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人生は運と縁とタイミング


「人生は運と縁とタイミング」


私が昨年出会った中で、最も心に刺さった言葉である。

この言葉とはヴェルディカレッジの講義の中で出会った。


この言葉を聞いたときに、私は衝撃を受け、同時にこれまでの人生の点と点がつながった感覚を覚えた。

というのも、私とヴェルディカレッジの出会い自体が「運と縁とタイミング」が一致したことによるものだったからだ。


「運と縁とタイミング」の一致

私はヴェルディ公式アカウントのツイートで、ヴェルディカレッジの存在を知った。

私は、大学受験において第一志望に落ちた。しかし、進学した学部は第一志望に比べて一年次の必修科目が少なく、時間割が比較的自由に設定できた。
そのおかげで、ヴェルディカレッジの講義が行われる火曜日の時間を空けることができた。
というよりも、4/6(土)には大学の授業が開始されていたので、「空いていた」という表現の方が適切かもしれないが。

また、「1期生」ということも重要であった。
私自身の性格上、情報があればあるほど、それらを見て、聞いて、悩んでしまうタイプだ。しかし、これに関しては前例がなく、情報もゼロに等しかったので、踏み出すか踏み出さないのかという選択肢が限られた状態であった。

そして、タイミングも最適だった。
大学入学というタイミングであり、新しい学校、新しい友人、新しい生活リズムと何もかもが変わったことで、自分の中の「新しい」ことに挑戦するハードルが今よりもずっと下がっていた。
だから「踏み出す」という選択をできた。

もし私が第一志望に合格し進学していたら、火曜日に授業を入れていたら、2期生以後の募集だったら、大学2年生以後のタイミングで設立されていたら、
ヴェルディカレッジとの縁自体がなかったかもしれない。

運:活動日に授業がなかった。
縁:ヴェルディのアカウントをフォローしていた。
タイミング:大学入学、新しい世界に踏み出しやすい時期。


他にも、「運と縁とタイミング」によって起こされた事象はある。

私が、2000年に生まれたこと。
もし1年ずれていたら、小学校、中学校、高校の同級生・上級生・下級生、今現在仲良くさせてもらっている人との付き合いも異なるものになっていたと思う。

私が、サンフレッチェ広島に出会ったこと。
あれは2007年の3月3日、2007シーズンの開幕戦であった。
もし、それまでにFC東京の勝利試合を観に行けていたら、全く違ったと思う。2006シーズンまでに父と何度も味の素スタジアムへ応援に行っていたが、私が訪れた試合で勝つことは一度もなかった(笑)
そんな中で、寿人、ウェズレイ擁するサンフレッチェ広島はFC東京の何倍も魅力的で、格好良かったのだ。それ以来、私はサンフレッチェ広島のファンになった。

例を挙げれば枚挙に暇がない。
というか、これまでの人生で起きたこと、遭遇したこと、出会った人、すべてが「運と縁とタイミング」の一致によってもたらされたと言ってよいと私は考える。

「努力」とは

ここで、私の中に「努力は何の意味もないのか?」という疑問が浮かんできた。人生が運と縁とタイミングで決まるなら、努力は人生に対して何の力も及ぼしていないのではないかと思ったのだ。

そして「努力」とは何なのかということを考えた。

私が至った一つの結論は、努力とは「可能性を拡大させる行動」ではないかということ。
従来の私の考えでは、努力は「苦しい」とか「キツイ」という言葉を想起させるようなものであったが、そうではないという結論に辿り着いた。

ヴェルディカレッジの例で言えば、
その出会いは私が中学、高校の時から「スポーツビジネスを学びたい」という曖昧な思いでありながらも常にそれを学ぶ方法を探し、情報に対してアンテナを張り続けたことの結果である。

情報をつかみに行くことが習慣になっていたからこそ、地元のJクラブであるヴェルディのアカウントをフォローし、何か動きがあれば、即座に行動を起こせるようにしていた。(当時はそれを「努力」と捉えていなかったが。)

もちろん、私自身がヴェルディのアカウントをフォローしていなくても、友人から、ヴェルディカレッジについて紹介された可能性はある。
しかし、フォローしていたことで情報とのタッチポイントを増やすことができた。


「可能性を拡大させる行動」のさらに分かりやすい例で言えば、「受験」が挙がる。(落ちた分際でこのようなことを述べるのは恐縮だが。私自身は努力不足で落ちました。)

私が受験生の時には「問題との相性」という言葉を何度か耳にした。
広大なの試験範囲から選ばれる問題の中には、自分が得意な問題、分野、そして苦手な問題、分野というものがどうしてもできてしまう。

そんな中で、いかに「苦手」を縮小し、問題用紙上で「得意」と出会う確率を上げていくのかというのが受験勉強という「努力」であるだろう。


得たもの


思っていたよりも「努力」は人生においての存在感が薄い


と「人生は運と縁とタイミング」という言葉から学んだ。

その考えに至ってからというもの、私は努力をしやすくなった。

これまでの私は、努力が80%ぐらいの割合で人生を決定するものと捉えていた。
だから、努力をすることが怖かった。自分の努力の質によって今後の人生が決定されてしまうという気持ちがあり、「正しい」努力かどうかいつも気になっていた。「努力」に対して畏敬の念を持っていたとも言えるかもしれない。

しかし、実際には人生に対して努力が関与するのは思っていたよりもずっと少ない割合であると気付くことができた。
それからは努力を気楽に捉えることができるようになり、努力することが楽しくなった。


ただ、これは同時に努力ではどうにもならない問題が存在することを認めることになる。
私はそれを認める。

それらが人生の障壁となることもあるかもしれない。
それでも、私は立ち向かっていきたいし、その行動に意味があると考える。
決して他人や社会を憂うだけの人間にはなりたくない。
自分の人生ぐらい、自分で責任を持ちたい。


最期の瞬間、自分の行動に対して合格点を与えられるような人生を送りたい。


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