最近の絶望について

 「絶望」ってなんか大それた言葉だけど、要は子どもの頃に思っていたより、世界は美しくないんだ という気付き。

 これを思ったのは、原作・アニメ 『風の谷のナウシカ』を読んで観たことや、米国における黒人差別のドキュメンタリー「13th」を観たこと、🐈と話した「その話題は、もう何度も話し合われて、ある程度の帰結を向かえた問題だろう。」とフェミニズムやオタク文化について話したこと、日本の植民地支配についての歴史改竄について目撃したことが主な要因かなと思う。

 私が強く「この世界は美しい。生きるのに値する世界だ。」と思ったのは、荻原規子先生の『狐笛のかなた』を読んだ時そのとき限り。後にも先にも私に「この世界は生きるに値する」と思わせた事象はない。
ぼんやりと「人類は歴史から学び、世界は進歩を続け、今日よりは明日 明日よりは明後日 そんな風に社会は良くなる。」そう思っていた。

 でもそんな訳ない。いくら大量の資料・史料を残しても、それは改竄され編集され権力者にいいように利用される。人命や人権や生活は何度だって蹂躙され、弱いものと決め付けられた者は社会構造の中に縛れられる。個人が自分の尊厳と自由意志のままに生きることは、一部の者の特権として取り上げられる。何度言葉を紡いでも、どんなに分かりやすい力強い根拠資料を提示しても、生命と人権を賭しても、何度だって人類は同じ間違いを犯す。みんなで明るい未来に向かって進むなんて土台無理な話なんだろうな。

 この失望は、LGBTQIAの研修でも何度も感じた。どんなに胸を打つような言葉で映像でマジョリティーにプレゼンしたって、私たちの生活は良くならない。理解も法整備も進まない。トイレでベッドで1人で泣き暮れるうちに、もう涙も枯れたよ。                     




 最近、これからの人生で、私は何を成すんだろうと考える。少しでもより良い社会になるように選択する日々だけど、それをしてどんなに変わるんだろうかと思う。
 宮崎駿の「ひるむな 困苦に耐えよ 屈辱の元でも子を生み育てよ」という、傑作『風の谷のナウシカ』の殆ど唯一にして随一のクソ台詞(本当にくそなのは、そのセリフのコマには女性キャラクターしか描かれていないこと。まあ、『風立ちぬ』を観れば宮崎駿のジェンダー観は見て取れるが)には本当にやられた。
好きな作品だからこそ、女の私がより良い世界のために次世代にできることは、子どもを生むことだという刷り込みが、強く湧き戻ってくる。高校生の頃から少しずつ少しずつ、自分の中の刷り込みを削り落として来たのに、こういことで揺り戻される。文字だったから、余計に私には力が強い。宮崎氏が戦争を体験した世代で、だからこその考えなんだろうが。

 絶望は人を緩慢に殺す。泣き疲れて次の日を、明日を向かえても、あの瞬間は消えずに心の中に降り積もって、気管を潰す。今日に絶望しない社会はどこにあるのか。明日を夢見れる人生はどうやったら築けるんだろうか。

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