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Aさんへ ⑦(②)

Aさんへ

Aさんこんばんは
今日はとても寒かったですね
Aさんどうぞお体にはくれぐれもお気をつけくださいませ

お付き合いいただいたお陰でタイピングの上達を実感しております

Aさんの添削に感謝です

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「テイクイットイージー」

パーキングに車を停めエンジンを切る。

外したサングラスをダッシュボードに置くと想定外な乱暴の音がした。

置いたつもりが半ば放り投げたのだと、それはイラつきからの八つ当たりに他ならないと、サングラスを見つめながら吐き出したため息には臆病で小心なごめんが混ざった。

車を降りる直前リョウはバックミラーで最終確認をした。
不精に伸びた髪。伸びただけでなく一昨日から風呂はおろかシャワーさえ浴びていない。プロなのだからこの手の不潔な客には慣れっこ大丈夫と誰あろう自分自身を奮い立たせる。
付け焼き刃としてもみ上げを耳にかけ整える。目が合う。だらしなく粗野で品も知性もない。ついでにきっと男の甲斐性もない。唯一女たちから惚れられる色素の薄い緑がかった瞳さえも澱んで見える。気がする。
なんにせよ、どんなに退屈でそして孤独を感じる金曜の夜だとしてもこの男とだけは飲みたくない、友達にはなりたくない。品も知性も甲斐性も備え長所をあげればキリがない、退屈や孤独でなくても月曜の朝からでも、理由をこじつけてでも会いたくなる男を思い浮かべる。

(同じ血が通いながらこうも違う。まあどうでもいい。)

バックミラー内の男を憐れみ微かな同情で見つめリョウは車を降りる。

待ってましたと言わんばかりにドアを開け恭しく迎え入れられた時点でうっすら、
店内に入りシャンプーの匂いとドライヤーの音客と美容師との間で繰り広げられる薄い会話白々しい笑い声を認識した時点で「だから足が遠退く。」
うっすらであった感情は確信としてリョウを満たした。

甘ったるいミルクティーのような髪色の若いアシスタントに、早口の高音で誘導され回転椅子に深く座る。数歩歩いただけでため息が漏れる。

ミルクティーのアシスタントが伸びきったリョウの髪を控え目な手つきでとかし鏡越しに笑い、語りかける。

「三半規管狂い咲きましたよね?」

「はい?」

怒気を含む低音と共に眉間に深くシワが寄ったのを自覚する。鏡越しにミルクティーの瞳を見つめかえす。

咄嗟リョウは耳を押さえる。

ドライヤーの音の影響か耳鳴りがする。耳の奥、脳に近い位置で聴覚検査に似た一直線の音。疲労を自覚しながら、女の質問を瞬時反芻し考察する。

「ご、ごめんなさい。三ヶ月もっとかなってさっきカルテ見させてもらって結構お久しぶりかと思ってお髪がだいぶ伸ばされた感じですみません」

本来不要であるはずの謝罪と言い訳は消え入りそうに心細く実際、ドライヤーとバッグラウンドと客と美容師の飲み会かと見紛うほどに盛り上がる笑い声にかき消される。
ひきつった表情と、覚えたてのような日本語とバグった文法を受け止めリョウは心底からのごめんを込めこれに心折れ一人前の美容師への志を見失うことがなければいいと願い鏡越しにアシスタントを見つめる。

何度通っても馴染まずいつまで経っても一見風情の客の、乱雑に伸びきった不精な髪を見て「三か月くらいあきましたよね~?」と声をかけたのだ。コミュニケーション能力の高いアシスタントは当たり障りのない話題を探し、久々の来店である不機嫌な仏頂面の常連客に緊張しながら、若干のどもりをともない声をかけただけのことだ。

リョウはタカシのように目を細め、晴天の元旦のような結婚式の神父のような笑顔を繕い頷く。繕い笑いを鏡越しに認識し「笑うとかわいいのに。宝が持ち腐れちゃって。」あくびちゃんを何倍も生意気にしたようなコケティッシュな女の低い声が聞こえた気がする。気がするではなく聞こえた。事実、耳鳴りが止み雑音が遠退いた。眠りに落ちる直前の浮遊感、つまり気持ちがいい。声を、笑顔を思うだけで気持ちよくさせる人の低い声。

アシスタントの女が逃げるように去ると、こんにちは。お久しぶりです。といつもの美容師が鏡越しにリョウに笑いかける。

「今日はどうされます?」

定番の質問に「いつもと同じで」と定番の答えを返す。常であれば「かしこまりました」となるのだが美容師はリョウの前に開いた雑誌を差し出し

「結構伸びましたよね。バッサリいってみます?これお似合いになると思うんですよね~」自信ありげに微笑む

「チャラ」

雑誌のモデルを見下ろすのとほぼ同時に、胸の内呟く。だが正直なんでもいいと思う。仕事に支障がなければなんでもいいのだ

「お願いします」

なんでもいいので。とは口に出さず鏡越しに微笑むといつもの美容師は

「かしこまりました~。女子ウケ最高ですから」

意味ありげに笑い、親指を立てる。「ますますなんでもいい」
リョウは美容師に無言の笑顔を向け、直後思わず吐き出したため息はドライヤーの音に隠れた。

「なんでもいい」それは「どうでもいい」とほぼ同義だと思う。リョウはここ数ヶ月、仕事以外の場面で決断を迫られる時「なんでもいい」が瞬間的に頭に浮かぶ。それと同時に無性に気持ちが荒れイライラする。

全てがどうでも良くなり何にイライラしているのか。誤魔化しようのない、目を背けることの出来ない気持ち。仕事以外で心を動かされる「それ」を抱え、乱されることに戸惑っている。一筋縄ではいかないもどかしさに気持ちが荒れそして深く重く沈む。心動かされ乱されるその人の横には「リョウくん」と目を細めて笑う、月曜日から日曜日まで毎日会っても嫌いになることはない、唯一無二の大切な人がいる。
時知れず抱えてしまった気持ちをリョウは「どうでもいい」と処理できずにいる。

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