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[青山ベルコモンズの思い出を語るクリエイターたち]より

-アーカイブス-
青山エリアのランドマーク「the ARGYLE aoyama(ジ アーガイル アオヤマ)」は、このエリアのシンボルとして愛されていた「青山ベルコモンズ」跡地に完成しました。
「青山ベルコモンズ」の閉館の際のウェブサイト、「ありがとうベルコモンズ」の「青山ベルコモンズの思い出を語るクリエイターたち」に当時寄稿させて頂きました。(一部加筆させていただいております。)

青山の街にも思い出が深いというヘアー&メイクアップアーティスト・水島裕作氏に、当時のファッションや青山という街について、また青山ベルコモンズへの想いなど様々なお話しを伺いました。

●米国で一番有名な日本人ヘアドレッサーであった須賀勇介氏に師事された水島氏。ヘア&メイクアップアーティストを目指すことになったきっかけや、現在のご活躍までの道のりについてお話を伺いました。

幼少の頃から、父親から「一流になるには、まず一流の人に出会わなければならない」と常々聞かされていましたが、僕は、特にヘア&メイクアッ プアーティストになるのが夢というわけではありませんでした。 そんな大学生時代を過ごしていたある日、たまたま書店にて「須賀勇介の ビューティフルへアー」という本と出会いました。その時、直感で「この方は世界の一流の人だ!」そう思いました。引き込まれるように誌面を読 むと、職業は美容師だということが分かったんです。それで、「この人の近くに行きたい」と強く思い、それなら自分も美容師にならなくてはということで、初めて美容師を目指すことに決めました。それが、全ての始まりでした。 山野美容学校を卒業後、東京にて須賀先生がディレクターを務められてい た「STUDIO V cut shop」にて、運よく働くことができました。素晴らしい環境の中で、多く先輩から技術を指導して頂きました。そして、須賀先生が来日の際には、念願だったアシスタントをさせていただき、一流のアーティストの振る舞いに触れることが出来ました。数年間でしたが在籍中は、多くの大切な事を学ばせていただき、僕の一生の財産になっており感謝しております。

そこから、僕のヘア&メイクアップアーティストとしての道がスタートしました。デビュー時には、テレビ番組の大きなお仕事のレギュラー。また、ファッ ション雑誌、広告、ファッションショーなど、様々な仕事の経験をさせていただきました。本当に僕は幸運で、順調に仕事も進んでいたのですが、 30 歳を過ぎたとき、「もう1つ次のステージに自分を成長させたい」そう思うようになったんです。それで、全ての仕事を中断して米国へ渡ることに 決めました。 ボストン大学にて少し英語を学んだあと、ニューヨークのアッパーイーストサイドにあった師匠・須賀先生の「SUGA SALON」にて勤務することができ、その後帰国しました。その時の経験というのは、自分の中ですごく大きなもので、その後、仕事の流れも急に変わったんです。 ジバンシー・オートクチュールや劇団四季のミュージカル、等々。 また、メイクアップですごく大きな影響を受けたのは、メイクアップアーティスト、チボー・ヴァーブル氏に出会ったことです。ご一緒させていただく中で、 パリのエレガンスやソサエティというものを学ばせていただきました。
ヘア&メイクアップアーティストという仕事をしていて思うのは、やはり、ただ素晴らしい技術だけではなくて、人間力が最も重要だということです。 今まで、本当に多くの出会いがあり、様々な経験を積ませて頂きましたが、 それらが一体何に向かっていたのか...。そう考えると、やはりそれは、この仕事を選んだ時の原点、“一流の人間になりたい” という、自分の中の大きな目標に向かっていたのだと改めて感じます。その願いは、これからも変わることはありません。

ベルコモンズと共に過ごした時代。
●青山ベルコモンズが誕生した頃はちょうど青春時代から大人になりかけていた頃だったという水島氏。当時のファッションや文化というのは、水島氏にどう映っていたのでしょうか?

とにかく日本のファッションが輝いていた時代だった気がします。DCブランドなど、いわゆる “憧れのブランド” が出てきた頃ですね。そのちょっと前は「VAN」がカッコ良かった。 いわゆるアイビースタイル。その後はヨーロピアンが盛り上がっていて、偉大なファッションフォトグラファー、アベドン氏がニューヨークで撮られたモードな「JUN」のTV コマーシャルは今でもはっきりと覚えています。あの時代、日本のファッションというものがとても勢いがあって、国内だけではなく、世界へ向けても発信し始めた時期だったのではないでしょうか。 クリエイターも、世界のトップに立つ人達が出始めて......なんだか、“幕開け” という感じでしたね。当時の僕ぐらいの年代、ちょうど大人になりかけの世代だった人達は、そういうパワーや、輝いていた時代というのを間近で見ることができた最後の世代なのかもしれません。
あの頃の若者というのは、今の若い方とは少し違って、皆、大人っぽかった気がします。今の女の子って “カワイイ” ですが、あの頃はそうではなくて、大人っぽく見えることが格好良いというか...だから皆ハイヒールを履いたり、モガのTシャツを着たり、セリーヌのバッグを持ったりして。

今はファストファッションの時代ですが、当時はそういうのはなかったんです。ファッション・スタイルは、シーズンごとにガラっと変わっていました。流行の 移り変わりがすごく顕著で早かったんです。パリコレなどで、次々とニュースタ イルが発表されるわけですね。そうすると、どこのブティックへ行っても、示し合わせたように、新しいデザインの洋服や靴しか売ってないんです。ヘアースタイルやメイクアップも、ファッショ ン雑誌などで最新のトレンドが打ち出されると、皆それを真似てガラっと変わ るんです。ファッションはシーズンごとに、頭の先からつま先まで、全身変わっ ていく...そんな感じでした。また、それを追いかけるのが、すごく楽しかったんですね。
今思うと、あのパワーの根底にあったのは、“もっと、もっと、成長したい” と いう気持ちだったような気がします。ただ流行に流されるという事ではなく、自分を高めるために、無理をしてでも少し背伸びをする...みたいな、そういう時代でしたね。そして、自分の眼で確かめたくて、海外へもどんどん出て行きました。 努力をして、成長できれば、必ずそれに見合うステージで結果が出せると、信じていました。僕だけではなく、若者全体がそういう時代だったような気がしますね。

大 人 の 街・青 山
●キラー通りに最初のオフィスを構えていた水島氏。思い出深いこの街について、また、当時の青山ベルコモンズについて伺いました。

青山ベルコモンズがオープンした頃のことは、今でも覚えています。レンガ色の外壁に、お洒落なテラスのような場所があって、とても印象的でした。どこかヨー ロピアンな雰囲気で、当時そういうデザインの建物があまりなかったので、すごく新鮮だったし、憧れのような存在でしたね。 今は日本から独自のデザインや文化を世界へ発信する時代ですが、あの頃は、海外のデザインや文化をダイレクトに取り入れていて、それが素敵だった時代。青山の街自体も、“成熟した街” という雰囲気がありました。もちろん今もそうですけど。

そして、なんというか、作られた街ではないんです。昔から培ってきた青山という街独特の雰囲気があって、青山にしかない空気がそこにはあって。そういう、 街自身が持っている価値というのは、僕はすごく大切なことだと思うんです。それって、後から作れるものではないですね?  “成熟” した街の魅力って、決して大人のためだけにあるものではなくて、若い世代の人たちのとっても、すごく大きなものだと思うんです。ちなみに、僕の最初のオフィスはキラー通りに構えました。青山は憧れの場所だったので、「ここからスタートしたい」そういう気持ちが、ずっとあったのだと思います。

建 物 は な く な っ て も 、残 し て く れ た も の 。
●最後に、青山ベルコモンズの閉館について、水島氏の想いを語っていただき ました。

やっぱり、寂しいですね。僕はこの建物自体がすごく、デザイン的にも素敵だし、貴重だと思うんです。外観もそうだし、中の造りも、すごく贅沢です。何というか、空間を楽しむように造られている、そんな印象を受けるんですね。ただショッピングをするために入る建物というよりは、この建物の中で過ごす時間、それ自体が楽しくなるような空間というか...。
黒川紀章設計事務所による「ゆっくり歩くファッションの丘」というコンセプトにも、すごくうなずけます。こういう建物って、もう今の時代にはないですね。

時代は流れ、社会の価値観も大きく変わりました。しかし、当初のコンセプト を貫き通し、ぶれずに存在されてきたことは、本当に素晴らしいことだと思います。 この青山ベルコモンズが残してきた歴史や功績を讃えつつ、さらなる次の時代に期待したいと思います。

-当時より-

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