月を指差したなら月を見ろ

M☆A☆S☆Hさんの詩集を手にしてからかなり時間が経ってしまった。
感想を伝えようと思いながらもここまで躊躇していたのには理由がある。それは見方を変えれば「言い訳」にすぎないのだが、聞くところによると自分だけではなく、あまり感想は寄せられていないらしい。果たしてそれが自分と同じ「言い訳」故なのかどうかは別として、論理的な言葉で語り始めた瞬間に、自身の言葉がそれを語ろうとする作品と決定的に乖離する感覚は、おそらく誰もに共通しているのではないかという確信に近いものはあるのだ。下世話な表現をすれば、どう語っても「負ける」と言ってもいい。なぜならこの作品には、論理的な言説を拒絶し無効にするような仕掛けに満ちているからなのだ。

まずこの詩集のタイトルを見てほしい。

ЦЕЛУЯ ЖИЗНЬ (KISSING LIFE) / СПИ, МАЛЮТКО, БУДЬ СПОКІЙНИЙ (SLEEP, BABY, BE CALM) / MEIN KILCHBERG LÄUTET JETZT (私のキルヒベルクが鳴っている) / 御前が其れを綴るのだ (YOU SHOULD BE WRITING TO NEW NECRONOMICON)

これである。どこが、でも、どれが、でもない。これ全体がタイトルなのだ。いったい我々はこの詩集について語ろうとした時、これをどう呼べばよいのだろう。だっていきなり読めないのだ。()の中を読めばいいのだろうか、と思うも言語すら統一されていない。これはもう「呼ぶ」ことを拒否しているとしか思えないではないか。あるいは「言葉が意味通りの言葉として振舞うことへの苛立ちと抵抗」を感じないだろうか。

言うまでもないことだが、あらゆる言葉は社会的かつ個人的な意味とイメージの外殻構造を纏っている。我々は基本曖昧で差異のある事象を、言葉に変換することで、わかりやすい量産品として処理してきた。言葉の本質は「呪い」である、と私などは思うしもちろん私だけではないのだが、わけのわからない事象であっても、とりあえず「名付ける」ことでそれはものの見事に一般化されてしまうのだ。それはつまり、言葉を用いて語る限り、我々は特別なものを特別なまま伝えることはできないということである。
このことは我々書き手をしばしば苛立たせる。そして特別であることを伝えようと言葉を重ねたり修飾したりするのだが、付随させる言葉とて「呪われて」いるのだ。

M☆A☆S☆H氏は相方tora氏と共に「deus ex machina」というユニットを組み、音楽や映像を伴った刺激的なポエトリー・リーディングなどを行なっている。私の目にはそれは別のイメージをもって、聴覚と視覚の十字砲火で言葉の強固な外殻を揺り動かし、破壊して無効化しようとする試みに映る。そしてその欲求は、この詩集の中にもはっきりと書かれている。

deus ex machinaの作品群に触れたことのなる人なら、読み始めるまでもなく、本書をパラパラとめくってみただけで得心するだろう。目眩くフォント、タイポグラフィ、突如綴られる数か国語、読み慣れない漢字の羅列に、読めない(!)記号の行列、さらには文字を反転させたページ、それらは次々と襲いくる言葉の「呪い」を、マシンガンの如く打ち砕かんとする抵抗の弾丸の軌跡だ。まず、初手の「字面」でそれを許さぬという意志の具現化である。

こう言うと、ひょっとしたら「とても読めない、意味のわからない詩集」だと思う人がいるかもしれない。だが、「わかる」とはいったいどういうことなのか。作者はそれについてもちゃんと書いている(この詩集は極めて自己言及的であり、それは既発表である作者の自伝的な文章が収められていることからも明らかだが、自己完結的でもあると同時に、批評的でもある。作者の文学世界が可能な限りパッケージングされていると言っていい)
『ー水をゆく ひとつのパイク(陸をゆくのは ふたつのパイク)』では、映画『燃えよドラゴン』におけるブルース・リーの有名な台詞が引用されている。

「Don't think! Feel!」(考えるな!感じろ!)

この台詞を引き合いに出しての作者の詩論に関しては言及しない。私は詩を語れるほど詩を読んでもいなければ詩について考えてもいないからだ。
しかし、この台詞には続きがある。

「It is like a finger pointing away to the moon. Don't concentrate on the finger,or you will miss all the heavenly glory.」(それは月を指す指のようなものだ。指を見るな。大事なものを見失うぞ。※意訳)

つまり、指=言葉そのものを見るな、言葉が指し示すその先を見ろ、そこには何がある? それこそが言葉を綴る者が見ている景色だ、そう言っているように思えるのだ。
だが、無自覚に使われる言葉はそれを許さない。指先に集中させて、読む者を「意味」の中に捕らえ込もうとする。そうでなくても我々は、言葉を「意味を伝えるための記号」だと教わってきたふしがある。
その軛から、作者は我々を解放しようとする。そして言葉を解放しようとする。言葉を、ギリギリ言葉のままで、可能な限り前言語的なイメージのベクトルに近づけようと企む。

言うなればこの詩集は、言葉を使って世界を、物語を、あるいは表現せずにはいられない何かを形にしようとする者、つまり我々の最前線(あるいはその先)が克明に描かれているのだ。自分はそんな根源的な(あるいは偏執的な)戦いなどしていないしする気もない、という人がいるかもしれない。だが、人の思考は言葉でできている。その原子的要素たる言葉が、我々の思考を凡庸さで拘束していることに無自覚な者に、果たして新しいものを生み出すことができるだろうか。
少なくとも私は、目を逸らすつもりはない。

ここに及んで、私が迂闊に感想を書けなかった理由は理解していただけたのではないだろうか。論理的一般的な言葉の呪いを揺さぶらんとする作品について、論理的一般的な呪われた言葉をもって語ろうとする無力感!

ことによると作者は文芸を嗜む者としての、一つの真摯な区切りとしてこの作品を発表したのかもしれない。
しかし、できあがったこの詩集は、我々にはっきりとした声で問うているのだ。

おまえは月を指差してどこを見ているのかと。

追記:巻末の作品『You Better Kill Yourself』は、その過剰なまでの修辞により、私が知る限りもっともH・P・ラヴクラフトの「匂い」に近い、伝統的な文体に近代的ファクターを乗せた傑作である。

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