芸術を評価する態度について
〜はじめに〜
仰々しいタイトルになっておりますがこれは単なる私の愚痴と自戒であり「大層な啓蒙のやつ」などではございません
あと「啓蒙」という言葉が私あまり好きではないのです 自ずから「〇〇によって自分の蒙が啓かれた」と言う分には全くよいと思うのだが
そもそも「啓蒙」とは「人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと」 最近この「正しい」という言葉にめ〜ちゃめちゃ敏感になってしまう自分がいて過剰反応、過剰に嫌悪してしまう いやもうそんなん何を「前提」とするかでなんとなく決まってくるやん「正解」がよって話なんのですが
「前提」を疑わない態度、一つの価値を絶対化し固定させる態度がいかんのだ 前提を疑わないから「絶対」だの「正しい」だの軽々しく言えるのだと思うわけです己は
ハ〜なんか「啓蒙」っぽくなってきたので前置きもうや〜めた
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音楽、映画、アート作品、あらゆる芸術には「批評家」というまあ大層ご立派な職業の方々がぞろぞろ頼んでもいないのに付き纏う そしてこの時勢、全ての人々がレビュー欄で片手間の批評家になりうる 無論、私自身も例外ではない
そんな地球人総批評家時代において私が唯一許せない類の映画のレビューがある、それは
「よくわからなかったので☆1です」
「お前は!!金輪際!!未来永劫!!芸術鑑賞をやめてしまえ!!」
とリプライしたい気持ちを毎度必死に抑えている… 自分が好きな作品にぶら下げられたものであるなら殊更に…
そもそも「分からなかった」は単なる感想であり「評価」にはなり得ないだろ… 何なんだろうか…って言うか、自分の「分からなさ」くらい自分で分解して解明しろよ…
むしろ「分からなさ」を楽しむくらいの余裕を持って臨めよ!!
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(失礼、取り乱してしまった しかし上記のことがどうしても言いたくてこの記事を書いている)
そもそも「分からない」という感想は「作品が」ではなく「『自分が』どう思っているのかが分からない」、「この作品をどう楽しんだらよいのかが分からない」であることが大概だと私は推測する(「単純に寝落ちて人物の関係性やストーリーが分からなかった」という趣旨のとんでも発言である場合を除く)
つまり「分からない」「楽しめない」のは自分自身にその作品を楽しめるだけの土台が備わっていないからである
「分からない」から低い評価をつけるのは作品に対するとんだ逆恨みであるとまずここに断言しよう
加えて、いきなり全てを「分かろう」とする傲慢な態度や、分からなかったときに不機嫌になって拗ねるという幼稚な態度を慎もう〜大自戒ね
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まず、自身の体感として確実に言えるのは、その作品を何度も何度も繰り返し鑑賞することで徐々に、そして確実に「分からなさ」は別の感情や気分に変質していくということだ これにはある程度の時間がかかるし、悲しいかな普段から物を考えて生きていないとそもそも自分の経験と照らし合わせるフェーズにすら及んでいかない
また、その「分からない」作品と類似する作品に触れることが必要だ 同じ作者、テーマ、時代など、共通点のある複数の作品を鑑賞するのは「分からなさ」を変質させていくために非常に重要な行為だ
往々にして「分からない」状態に陥りやすい分類の作品というのは、自分がそれに関連する情報を全く持ち合わせていないものではないだろうか 言わば処理落ち状態
映画、音楽、アート、何してもストーリーや構成、音色、モチーフ、テーマなどが似たような作品を鑑賞したことがあれば「分からなさ」や混乱は俄然起こりづらいはずである
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自分はウィスキーが好きで1人で飲むときは大抵ウィスキーをなめながら楽しくやってるわけなのだが、はたちで初めてウィスキーを口にした時から美味しさやその楽しみ方が理解できたわけでは当然ない しかし、とにかく香りが好きだから香りを楽しみながら飲んでいけばいいじゃんという心持ちで半年間ほど1人でウィスキーをちびちび口にしていった頃にはウィスキーの美味しさを見出せるようになっていたし、ウィスキーを飲めるようになったことでジンやテキーラ等、他のアルコール類にも食指を伸ばし、一定の忍耐の期間を経て今は楽しめるようになった
お酒は芸術と多くの類似点を共有している 自分なりの楽しみ方の軸を据えていると多少は近道なのかもしれない
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そもそも「評価」とは、特定の評価基準をもとに点数を付けていくような「絶対的な行為」の側面もあれば、比較対象の存在なしには発生することができない「相対的な行為」の側面もある
殊に、芸術作品に対しては「絶対的な行為」としての評価を行うことや、「絶対的な価値」を付与することは不可能だ (これは大いに私の希望的観測でもあるし、無論、何を『絶対」と定義するかにもよるのだが、芸術作品の全てを絶対的に評価できてしまうなら芸術はその効力を完璧に失うだろう)
詰まるところ、芸術に関して言えば往々にして相対的に評価することを強いられるわけである または「自分の中での絶対的な評価基準」を構築していきたいにしても、いずれにせよ多くの作品を鑑賞することは必要だ
作品の制作に関する裏話や作者へのインタビューを目に通すのも良いかもしれない 作者の意図を情報として持っておくことで見えてくるものは大いにあるだろう また、鑑賞に目的を持つことでただただ流したときとは異なる視点でもって作品に対峙できるはずだ
他人のレビューを見てみることも一先ず「分からなさ」から脱却するのには効果的かもしれない
他人のフィルターを通してではあるが、ある程度言語化されたものを見ることで何かとっかかりが見つかるかもしれない
無論、それで納得した気になって終わってはあまりにもったいないので本当はあまりよくないと思っている
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しかしながら「分からない」状態、何にもカテゴライズできない状態をそのまま宙ぶらりんにしておけずイライラしてしまうようなネガティブケイパビリティに欠けていること自体いかがなものかと思ったりもする
詰まるところ「なんか余裕がない」態度で芸術には到底向き合えないことはその他どんな有益なTipsよりも肝に銘じなければならない(再び大自戒)
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まあそもそも「芸術を評価するシステム」自体がくそ喰らえなんですけどね!!!
(あ〜あ、ぶち壊し ためるよね〜)
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人間は幼い頃から慣れ親しんできたものを評価しがちだ これは芸術や文化に限らず、あらゆる分野においても同じことが言えると思う
「なぜ人は自分が親しんできたものを評価したがるのか?」少し考えたがこれはいわゆる「象徴闘争」なのではと思う 私たちは自分らの誇りをかけ象徴で殴り合っている この乱闘パーティーに気づいた頃には放り込まれてしまっているため「純粋に好き」が発生しづらい、というより困難
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同じものが好きでも「私の好きは『純粋な好き』『熱心な好き』であの人の好きは『不純な好き』『薄っぺらい好き』だ」と思いたがる人は往々にしているし自分が例外だとも思えない
そういう時、自分は想像力が足りないな〜と思うし「別に不純でも薄くてもいいじゃん」と思えない心の狭さに辟易する 自分以外を薄っぺらい人間だと間抜けな勘違いして胸中でマウントとるなんて虚しいだけだな〜馬鹿みたい
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心が貧しいのはいけない おいしいもの食べてあったかい布団で寝よ〜
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