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ダブル・スタンダード

私をいびっていたときみたいには、あの子たちに注意しないんですねえ。

いじめをしても、不正行為をしても、そのことが露見して叩かれ、弾かれ、逃げ惑い、病んでいても。


「もうやめた方がいいんじゃないか?」と、他人事を装って、被害者の私に圧を掛ける。
私のときには言わなかったその台詞。よくほざけるよな。一緒にいじめていたくせに。
ろくに言い分も聞かず、私1人を集団で暴行したあのときみたいに、一方的に「注意」できないのか?いじめと不正行為をした、加害者たちの心を折るまで、叩かないのか?
せめて、自分で撒き散らしたゴミぐらい片付けさせるかと思ったけど、これか(笑)

まあ、できないよね。加害者の自覚があるから。まずいもんね、色々。所詮はヒト。



15歳のあの日に生まれた、ひとりぼっちの悲しみはなくなりつつあるけれど、煮えたぎるような憎しみは、12年経ってもそのまま。
これが、私の「いじめの後遺症」かもしれないと思うようになった。

救ってくれたひとはともかく、加害者を筆頭に、私の存在を葬ろうとしたヒトの話は聞かない。今では、「辞めろ」「消えろ」「死ね」「居場所はない」「来ない方がいい」は、私を殺しに来たヒトが吐くものだと思っている。

今、同じ台詞を返されると思っていますか。
いえいえ、ぜひいらしてください。
「テキトーにあしらっていい」存在でなくなった私たちと、正対できる覚悟があるなら、ですが。
立ち向かえないのは、逃げですよ。
でも、逃げるんでしょうね。その先に「かち」はないのに…



「取り返しがつかないことをするな。どうしても迷うなら、一人で口に出してみよう。それが、いいことかどうかはわかるはずだ。それでも。それをするべきか迷うなら、私と一緒に、「大人」たちに聞きに行こう。」

「本物」がどこか優しいのは、その痛みを知っているから。中々気づけないけど、そんな人たちがたくさんいる。
そのことに気づいたときから、始まるんだ。

偉そうに言うけど、私もまだまだなんだ。
いいところに気づけるひとになろう。
まずは、そこからだね。



一本筋は二枚舌を超えると、思っているから。