[私の子供の頃からの経験と、今思う事]

高校1年生の娘とフルートを吹いたり、モデル、ミュージシャン、デザイナーを仕事にしているIzumiと申します。

今日は初のnoteデビューですが、コロナの状況がとても社会的に大変な状況だというのを踏まえ、「私の子供の頃からの経験と、今思う事」と題してお話ししていきたいと思いますます。

私は両親が心や身体の病気だった為、
小さい頃に家庭環境に恵まれない時が多かった経験があります。

両親は私の笑顔が嫌いで、顔を見るとムカつく。と、毎日小学校から帰ると玄関で先ずはお腹を蹴り、倒れたら顔を殴る蹴る。

目が3日間開かないは良くあり、毎日顔から血が出ている状況で痛いお腹を抑えながら、とぼとぼと歩いて小学校に行っていました。

通学路では、やんちゃなクラスメートの男子からは、
お前さー!いっつもしけた顔して歩いてんな!
とニヤニヤしてからかってきました。

ご飯をまともに家で与えられ無い、
自分でも食べる気力が殆ど無い。
学校では10分も授業が持たずに椅子に座っている事も出来ず、教室で毎日バタンと音を立てて倒れていました。

連日だった為、保健室で担任の先生に何を食べているか聞かれ、答えられ無かった事で家庭環境が悪い。
というのが発見されました。

それから、からかって来たやんちゃな男子は、私をいつも心配して兄のようにボディーガードのような事をしてくれるようになりました。
偶然か学校の計らいだったのか、
小学、中学、高校と同じクラスが多く。
毎日家まで送ってくれて、大人になっても警察に電話したり心配をしてくれる。今でも頼れる大親友です。

小学生のクラスで1番の憧れのマドンナの様な人気者の女の子の友達は、

私の家にとにかく毎日来な。
といい、大豪邸に呼んでくれました。

私にいづみは何をして遊びたい?
と私の存在を尊重して話してくれたり。
人との話し方、お箸の持ち方を教えてくれ、食べた事が無いモノや飲んだ事を無いモノを、毎日その子が作ってくれて食べさせてくれました。   (小学生なのに凄い!)

殴られて目が潰れて3日程開かない時は、
何度でも家に泊まられせてくれて、
目を冷やす氷を持って来て。

いづみの目のあざは赤から黄色、紫…
って3色に変わるんだよね〜、
なかなか見ないよー凄いなーほんと。
目空くまで家泊まって寝てなー

と言ってくれました。
その子とは、小学、中学、専門学校が一緒に行き、大人になっても大親友。

そうやって、私は本当の家族がどうであれ、
学校という場所が1番の逃げ場で。
給食や友達の食事や愛情や教育を受けてきました。
学校には朝1番に行って勉強していました。
親が寝るまで外にいて、道路の真ん中をワザと歩いたり多摩川でボーッとしたりしていました。
家よりも、誰も居なくなった夜中の学校が1番安心する場所で、外のコンクリートの校舎にもたれかかって座って寝ていました。

友達を家族。
と思って、本当の家族には特に何も求めずに学校を自分の居場所として生きていけました。

勿論、警察にも殺される!とさ泣き叫んで行った事もありますが、当時は警察2人掛りで引きずり帰されました。

家出はしても追いかけても来ない、探しも心配もされませんでしたが、結局は人に迷惑掛けたくないので家に帰りました。

こういう生活の中で生きるには、
虐待された事を忘れる。
という事が大事で。
私の記憶脳は少し小さく育ち、記憶喪失になっている日や忘れてしまう時間もあり、それは大人になってからの今もたまにあります。

そして、常に幽体離脱した状況で、人と直接接している自分と、遠くでそれを見ている自分がいました。

味覚は大人になって少し経つまでありませんでした。

今だに右側に常に父親が見えて、決まり文句の罵声をずっと言っています。

私は自分の顔の印象は、目を潰された血だらけの顔で。
タバコの火を目に近づけられた右目は、その熱い記憶が常に残り、それから余り見えていません。

可哀想に思って欲しいからと話を書いているのでは無く。

このコロナのお家に居よう。
という状況は、全ての社会、家庭、人に適応している訳では無い。
学校という場所が無くなると、こういう子供達が行き場を失っているという現状が今ある。
という事を知って欲しいのです。

どんな家庭の状況の子供でも学校に行く事が出来る。
という事は、こういう家庭環境にある子供にとっては、給食を始め生きる全てがあります。
子供達が学校に行ける様に、大人達はどう行動したら良いのかを考え無ければですね。

こちらは現状の子供達のリンク
https://www.fnn.jp/articles/-/34628

私は家の中で [笑ってはいけない]
という生活環境の中で、高校生のある日、
水を飲もうとしたら、口の広角の両側から水が流れ出てしまいました。

無表情、無感情で生活していた為、
頬の筋肉が低下して口の筋肉も上手く使えなくなってしまったのだ。
と気づきました。

その時、人間は笑わないと生きていけないんだ。
[生きる事は笑う事]
というのをその時ハッと気付かされました。

それに気付かされた事は、私の大きな財産になりました。

なので、それを気付かせてくれた病気の両親にも感謝して過ごせるようになりました。

親戚から聞けば両親にもいろいろな理由があって病気なのは理解もし、親も自分の苦しみを泣き叫んでいたので。

(両親の事は尊重していて仲が良い時間も多くあり、実家のブティックは私も良く手伝いをしてメーカー回りも中学生の時から父としていました。
虐待する方の立場や理由。
そしてそうなった理由からは、その本人も幼い時の犠牲者であり。
戦争から戦後の日本の社会、家庭の大変さから心や愛情の歪みが子供などの弱いモノに向かう。
という人間の心の脆さも感じました。)

それから、私は大人になったら笑わなければいけない職業につこう。
人を笑顔にする職業につこう。
と決めました。

そして、素敵な大人になって。
自分と同じ境遇の子供達に会いに行って、
子供の頃に愛情を貰わ無くても、ここまで這い上がれるよ!
一緒に頑張ろう!って人を助けられる大人になれるように努力しよう。
と、1つのレールを敷き、それを目標として生きて行く事と自分の使命を感じました。

これまでデザイナーから、役者、モデル、ミュージシャンという職業で、人から聞けば一見華やかな職業ばかり選んで活動しているのは、そういう子供達に分かりやすい様に、キラキラ職業を選んできました。

当時、殺される。と常に殺気立っていた私は目がつり上がっていました。

23歳頃に出会ったウエディングモデルは、
今日の私が世界で1番幸せ!
と、愛らしい幸せに満ち溢れた笑顔!
というテーマは、当時の私には大きな試練でした。

そしてモデルを始めとして、笑顔で人に接する。という仕事に携わる人達の素晴らしさ。

そして笑顔や喜びを生み出すミュージシャンなどのアーティストとの過ごす時間の楽しさは、生きる喜びでした。

今、コロナの影響で、人を笑顔にする職業の方々が行き場を失い、生きていけるかどうかの本当に大変な状況になっています。

ミュージシャン、ダンサー、大道芸人、マジシャン、アーティスト、そしてそれに携わるスタッフや空間を提供して来た方々は、社会の沢山の人々に対して、身体も心も豊かにする活動。
笑顔になる時間を今まで沢山作って来た人達。

政府やマスコミの報道の仕方により、
社会の中で間違った認識やイメージで、
音楽やアート活動は絶対に必要なものでは無い。
という認識になってしまった部分を変えたいです。

生きるという事は笑う事。

ミュージシャンやアーティスト、それに携わる方々の活動は、
人が生きる事。社会の中で最も大切な事だと私は信じています。

今まで沢山の笑顔の時間を作ってくれていたアーティストに対しての、救済活動にも繋がる社会貢献活動を作って行きたいです。
是非みんなで考え、みんなで良くなる強く優しい社会にしたいです。

何かアイデアあったら教えて下さい!

どうぞ宜しくお願い致します。

#今まで出会って来た全ての人に感謝を込めて         #日本のアーティストと子供達を応援しよう    

Izumi

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