吐き出さなきゃ

前置きとして、書いておくけれど、今日はバイト終わりに日本酒を飲んで少し酔っている。その勢いにまかせて書いている節があることは、否めない。
前に記事を投稿してから1ヶ月は経っているらしい。精神的にかなりしんどさを感じていた1ヶ月だった。時間はあったが、心の充足というものは露ほども無かった、と言いたいぐらいだった。今は比較的やや、穏やかにはなっている。



書きたい。描きたい。

そんな風に思っても、筆やキーボードを叩く手が進まない。

構想はある。なんなら描きたい絵に関しては、頭の中ではデザインが全て出来上がっているし、タイトルも決まっている。あとはそれを現実世界に投射するだけである。だのに、進まない。
俺がデザインとして持っている絵なんて、きっとクリシェかも。みんな思いつきそうだもの。
でも、手が進まない。

僕が何かを記して、紡いで、投稿するとき。それはどうやら、書かずにはいられない時。自分の内的世界から外的世界にどうしても放出しなければならにタイミングのような気がする。
この表現が適切かはわからないが、ボクの中に浮かんだものとして「自分の中で抱えきれなくなった時」。その時に創作的な活動を行っているような気がする。
中学生の時に書いていた計6本の小説。その6作目の投稿が、中学を卒業した年の3月30日で終わっていたのを先程確認した。なんかおもろい。

0から1、という行為が苦手だ、と周囲によく言う。ほとんど間違っていないと思う。でも、自分の中で限界が来たような、もう抱えきれないよータイムになると、0から1、という行為が苦手では無くなるんじゃないかな、ボクは。
そうじゃないタイミングで、「はい、自由に作っていいよ。なんでも大丈夫だよ」なんて言われても、それは拷問的所業であるだけなんだよ。「○と△と□使って何か描いてみて」の方がどれほど楽か。迷わずおでんのイラスト描くわ。

脈絡の無い感じとかつながって無いような雰囲気が拭えないけれど、"限界"が近づかないと、ボクの中でそういうスイッチはONになりにくいのかな。
ボクは苦しみたい、という節がある。被虐的なものだろうか、マゾヒズムなのか。ボクという24歳の生命体がそういうのを好き好んでいるとかはわかんないけれど、苦しみたいのである。しんどい状態である。死を渇望したい。それが逆説的に生を実感できるから。
鎖で四肢を繋げられて身動きが取れず、殴られ流血し、傷ついた身体を見て、滴る血を見て、今生きていると感じざるを得ない。
却って、鎖で繋がれることなく、きれいな身体ではどうにも満たされない。
腫れ上がるまで殴られ、首を絞められ、罵倒されながら。そこまでしないと。

今は意識レベルが落ちつつある。上手くまとめられない。
夜の一人反省会では、自己否定感を高めがち。それもまたある種の苦しみを与える行為。望んでいる。希求している。
絶望したい。この世に一切の希望なんて無いんだと、目の当たりにしたい。大切な人に壮絶に裏切られたい。もう何もかもを信じられなくなるくらいに裏切られたい。これは人生で掲げている目標の1つ。初出ですが。

最後にどうしてもしておきたい、クリシェな引用を1つ。
-人間は自由の刑に処されている-サルトル
自由は不自由だ。

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