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Aさんへ ⑥(①)

Aさんへ

こんばんは

春の夜長にわたくしはひたすらキーボードを叩いております

本日のメールはPCよりお届けいたします

ビコーズ今日、仕事中パソコンと向き合い黙々とキーボードを叩いておりましたらもはや絶滅危惧に認定すべき生物、その名もお局様が私の背後から
『人差し指と中指だけでタイピング。それなんとかならないの?いいわよね。仕事量がそんなんでも私たちみーんな同じ時給。羨ましいわ。』
と給料泥棒的指摘を受けました

ですので、小説をひらきそれをひたすら打ちまくる。十本の指をフル活用して

お目汚しは重々承知の上、そして、手持ちの小説の好きな部分を抜粋しておりますのでストーリーは突然に始まり突然に終わる……前後の脈絡は皆無となります(ついでに想像力なるものを鍛えるため、抜粋した箇所からイメージしたオリジナルの題名をつけてみようとおもいます。)

Aさんの貴重なお時間を図々しくもお借りしますこと先に御礼申し上げます

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「スティル」

スーパーでソノコは、いつもなら絶対に手を出さない高価な大袋の鰹節を手に取り、一秒も迷わず買い物かごに入れた。

(透かしたら向こうが見えそう。)

極薄のフワフワ軽い鰹節と空気がつまったクッションのようなそれを見下ろし、いずれ上等な鰹の塊と鰹削り器をタカシに……リョウでもいいけれど、次の誕生日プレゼントに……クリスマスでもホワイトデーでもいいけれど……とにかく鰹節と鰹削りが欲しいとリクエストしてみようと思い浮かべ、ほくそ笑み、秒後、ワクワクする未来は逃げ水となった。

常ならば隣でぼんやりカートを押す、名前をたずねれば「土曜日の穏やかな昼下がり」と答えそうな、白髪混じりの男。ちょっとそこまで用の焦げ茶色のビルケンシュトック。裸足、骨ばった太く長い指、短い爪、鼻を押しつければ自分と同じ匂いがするその清潔な素足を見下ろせばタカシの日常に自分が溶け込んでいることをしみじみ実感できた。
タカシとスーパーで食品や日用品の買い物をすることは、お洒落で華美な、ときめき100%のおでかけとは違うメロウ。荒波のない穏やかな海の満ち引きのような。とても静かな。

休日、昼食のあと、ベッドでタカシの素肌に耳を当て胸から、

「買い物いこっか」

と聞くのは、鼻を押しつけながら額に唇を当てられることは、大きな手の平で背中を撫でられることは。つまり幸せだった。

旅行をするとか、着飾ったデートとか、イベントの少ない付き合いのなかで、普段着の日常には有無を言わせぬ充足感があった。「昔から一緒にいたみたい。何年も昔から。」くさくてダサくて鳥肌がたつ言葉をもう自分は「寒い」と笑うことができないと思った。

リョウくんが来るからなに?

テレビの中の将棋対戦を思う。
将棋を見つめる男の横顔を思う。
含みのあるニュアンスも、視線を向けずに紡ぐ平らな会話も引っ掛かった。けれど、なにより、弟の名前を他人の男の名前を呼ぶように発音したことが、温度の低い音が、いつまでも耳に残った。悲しかった。その悲しさを振り払うように、ソノコは素麺と昆布のストックを、タカシの部屋のキッチンを思い浮かべた。

素麺を山ほど食べた三人の夏だった。

夏の終わりが近づいていたあの日。終わりの始まりとなったあの日の、全てをソノコは覚えている。

タカシが着ていたシャツの色、いつもきちんと一番上のボタンまで全て留めるタカシが、気だるげに上から二番目までをはずしていたことも、リョウの平常運転であるはずの見慣れた仏頂面が、青に近い白に見えるほどとても顔色が悪かったことも、ソノコ自身の鳴り止まない早鐘のような鼓動も。

「もう二度と会わない」と「好き以上どうこうするつもりはない」と二人の男から一縷の隙なく、淀みなく言い渡されたことももちろん覚えているけれど、細部のとるに足らないことほどくっきりとした輪郭で記憶に残っている。結局のところ自分は全てを忘れるつもりがないのだと思う。

黒い絶望が溢れだしたあとの空っぽのパンドラの箱の底には実はたったひとつ透明な希望があったのだと、昔、父が話していた。希望。タカシからの最後のラインにソノコは、無理にでも希望を当てはめてみる。

タカシの事故、腕時計と携帯電話はダイニングテーブルの上に「置かれていた」と、リョウは言っていた。「置き忘れた」ではなく。警察から渡された手荷物の中には銀河鉄道の夜の文庫本があり、ひかるはだしの始まりのページに付箋紙が貼ってあったのだと。

読書家のタカシが一人の夜にドライブがてら、どこか静かなカフェかバーへ向かい読書すべく持参したんだろうと、ソノコは想像した。想像せずにはいられなかった。コーヒーを飲みながら読書する程度のささやかな希望はタカシのなかから消えることなくあったのだと自分勝手な願望の中に自分を逃がした。
ひかるはだしを、ひかるすあしのような気もするそれを読んだことがないソノコは、今もまだそれを読んではいない。
はだしかすあしか、正解を、リョウの本棚から探して確認すればわかるけれど、確認という勇気を今日まで一度ももたなかった。

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