予告編:『プリズン・サークル』を観てくるよ!

今度、『プリズン・サークル』という映画を観てくることにしました

映画を知るきっかけになったのは、ハフポストさんのこちらの記事。

ハフィントンポスト日本版
罪を犯した人は「変われる」のか? 刑務所を撮影したドキュメンタリー映画『プリズン・サークル』に込められた思い

私は、罪を犯した人は殺したいほど憎いと思う人間ですが、日本の死刑制度には疑問を持っています。

(疑問)「人は、人を殺す権利を持っているのか?」

「殺人罪」という罪があります。人は、人を殺してはならないという倫理観から生まれた罪状だと個人的には思っています。では、国家による「殺人」である死刑制度は、「殺人罪」には当たらないのでしょうか?

私は法学部卒ではありませんし、哲学の学徒でもありません。この分野について語るにはもっと見識を深める必要があるでしょう。

正直なところ、調べものも勉強も、しなくていいならしたくないです。
ですが、障害当事者として、相模原市での障害者無差別殺傷事件を機に、公共の電波で「障害者は消えてほしい」「障害者を養う余裕は国家にはない」という排他的なコメントが流れるようになって、ふと思ったのです。(障害者のほとんどは罪を犯した人ではありませんが、)世間一般の「障害者へのまなざし」と「犯罪者へのまなざし」の根底に流れるもののひとつには、「彼らの存在が消えてほしい」という共通の視点が含まれているのではないかと。

相模原市の被告の「障害者は生産性がないから殺した」という趣旨の供述は、「人には、都合の悪い人を殺す権利がある」と主張しているように私は感じました。
私は、この「都合の悪い」を恣意的に定めて殺人を計画あるいは実行することは、酷く差別的な人権侵害であると考えます。

では、これを犯罪者に向けて考えることは可能でしょうか?
犯罪者は、国家にとって「都合の悪い」存在です。ですが、日本という国ひとつとっても、「犯罪」の定義は時代によって移り変わってきました。時代によって移り変わってこなかった国を探すほうが、現代では難しいのではないでしょうか?
これは、長期的な視点で見れば「都合の悪い」を恣意的に定めていることにはならないでしょうか?もしそうなら、死刑制度は人権侵害である可能性があります。

(私の疑問に対する反論例)被害者に向けて、死刑廃止なんてことが言えるのか?

もちろんのことですが、事件によって一番人権を侵害されているのは被害者です。日本はもっと、被害者への公的サポートを手厚くすべきでしょう。

ですが、人権侵害を受けたからといって、人権侵害をやり返していいのでしょうか。
もちろん、「加害者が死ななければ感情的に納得がいかない」「加害者の存在が生理的に許しがたい」という感覚は私にもあります。

被害者の心理的・経済的なサポートは必要だと思いますが、量刑として加害者の命を奪うことは「サポート」に含まれるのでしょうか。死刑制度は被害者がエンパワメントされるのに必要不可欠な事項でしょうか。
私は、今すぐにはこの問いに肯定的なコメントを返すことができません。

そもそも、犯罪者は「変われない」のか?

死刑とは、更生の見込みがない、つまり「変わる余地のない」犯罪者に求刑される刑だと思います。
しかし、犯罪者は本当に「変われない」のでしょうか。

『プリズン・サークル』は刑務所で実際に行われている更生プログラムを追ったドキュメンタリー映画です。先に引用したハフィントンポストの記事で、私は人が変われる可能性を感じました。
詳細については、映画を観賞のうえ、考えたいと思います。

考えよう、死刑のこと、刑務所のあり方のこと

私たちは、もっとこのことについて理解を深め、死刑制度を維持するにせよ廃止するにせよ、制度の存在意義を問い直す必要性があるのではないかと思います。
この映画は、それを考えさせてくれる契機になると感じています。

【参考】
映画『プリズン・サークル』公式ホームページ