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ノンデュアリティ非二元さんたちの薄さ

西洋経由の非二元はノンデュアリティといいますけれど、
わたしはこれをナイナイ非二元とか、ノンデュアリティ非二元とか、ネオアドヴァイタとか、ネオ非二元とか、非二元かっこして(ノンデュアリティ)とか、まあそういう言い方をします。

インド哲学を知らない(知ろうとしない)、「ない」とか「いない」とかいうふわふわした非二元のことです。

わたしはこのナイナイ非二元に関しては疑問を持っているし、
あまり時間を割くのも疲れるほどにめんどくさいのですが、
note以外のブログ等ではこれまでも触れることがありました。
(以前のブログ、アメブロでの記事はゆくゆくこちらに移す予定です)

めんどくさいのに触れていた理由は、
ナイナイ非二元は精神疾患の改善を遠ざけてしまうことへの懸念、
ナイナイ非二元に疑問を持ちながら迷子になっている人への声掛けとして、
また何より、個人的に時折触れざるを得ない機会に置かれること、等がありました。
残念ながら、おそらく今後も時々は触れていくことになりそうです。
これまでは柔らかめに言うこともありましたが、これからはきつい言い方をすることもあるかもしれません。
それはナイナイ非二元のことだけではなく、スピ系や自己啓発系の一部についての疑問にも。

ちなみにわたしはナイナイ非二元さんたちと対立したいわけではありません。
これはnoteではまだ書いていないことなので、追々と。

さて、
最近、ナイナイ非二元さんたちの色が、ますます薄く見えます。
当たり前なのです。
自分で「本当は生きていない」と言ってしまうので。

これ、絵を描く人はわかるかな、
しっかり大地に根を張って生きて、活力のある人は、色が濃いのです。
オーラとかじゃなく、その人自身の色が濃いのです。べったりというか、しっかり強い濃さの方もおられます。もちろん良い意味です。

それはYouTubeなど画面を通してもわかります。

この次元世界で、本当はない、いない、を土台としてしまう人は、薄い。
水彩のような薄さではなく、色自体が付かない、透明寄りの薄さなのです。
この場合の透明は良い意味ではありません。
これは顔出しをしていない、例えばブログ等でも同じように伝わります。
自分で"あってもいい存在"までをなくしてしまうので、なんとなく気の毒にも感じます。
…ちょっと、胸が痛くなります。

別にね、本当は「ない」「いない」で楽になっているのならいいのだよ。
それもありです。
けれど、そこに???と思ったら、また戻ってきていいのですよ。
ちゃんと。この世界に。

だってあなたはここではちゃんといるのですから。
生きていいのですから。

念のためナイナイ非二元さんたちにお伝えしておきますが、
本当に非二元をいうのなら、この記事に対する批判も否定もないはずなのですよ。これはnote以前から言っている通り。
それがわく、っていうのは言いたいことはわかるのですけれど、この際限りなく言い訳に近いといえます。


#lightStream非二元スピ系宗教系問題

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