神性をもったほうが良い。私以外の誰かが、あの勉強会で人生を変えるような発見をしたかもしれないことを、否定することだけは避けたほうが良い。
主催側だって、お前に学ばせないコンテンツをわざわざ選ぼうなんて考えていない。むしろ参加者のすべてに良い学びを提供するために必死に考えている。
この点に敬意を払えないのなら、勉強会に参加することそのものを考え直すことのほうが有益だと思う。

キャリア論勉強会での学び

キャリア論を語る勉強会も増えてきた。悪いことではない。先人が模索して到達した場所に、アスファルトを敷く。先が見えるだけ私たちは「歩きやすく」なる。
ただ、この類の勉強会で、私たちは何を学ぶべきなのだろう。
ただ、そのアスファルトの敷かれた道だけを進むことになんの意味があるだろうか。「他人の敷いたレール」だぞ?
キャリア正解はないのに、人は正解を求めたがる。キャリア論において個人の経験は局所解だ。
しかして大域解などない。「私にとっての解」を見つけ出すしかないのに、なぜ「正解」を欲しがるのか。
諦めろ。この先、少なくとも我々がその生を終えるまで、人生に王道などないのだから。
アスファルトの歩き方より、先の見えない藪で道を切り開くための鎌の扱い方を知ったほうが有益だ。
ハイハイからヨチヨチ歩けるようになる方法なら学びもあろう。
だが、私は既に錆びた鎌を持っている。そう自覚する。ならばレストアする。研ぐ。私が学ぶべきはアスファルトを敷くべき道の見つけ方、鎌の研ぎ方、振るい方なのだ。「アスファルトの上を歩く方法」ではない。
一つまた霧が晴れた。

ねんまつ

最近意識の高いワナビがいろんな勉強会に出て抽象的な学びばかりを得ている。危機感をもっている。
私たちは学んだことを言葉にするしかない。
言葉にできないなら、私たちは学べていない。それに気づいたら私たちはどうするべきか?
古代ギリシャの古参哲学者は「言葉にする」ことを恐れたという。知ったことではない。「在り方」こそ、今言葉におこすべき問いだ。
2019年が終わる。私はどう在ることができたか。2020年が来る。私はどう在りたいか。

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