審判員三国峠毅の受難〜The Umpire Strikes Back〜


 客観的事実など存在しない。あるのは自分の目を通して見た事実だけである。
     (ヴェルナー・ハイゼンベルク)

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 エドモンド・カーター著『メジャーリーグのアウト・アンド・セーフ』によれば、審判員がもっとも恐れなければならないものは予断に他ならないとされている。
「ストライクかボールか、セーフかアウトかを決定し得るのは一連の流れの中の一瞬でしかない。その一瞬以前、0・01秒前ですら、投じられた球はストライクでもボールでもなく、打者はセーフでもアウトでもない。だが下手に熟達した審判員は、その膨大な経験則によってしばしば予め結果を準備してしまうものである。野球でなければ、審判員でなければ、生きる過程において彼を救うかもしれない経験の集積は、グラウンドの中においては彼を窮地に追い込む可能性があることを、審判員は常に頭の中に置いておく必要があるのだ。
 だがバッターがチェンジアップの後の速球を実際よりも速く感じてしまうように、どれだけ感覚を研ぎ澄ませていても、むしろ研ぎ澄まされた神経であるほど、集中が没入に足を踏み入れることによって、審判員に誤謬の危険が高まることは避けようがない。もっともそれを必要以上に恐れるべきではない。たとえばその日の球審の判定が曖昧であると悟った投手は、その曖昧さを利用して勝負球を使うこともできるだろう。そうした状況は機械的な判定からは望むべくもない、人間対人間だからこそのダイナミズムを生む。その曖昧さが審判員をドラマに介入させる余地につながる。したがって真に熟達した審判員に求められるものは、厳密さと曖昧さを両立させるアンビバレントな精神と言えるかもしれない」


 エドモンド・カーターはメジャーリーグを代表する名審判として名を馳せたが、引退するまで一貫して「名審判」と呼ばれることを嫌悪し続けた。彼によれば、真に賞賛されるべき名審判は、賞賛などされるような一貫性とは無縁な、決して「名審判」などと呼ばれることのない審判員だからである。


「そうでなければ審判員はより正確で冷徹な電子機器に取って代わられるに違いない。それは審判員という職業の死にとどまらない。野球という競技の死に他ならないのだ。あるいはもっと別の、人間が本当の意味において人間であり続けるために必要な何かの」

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 三国峠毅が目を覚ますと視界には見覚えのない白い天井があって、微かに鼻をつく消毒液の匂いでそこが病院であることを知った。不審に思って眉を顰めた途端、額に引き攣る感覚があって、手を触れると両耳の上から後頭部にかけて幾重にも包帯が巻かれている。起きあがろうとして頭を持ち上げると、左耳の後ろのあたりに鈍い痛みが走った。どういうことだ。三国峠は枕に頭を戻して考えた。いや、考えようとするのだが思考が上手く動かない。バッテリーが上がってしまった車のキーを必死に回しているような感覚だ。俺はなぜここにいるのだろう、と自分は考えている、ということはわかる。だがそこから一向に前へ進まない。記憶喪失を疑い始めたところへ、白衣の女性が現れて「ああ三国峠さん、気がつきましたかあ」と間延びした口調で言った。誰かに似ていると思ったが思い出せない。きっと誰にも似ていないのだろう。三国峠。そうだそれが自分の名前だ。碓氷峠でも塩狩峠でも大菩薩峠でもない。


「自分の名前言えます?」
「三国峠毅」
「歳は?」
「四十二」
「誕生日」
「七月二十日」
「お仕事は」
「プロ野球審判員」


 ああそうだ、俺はプロ野球の審判員だ、と答えた後で思い出した。看護師は「とりあえず大丈夫そうだわね」と言って、主治医を読んでくると病室を出た。入れ替わりにやってきた若い医師は、ペンライトを当てて眼球を覗き込んだり、立てた指を動かして目で追わせたりして「とりあえず大丈夫でしょう」とこともなげに言った。ここでは「とりあえず大丈夫」が流行っているのだろうか。まるで入院待機者削減キャンペーンのキャッチフレーズみたいだ。何か訊こうと口を開いたが、訊くことを探している間に「とりあえずはしばらく安静にしていてください」と告げて医師は去った。とりあえず。


 とりあえず、三国峠はもっとも新しい記憶を探ることにした。腹が減っている。最後に食べたものは何だったろう。松乃家の牛鍋定食か。いやあれは昼だ。夕方の食事は静岡ドームの審判控室、仕出しの幕の内弁当だ。東海ウルブズ対千葉レッドドッグス戦だ。3回の表にレッドドッグスのバンデラスとかいう外国人選手が見逃し三振になった球の判定に文句をつけてきて、挙句肩を小突かれたので退場を宣告してやった。奴は高いと思ったのだろうが、あんなに前屈みなら頭の上を通ったボールだってストライクだ。


 そこまでは思い出せる。
 だいたい今日は何日なのだろう。どのくらい意識が飛んでいたのだろう。そう思ってふと頭を回した瞬間、実体のない嘔吐のような不快感が胸にせり上がってくるのを感じて三国峠は動きを止めた。何か大事な、恐ろしいことを忘れている。感覚が先に戻ってきた。生暖かい液体が飛び散って顔にかかる気持ちの悪い感触。ぬめる両手で握っている棒状の何かを取り落としそうになる焦燥。振り下ろしたその先が柔らかなクッションの下にある硬い何かを砕く触感。その記憶がやがて脳内にゆっくりと、カメラの自動フォーカスのように映像を浮かび上がらせると、三国峠は本当に吐いた。もっとも喉を通って出てきたのはわずかな胃液だけだった。


 三国峠が手にしたバットで殴りつけているものは、人間だった。


 遠くの街灯からわずかに届く光が影を作るそれはもはやただの肉塊だ。誰だ。三国峠はそいつの声を思い出している。
「下手くそが。まともな判定も出来ねえなら審判なんかやめちまえ。迷惑だ」
 声だけではわからない、いや、よく聞けばそれは思い返している自分の声だった。ナメやがってナメやがってナメやがってナメやがってナメやがってナメやがって貴様などに野球をやる資格はないいや違う貴様などは生きている資格がない。


 そんな覚えはなかった。しかし、記憶はあった。はっきりとした実感を伴うあまりにもリアルな。いつの記憶なんだ。そんなことより自分は人を殺したのか。いったいいつだ。どこでだ。そして誰だ。ことによると自分は人事不省で人を殺して警察病院にいるのではないのか。


 悶々と思い悩んでいると、病室のドアがいささか乱暴にノックされて、千葉レッドドッグスの外国人選手カルロス・バンデラスが通訳と一緒に現れた。浅黒い顔は静止画のように無表情だった。バンデラスは何語だかわからないが「**********」となにやらボソボソと呟いて、通訳が「この度は申し訳なかった。こんなことになるとは思わなかった」と言った。バンデラスがまた「**********」と呟くと、通訳は「もちろん医療費は全額負担するし、慰謝料については後日話し合いを」と言った。三国峠がわけがわからないまま「いや、まあ」と言葉を宙に浮かせると、二人は勝手に安心したようで、籠盛りの果物をテーブルに置いて帰って行った。なんなんだ。


 次は警官が来るのではないか、と三国峠は思った。とはいえバンデラスは無傷で生きているわけで、では記憶の中で殴打していた相手は誰なのかということにやはりなる。どうやら件の試合は昨夜のことのようで、ではもっと以前の記憶ということになるわけだが、三国峠には殺人を犯したことで不安になったり良心の呵責に苦しんだりした覚えがまったくないのだった。それどころかバットを持って出かけた覚えもなければ血を浴びた服を処理したりした覚えもない。ただ誰かを殴り殺した記憶だけが唐突にあるのだった。


 たとえば一連の出来事を完全に忘れ去っていて、何かの拍子に犯行現場の記憶だけを思い出すなどということがあるだろうか。あるのかもしれない、が、そもそもそんなに重要なことを忘れてしまうようなことはあり得ないと思う、のだが。いや、たとえばそれが人格にダメージを与えるほど衝撃的であったから、脳が「なかったこと」にしているという可能性はあるのではないか。それならばよく聞く多重人格の話などよりもよほどありそうなことではないだろうか。


 先刻のナースがスポーツ新聞を片手にやって来て「出てますよ」と言う。一面は名前だけは聞いたことのある女優と名前すら聞いたことのないロックバンドメンバーの婚約のニュースだったが、裏一面に三国峠の名が確かに出ていた。見出しは目立つ順にこうあった。

『バンデラス大暴れ』
『退場に激怒、バット投げる』
『三国峠主審直撃、救急搬送』

 退場宣告に顔を歪ませて何かを叫ぶバンデラスの写真、場内説明のために係員の差し出すマイクに手を伸ばす三国峠の背後でバンデラスの投げたバットが宙を舞う写真、それからうつ伏せに倒れた三国峠の横にバットが転がる写真、さらに担架で運ばれる三国峠の写真。まるで四コマ漫画だ。オチもないから四コマ漫画以下だ。なるほどそういうことかと三国峠はひとまず納得した。その後の記憶がないのも無理はない。それでも直前に退場を言い渡したことはちゃんと覚えているのだから、事故周辺の記憶がすっぽり抜け落ちるような重篤な影響はなかったのだろう。
 だが、だとすれば。あの記憶はいったい何なのかということに結局はなる。


 検査に呼ばれ、頭痛とふらつきを訴えると、主治医はCTスキャンの画像を見ながら「まあそうでしょうね」と抑揚のない声で言った。陥没まではいかないものの頭蓋にヒビが入っているという。
「脳に出血や浮腫は見られませんが、なにぶん脳なんで少し様子を見ましょう」
 なにぶん脳なんで、などという曖昧な説明でいいのだろうか、というより「なにぶん」にはどんな可能性が隠れているのだろう、曖昧にした方がいいような何かなのだろうか、と考えながら病室に戻ると、同僚の印旛沼と御前崎がいた。昨夜の試合で印旛沼は三塁塁審、御前崎は控えでバックネット裏にいたのである。二人とも三国峠よりはるかに若い。そして何年経っても自分より若いままなのだ、と考えると三国峠は時々やりきれない気分になる。そのうち彼らよりさらに若い人間が次々に入ってきて、自分はどんどん先に押しやられてしまうしかないのだ。
「病院から電話をもらったので」と印旛沼が言った。意識が戻ったら知らせてくれと頼んでおいたらしい。
「正直、あ、こりゃ死んだなと思いましたよ。すごい音しましたから」と御前崎が悪びれた様子もなく笑顔で言ってのけた。
「いい音がしたってことは、跳ね返したってことだろう」と印旛沼が言った。「私は大丈夫だと思っていました」
 なんの張り合いだ。
「まあ、たいした怪我じゃなさそうでなによりですよ」と御前崎が言えば、
「たいした怪我だよ。頭だぞ」と印旛沼。
「いやだって大丈夫そうだし。自分だって大丈夫だと思ってたって言ったじゃないか」
「君たちは何をしに来たんだ」
 三国峠が冷ややかに割って入ると、御前崎は「いやあ、思いのほか元気そうなので嬉しくなってしまいまして」とバツが悪そうに笑った。
 三国峠はオーソドックスな審判員である。ストライクのコールで奇声を上げたり謎のポーズでバッターアウトを叫んだりはしない。あくまでも自信と威厳で試合をコントロールしようと考えている。その超然とした佇まいこそが自らの信用につながるのだと思ってきた。だが彼らを見ていると、自分の価値観はもう古いのではないかと思えてしまう。御前崎などは監督の抗議に「まあまあ、そこはひとつお互い様ってことで。ここで長引くとシラけてしまいますし」などと言ったりするのである。そんな態度に出られると怒る方も気勢を削がれて黙り込んでしまった末に、憑き物が落ちたような表情で背中を向けたりしてしまうのだ。そうでなくとも最近は、ハイスピードカメラででも撮影されていたなら、誤審などものの十秒後には白日の元に晒されてしまう。審判の威厳などとっくに無意味なものになっているのかもしれなかった。とはいえ今更スタンスを変えることもできぬ。時間の進みが早すぎる、と三国峠は思った。


「ところで」と三国峠が改まって切り出したまましばらく黙ってしまったので、印旛沼と御前崎は話をやめて向き直った。切り出したものの迷っていた三国峠だったが、切り出してしまったものは仕方がなかった。
「最近……いや昔でもいいんだが……選手が殴り殺された事件を聞いたことがあるか」
 二人は一瞬無表情で固まった後、顔を見合わせてから不安げな視線を三国峠に戻した。「なんですか」と御前崎が言った。「殺すんですか」
「そんなわけがないだろう」と三国峠は苦笑したが、頬が痙攣するのを感じた。
「意味がわかりかねますが」と印旛沼が胡乱げに沈黙を埋めた。「聞いたことがないですねそんな話は」
「昔もなにも、生まれてこのかた聞いたことがありませんよ」と御前崎も続けた。
「変なことを言うからなんだか心配になってきたじゃないですか」
 怒ったような口調で印旛沼に言われて、三国峠はあわてて表情を崩した。
「いや、そんな事件があったような気がするんだが思い出せないだけだ。ひょっとすると映画か何かだったかもしれない」


 帰り際にテーブルの籠盛りを目にした御前崎が「あ、あの野郎もう来たんですか!」と声を上げた。
「よくのうのうと来れましたね」
 印旛沼の台詞に御前崎も「まったく」と同意した。
「なんで俺たちより早いんだ」
「朝からずっと待ってたんだろう。どうせ出場停止だし」
 そうなのか、と三国峠が訊くと、御前崎は「当然でしょう」と言った。
「クビって話も出てます。まあ自業自得ですよ」
 三国峠は複雑な気分になった。元はといえばストライクの判定たったひとつなのだ。もちろん審判を小突いた挙句にバットを投げつけたバンデラスが100%悪いことは疑いようがないとしても。とはいえ、世の中の事故や不運など、多くは元を辿ればその程度のことなのかもしれないではないか。


 二人は出勤時に持っていた鞄を届けていった。外ポケットに差し込んだままの携帯電書をチェックする。さすがに着信こそなかったが、安否を気遣うメールが何件も入っていて、その中に別れた妻の名前があった。件名は空白だった。彼女はいつもそうだ。普通に容体を問う文章の最後にこうあった。

「まだ一緒にいたなら、死んでくれればいいと思っただろうけど(笑)」

 (笑)を付けて言うことだろうか。
 どうして別れたのかと訊かれることがあるが、三国峠には正直これといった理由が思い当たらない。彼女に尋ねもしなかった。尋ねたところでどうなるものでもないと思った。きっと些細なことの積み重ねなのだろう。たとえばシーズン中は毎晩帰りが遅いとか、連絡もせずに夕食を食べて帰ってくるとか。おそらくはっきりとした過ちなり事件なりがあれば、そこには「許す」という選択肢があったのだろうが、些細なことの積み重ねは修復のしようがないのだ。許そうにも何をどう許したらいいのかわからないだろうし、許される方にしたところで、ではこれからどこをどうしたらよいのかわからない。どれだけ時間をかけて話し合ったとしても、肝心の部分は言葉の隙間をすり抜けてしまうに違いないのだ。
 三国峠はメールを消去した。

 夜、テレビのスポーツニュースで、昨年引退したピッチャーが「あの球はボールだ」と言っていた。彼はきっとストライクゾーンの定義を誤解したまま今まで野球をやってきたのだろう。なぜなら、誰もがストライクかあるいはボールだとわかる球以外は、ストライクかボールかを断定できるのは審判しかいないからである。
 看護師がドアから顔を覗かせて、消灯時刻を過ぎていると小声だが苛立ちを隠さない口調で言った。

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『ストライクゾーン』
 バッターの肩の上部とユニフォームのズボンの上部との中間点に引いた水平のラインを上限とし、膝頭の下部のラインを下限とする本塁上の空間をいう。このストライクゾーンはバッターが打つための姿勢で決定されるべきである。
「注」投球を待つバッターが、いつもと異なった打撃姿勢をとってストライクゾーンを小さく見せるためにかがんだとしても、球審は、これを無視してそのバッターが投球を打つための姿勢に従って、ストライクゾーンを決定する。
        (公認野球規則2・73)

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「とりあえず大事に至らなかったのは不幸中の幸いだった」
 審判長の白川郷は現役時代も冷静沈着を顔に張り付けているような審判員だったが、それは多分に生まれついての眠そうな目つきのせいと言えた。ともすればやる気がないと思われかねない表現力に乏しいその表情は、加齢とともに顔の皮膚が弛んでくるとさらに難解になって、審判局のトップである審判長の椅子に座る今となっては、一瞥しただけでは起きているのか寝ているのかもはっきりと判別できない有様であった。
 だから退院の挨拶に出向いた三国峠は、椅子に沈んでいる白川郷が声を発したことにまず安堵したが、死んでいたとしてもやっぱり安堵するだろうなと思い直した。


 審判長は野球チームで言えば監督のようなものである。試合には出ることのない管理職だ。その下にはコーチのような役職があり、さらにその下には現場での裁定を任されるチーフクルーという肩書がある。三国峠はそのまた下のサブチーフクルーという立場を与えられていた。職務上は中間管理職のようなものだが、かつては審判長が「部長」、チーフクルーが「主任」と呼ばれていたことを考えれば、中間管理職未満とも言えた。


「ご心配をおかけしました」
 三国峠が頭を下げると、白川郷は「まったくだよ」と笑いもせずに言った。
「報道を見たかね」
「いえ、あまり」と三国峠は正直に答えた。翌日のスポーツニュース以来、どうせ楽しいことは話されていないのだろうとスポーツ紙すら野球欄には目を通さずにいた。
「賢明だ」と白川郷は言葉とは不釣り合いの苦々しげな声で言った。
「もちろん責められるべきはバンデラスでありレッドドッグスだがね、世間では誤審が引き起こした醜悪な事件ということになっている。憂うべき事態だよ。いや、君は悪くない。なすべきことをなしたまでだ。だが、プロスポーツはどうあるべきかというような全体論にまで問題が波及していることは事実だ」
 白川郷が淡々と語るのを、三国峠は他人事のような気分で聞いた。悪くない、と言いながらもなぜ自分がこんな話を聞かされなければならないのか。なぜおまえのせいでと言わんばかりの文脈なのか。どうしろというのか。自分の判定が起点であることなど、当の自分が誰よりもわかっているのだ。そこで、三国峠は訊いた。
「それで、どうしろというのですか」
「なんだって?」
 細い眼を見開いて、白川郷は三国峠を凝視した。
「君がどうこうすべきだと言っているのではないよ」
「そうは聞こえないのですが」
 三国峠の静かな抗議に、白川郷は腰を浮かせて椅子に座り直した。
「あまり深読みするものではないな。君はやるべきことをやったし、私は言うべきことを言っている。それだけのことだよ」
 なるほど。だからこの人は出世したのだろうと三国峠は思った。この世界は曖昧さが動かしているのだ。「君の責任だ」も「私の責任です」も時代遅れなのだ。
「怪我の方は本当に大丈夫なのかね」
 台本に書かれた台詞を読み上げるような口調で言う白川郷に、三国峠は「ええ、まったく」とうそぶいて見せた。「ボールが五つに見えたりはしません。せいぜい三つです」
 三国峠の冗談を白川郷は無視した。
「では来週からローテーションに戻ってもらうとしよう。船橋スタジアムの千葉レッドドッグス対南洋シャークス三連戦だ」
 三国峠は思わず表情を歪めた。
「よりによってレッドドッグス戦ですか」
「むしろその方がいいと思ったのだがね。望むところではないのかね」
 心なしか挑発的な態度の白川郷に、三国峠は黙って頷くと踵を返した。


 帰りに野球博物館の図書室で選手が撲殺された事件を探したが、もちろんそんな記録はどこにもなかった。おそらくは脳震盪のどさくさに紛れて捏造された記憶なのだろう。なぜ脳がそんな創作をしてしまったのかは考えないことにした。考えたってわかるはずがなかった。「抑圧」などという言葉を使えばすべて説明できると思ったら大間違いだ。人間はそんなに単純であるはずがない。

 審判は基本球審→控え審判→三塁塁審→二塁塁審→一塁塁審→球審というローテーションで持ち場を入れ替わる。初戦で比較的負担の少ない二塁塁審、第二戦で一塁塁審を担当した三国峠は、第三戦で球審を務めることになった。
 初戦の試合前にレッドドッグスの利根川監督が審判室にやってきて、三国峠に深々と頭を下げた。
「なにしろコミュニケーションが不十分な外国人のことだ。いろいろと不満も溜まっていたのだろうと思う」と利根川は言ったが、だからといって仕方ありませんねという話ではない。チームの責任者として謝罪すればそれでいいのではないだろうかと疑問を覚えつつも、三国峠はやはり「仕方ありませんね」と言ってしまう。言ってしまった後で、いや仕方なくはないだろうと思う。バンデラスは厳重注意の上で無期限の出場停止処分であるとの説明を受けたが、相応の処分をすれば良いというものではないのではないか。言うなればこれは傷害事件なのだ、と考えれば贔屓目に見ても過失傷害未満ではあり得ないだろう。一歩間違えば傷害致死事件だったのだ。にもかかわらず試合の流れで起こってしまった不幸な事故扱いになっているのはどういうことなのか。グラウンドは無法地帯か。いや違う、ルールブックが法なのであって、ルールを体現するのが審判なのであるから、審判に対する攻撃は法に対する反乱に等しい。たとえ誤審であったとしてもである。審判を蔑ろにする者は法の支配に逆らう者である。テロリストであり、無政府主義者である。謝罪を受けた三国峠は、逆に腹の底から怒りが沸々と湧き上がるのを感じた。そして作り笑いを浮かべながら「お互い大変ですよね」などと口走る自分にも耐えがたい欺瞞を感じずにはいられない。「早々に復帰されて安心しました」じゃない。それは100%おまえの問題でしかないではないか。


 まあ、いい。いや、決して良くはないが、今日のところは、いい。自分一人が憤慨してみせたところで仕方がない。レッドドッグスのファンはいても審判団のファンなどいないのだから、結局は内輪の愚痴でしかないわけだ。それでも場内アナウンスが審判の名前を読み上げた時には、三国峠の名の後にパラパラと拍手が起こった。それで十分だ、と三国峠は思った。


 三国峠は元中部ファルコンズの投手である。もっとも選手時代の三国峠を知る者はほとんどいまい。大学から育成選手として入団したものの結局ファームから一歩も出ることはなく、二軍の公式戦とて数えるほどの登板しかなかった。拍手どころか嘲笑や雑言を浴びた記憶しかない。引退を機に審判を志したのは、敗者としてグラウンドを去りたくなかったからに他ならない。結果がどうあれ、野球場は三国峠が半生の大半を過ごした場所なのだ。すべての野球場がもうひとつの家のようなものだ。小さな故郷のようなものだ。プレイであれ、ジャッジであれ、野球場での仕事はもはや仕事ではない。たとえば視力が低下するなどして審判ができなくなったら、グラウンド整備でも管理員でも喜んでやるだろうと三国峠は思っている。
 印旛沼や御前崎はどうだろうか。彼らとて大学野球やプロの出身とはいえ、三国峠ほどの野球への執着はないように見える。おそらく三国峠は少し昔の熱血野球漫画あたりを読みすぎているのだろう。野球が少年の嗜みだった時代の最後の世代なのだ。藤村甲子園が引退後も甲子園球場でグラウンド整備をやっている、と言ったって彼らは誰の何の話かも知らないかもしれない。

 初戦、第二戦は特段何事も起こらずに試合は終わる。二戦目の終盤に本塁でのクロスプレーがあったが、球審を担当した御前崎はキャッチャーの落球を見逃さなかった。タイミングだけでアウトを宣告したら一悶着あっても不思議ではなかった。三国峠が褒めると御前崎は「たまたまですよ」と笑った。「キャッチャーが、あっ、と言ったんで」
 ただその判定をめぐって一時不穏な雰囲気にはなった。シャークスの監督桜島が走り出て御前崎に激しく抗議したのだ。もちろん判定が覆ることはなかったが、嫌気がさしたらしい利根川が歩み寄って、桜島に何か一言二言声を掛けた、その瞬間桜島が一瞬気色ばむのを三国峠は見ていた。もっとも利根川と桜島の現役時代からの遺恨は有名な話であって、その程度の諍いは日常茶飯事ではあったのだ。


 そして第三戦。フェイスマスクを付けた三国峠は、傷口の腫れがまだ完全に引いていないことを感じて陰鬱な気分になった。違和感が薄い膜のように集中力の表面にへばりついている感覚だった。不快感が三国峠の鷹揚さを覆い隠していた。
 レッドドッグスの先発九里浜は球威のあるストレートと落差の大きいドロップカーブを武器とする投手である。だがこの日の久里浜はコントロールが定まらなかった、速球は高めに浮き、変化球はしばしばすっぽ抜けた様に大きく外れた、そのことで九里浜はひどく苛立っていて、なおさら肩に無駄な力が入るるせいで、修正が効かなくなっているように見えた。三回までに早くも四つの四球を与えてしまっており、二回には連続四球からの味方のエラーで先取点を与えてしまってもいた。リリーフ投手は急ピッチで肩を作っていたが、それまでにどれだけ失点を防げるかという状況だった。
 その回も先頭打者を歩かせた後、真ん中に置きに行った甘いカーブをセンター前に運ばれてランナー一、二塁。続く打者をボテボテのファーストゴロに打ち取ったと思いきや、ダブルプレーを狙った二塁への送球は間に合わず、一塁への送球も逸れて無死満塁。ピッチャーの迷いながらのテンポの悪い投球が守備のリズムを狂わせていることは明らかだった。マウンド上の九里浜は完全に余裕を失っていた。そしてバッターはバンデラスに代わって起用されている去年の四番打者市来。シーズン当初から調子を崩して二軍から上がってきたばかりの市来は打ち気満々で打席に入った。構えたバットを頭上でぐるぐると旋回させる独特のフォームで投手を威圧する。三国峠は嫌な予感がした。それは長年の勘であり経験則だった。こういう状況ではこういうことが起こりがちだという統計学でもあった。つまりそれは起こるべくして起こったのであって、要するに三国峠は運のない男だったのだ。


 外角へのカーブとスライダーが続けてボールになった九里浜には、もう投げる球がないように見えた。キャッチャーが内角高めのストレートを要求したのは至極当然の配球だったと言える。自信を持って投げ込める球がない以上は、コースとスピードを一気に変えてタイミングを外すしかないからだ。しかし、ただでさえ直球が高めに抜け気味の九里浜は、インハイへのコントロールが完全にブレてしまった。時速140㎞の失投が市来の頭部を目指して投じられ、市来はあわてて首をすくめたものの打ちに行った分だけ回避が遅れ、ボールはヘルメットをわずかにかすめてバックネットに激突した。
「危険球!」三国峠は九里浜に指を突きつけて叫んだ。「退場!」
 だがその時すでにバットを投げ捨てヘルメットをグラウンドに叩きつけた市来は、マウンドの久里浜目指して走り出していた。半身で逃げようとする九里浜に対して市来は宙に飛んだ。パニックを起こして躓きかけた九里浜の背中に市来のキックが命中する。九里浜は受け身も取れずに顔面から自慢に倒れた。
 三国峠はフェイスマスクを放り投げて後を追っている。そしてなおも倒れた九里浜に襲い掛かろうとする市来の肩を掴んで力任せに向き直らせて宣告する。
「貴様も退場だ!」
 と、次の瞬間、三国峠は死角から突き飛ばされて地面に転がった。全速力で突っ込んできたレッドドッグスの二塁手佐倉が勢い余って三国峠にぶつかりながら市来に殴りかかったのだ。
「なんだテメェ!」
 絶叫と共に繰り出された拳が市来の顔面にめり込んだ。身を起こした三国峠は鼻血を出しながら地面を転がる市来を、そして佐倉を見た。
「退場だ!」
 叫ぶと同時に目の前で両軍の選手コーチが入り乱れる。佐倉に突進する者、それを静止する者、倒れた九里浜と市来を守る者、顔を突き合わせて怒鳴り合う者、駆けつけたはいいがどうしてみようもなくて立ち尽くす者。その騒ぎの中央で、ひときわ大きな声で罵倒し合っているのはレッドドッグスの監督利根川とシャークス監督桜島だった。二人は互いのチームの選手に両腕を掴まれながら、そうでなければ取っ組み合いの喧嘩を始めそうな勢いで相手を罵っているのだった。長年の互いへの不満が機に乗じて爆発している感があった。間に割って入った三国峠は怒りを込めて言い放つ。
「それでもスポーツマンか!」
 利根川と桜島は示し合わせたように一瞬三国峠を睨み、示し合わせたように黙った。そしてなおしばらく対峙を続けた後で、利根川が掴まれた腕を振りほどくと踵を返してベンチへ戻る素振りを見せた。それを見た桜島もやはり「もういい」と言い捨てて拘束を逃れた。次の瞬間、突然走り出した桜島が利根川の背中に掴みかかった。あまりのことに周囲の誰もが呆然として反応が遅れた。驚いて振り返る利根川の顔面に桜島のパンチが飛ぶ。傍にいた選手がとっさに押し戻したせいで、拳の先がかろうじて鼻の頭をかすっただけだったが、逆上した利根川はそのまま突進して桜島の顔面に頭突きを叩き込んだ。桜島はぐあっと叫んで仰反る。さらに追撃しようとする利根川の前に三国峠が立ちはだかった。
「退場だ! おまえも! そして!」
 と振り返って、顔を抑えてうずくまる桜島の耳元で怒鳴った。
「あんたもだ! 二人とも退場だ!」
 両監督の退場宣告で我に返ったのか、乱闘騒ぎの興奮はようやく収まった。まるで理性を失わせる悪い風のようなものが吹き抜けたかのようだった。両チームの選手が守備位置へベンチへと戻ると、後にはスタンドの重苦しいざわめきだけが残った。


 その後の試合はお粗末なものだった。緊張を欠いた、というより半ば投げやりになった選手は緩慢なプレーや凡ミスを繰り返した。九回には明らかなタッチアウトに抗議してきたシャークスのコーチ鹿屋が「こんなくだらねえ試合やってられるか!」と吐き捨てた。三国峠は試合を冒涜するプロにあるまじき発言であるとして退場を宣告した。誰もが苛立っていたが、いちばん苛立っていたのはおそらく三国峠だった。何かが狂っていると思った。フェイスマスクを付けた時の違和感を思い出して、ひょっとするとそれは自分のせいなのかもしれないとさえ思った。
 一試合退場者六人は、それまでの三人をダブルスコアで更新するプロ野球ワースト記録となった。


 やりすぎだ、と審判長の白川郷は苦々しげに言った。
「最初の三人はともかく、両監督を退場にしたのは安易に過ぎた。鹿屋コーチに至ってはまったくの蛇足だ。もはや退場ための退場と言われても仕方がない」
 三国峠は審判長室の天井を見ていた。石膏ボードの天井板が一枚外れかかっていて、たぶん白川郷は気付いていないのだろうと思った。あるいは視界には入っていても、それが問題だとは認識していないのだろう。
「私は苦言を述べるために君を呼んだのではない。言い分を聞こうというのだ」
 言われてようやく三国峠は白川郷を見た。とはいえ別に言うことはなかった。三国峠は良心に従って裁定を下したのであって、そこにはやりすぎも蛇足もなかった。ただ退場に値する所業の人間が六人いたというだけのことだった。
「妥当な判断だったと思っていますが」
 三国峠が冷静に言うと、白川郷はこれ見よがしに眉を顰めた。
「確かにね。彼らの言動は褒められたものではない。だが我々の仕事は金を取って見せるに足る試合を成立させることだ。道徳をもって断罪することではない」
「間違っていたと?」
 三国峠は不満を露わにして尋ねたが、白川郷は答えなかった。それはそうだろう。グラウンドで正しいか間違いかを判断できるのは審判員しかいないのだから。ただ審判員はグラウンドを出た途端に別のルールに絡め取られてしまう。理不尽だ、と言えば理不尽だが、世界は元々そういうものだ。
「復帰早々申し訳ないのだが」と白川郷はまったく申し訳なさそうにない口調で言った。
「しばらく休暇を取ってもらうことになった。連絡あるまで自宅待機したまえ」
 三国峠はため息をついた。考えてみれば現役時代とて、たった一度の失敗で干されては忘れた頃に言い訳程度の機会が与えられる、その繰り返しだった。結局はそういう世界なのだ。プレイする側からコントロールする側になったところでそれは変わらないのだ。たまたま今まで目立つようなミスがなかっただけで。
「どの程度ですか」
「言った通りだ。連絡あるまでだ」
「休暇届は必要でしょうか」
 白川郷は一旦机の上に伏せた目を、頭を動かさずに三国峠に向けた。皮肉だと思ったのかもしれなかった。
「わざわざ書いたところで誰も読まんよ」
 三国峠は聞こえるようにため息をついた。もう話すこともなさそうだった。
「つまり言い分を聞くというのは社交辞令のようなものだったのですか」
 帰りかけた三国峠が余計なことを承知で言うと、白川郷は一瞬動きを止めた後で憐れむような視線を向けた。
「人の善意をわざわざ無にするようなことを言うものではないよ」

 御前崎が電話をかけてきて「すみません」と言う。意味がわからずに三国峠が訊き返すと、前日に自分が利根川監督を退場にすべきだったのではないかというのだった。あの時自分は一瞬迷ったのだ、スポーツマンシップを欠く言動に対しては容赦しない態度を見せておけば抑止力になり得たのではないか、自分はまだ若いからどうしても遠慮してしまうのだ、なあなあで済めばそれがいちばん無難だと思ってしまうのだと、ことによると涙のひとつも流しているのではないかと疑ってしまうような沈んだ声で御前崎が話すので、三国峠は懺悔室にいる神父のような気分になった。
「考えすぎだ」と三国峠が諭すと、それは自分でもわかっているし印旛沼にもそう言われたし三国峠もそう言うだろうと思っていたのだと御前崎は言った。
「ならば言うことはない。君もわざわざ電話してくる必要はなかったんだ」
 そう言って電話を切ってから、さすがに突き放しすぎたのではないかと三国峠は悩んだ。わかっていて電話してきたのだから、たぶん御前崎は自分が間違っていなかったということを三国峠の口から聞きたかったのだろう。その気持ちはよくわかる。だが同時に勝手だとも思った。だいいちどうして実害のない御前崎の方が被害者のような顔で苦悩しているのだ。なぜ理不尽に断罪された自分が相談に乗せられているのだと。その反面、彼等も彼等なりに逡巡しているのだなと同情が混じった共感も覚えるのだった。そして「審判員である前に人間だからな」などと、どこかで聞いたような言葉を呟いてなんとなく納得したような気分になったり、「クロスプレーよりも人間の方がよほど厄介だ」とか、気が利いているのか適当なのかよくわからない喩えを思いついて悦に入ったつもりになったりもした。結局のところ三国峠は自分の立場を持て余しているのだった。


 別になにをしようとしていたわけではなかったが、とりあえず頭を整理して立ち上がろうとするとまた電話が鳴った。携帯の画面を見ると元妻からだった。世界は自分を安らかにしてはくれないのかと三国峠は思った。
「珠美が会いたいって」
 挨拶もなしに元妻が言った。珠美は中学二年になる一人娘だ。もちろん親権は元妻にあった。一年の半分は平日の夜と休日の昼間家にいないような人間では仕方がない。
「どうして」
「会いたくないと言われるよりずいぶんマシじゃなくて?」
 元妻はそう皮肉っぽく言って嘲笑気味に笑った。
「あの子なりに心配してるんじゃないの」
「俺を?」
「さあ。クビにでもなったら進学できないかもと思ってるのかもね」
「まだ中学生じゃないか」
「もう中学生なのよ」
 互いに相手に合わせることをやめると、人間同士はここまでズレてしまうのだと三国峠は思ったが、なんとなくズレているのは自分の方かもしれないという気もした。
「どうせ暇でしょ」と元妻は言ったが、悪気は感じられなくとも棘はあった。それ以前に言葉の意味そのものは決して間違っちゃいなかった。待ち合わせの時間と場所、それから服装の特徴を元妻は一方的に述べた。
「見りゃわかるだろう」と三国峠が言うと、電話の向こう側の元妻が鼻先で笑った。
「それはどうだか」

 元妻はやはり間違ってはいなかった。三国峠は娘を見つけるのに思った以上に苦労してしまった。聞いていた通りの服装、ターコイズブルーのチェックのシャツにカーキ色のショートパンツの女の子は視界の中に確かにいたのだが、いつまで経ってもそれが珠美だとは認識できなかったのである。一方で、それほど近い距離でもなかったのだが、いじっていたスマートフォンから何気なく目を上げた珠美は次の瞬間には三国峠を見つけていた。そして三国峠はというと、自分に向かって手を挙げる少女がいるのに気づいてようやくそれが珠美だとわかったのだった。もっともしばらく見ないうちに大人びたというわけでもなく、どれほど背が伸びたということでも身体つきが変わったということでもなく、以前より少しだけ髪を長く伸ばしているというだけで、よくよく見ればそれはどこからどう見ても自分の娘だった。いや、歳を考えれば短期間でガラリと変化してもなんら不思議ではないわけで、少女を珠美だと認識したと同時に自分のイメージが更新されただけなのかもしれなかった。
「よ、父」
 不自然なほどに明るい調子で言いながら、珠美は車の後部座席に乗り込んできた。最近の中学校では遠慮や気遣いまで教えるのだろうかと三国峠は訝しんだ。照れ隠し、という言葉が浮かんできたのはしばらく後のことで、三国峠は自分がずいぶんと捻くれた人間になってしまったような気がした。
「部活サボっちゃった」
「部活?」
「テニス部」
「野球やめたのか」
「あたりまえでしょ。目立つじゃん」
「俺はどうやって目立つかばかり考えてたけどな」
「野球女子なんて所詮イロモノですよ」
「最近はプロリーグだってあるじゃないか」
「あたしが父親なら、娘がプロ野球選手になりたいなんて言ったら全力で止めますよ」
 もう中学生か、と三国峠は複雑な気持ちに捕らわれた。離婚してからまだ三年だが、十三年近く経ってしまったような気がした。最初のうちは頻繁に会っていたが、次第に回数が減って、中学生になってからはまったく疎遠になっていた。父親という男が鬱陶しく感じ始める年頃なのだろうと三国峠は勝手に納得していた。
「元気そうじゃん」と珠美は言ったが、ルームミラーの中で彼女は三国峠を見ていなかった。「心配して損したかな」
「心配してくれるんだ」
「まあ、いちおう父だし」
 ものの言い方が母親に似てきたと思ったが、それを口にしていいものかどうかは計りかねた。
「どこへ行けばいい」
「どこでも」
「そう言われてもな」
「優柔不断な男はモテない」
 たいした言われように、三国峠は苦笑しながらアクセルを踏み込んだ。
 珠美はよく喋った。テニス部のエキセントリックな友人のこととか、担任教師がどれだけ腹立たしいかとか、お菓子作りにハマっていることとか、好きでもない男の子に告白された一部始終とか、飼い始めたハムスターが夜中にうるさくて後悔しているとか、英語のテストで赤点を取って泣きたいとか、体育祭のリレーで転んで恥をかいたとか。まるで間断なく話し続けることが目的のような話ぶりだった。


 目的もなくただ車を走らせているうちに海岸に出たので、目についたレストランで遅めの昼食を取った。待ち合わせが正午だったのですぐに食事と思っていたのだが、珠美があまりにも延々と話し続けるので、すっかりタイミングを逸してしまったのだ。さすがに話し疲れたのか、パスタとパフェを平らげて少しだけ静かになった珠美に、三国峠はおもむろに言った。
「他に話したいことがあるんじゃないのか」
 珠美は一瞬だけ三国峠と目を合わせると、顔を背けて窓の外の海を見ながら「別に」と言った。
「母さんのことか」
「どうして」珠美が少し驚いたように三国峠を見た。
「あれだけいろいろ喋ったのに、母さんのことは一言も出てこない」
 そう言うと、珠美はまた視線を風景に向けて黙った。運ばれてきた三国峠のコーヒーが冷めるくらいの時間があった。
「母さんさ、再婚するかもよ」
 唐突に言った。
「あたしがまだ気づいてないと思ってるみたいだけど」
 そうか、と三国峠は言った。他にどう言えばいいのかわからなかったし、考えてみれば言うこともなかった。
「それだけ?」
 珠美が拍子抜けしたように端正な顔を歪ませる。安堵と失望がないまぜになったような見たことのない表情だった。一気にまた三歳くらい大人に近づいたようにも見えた。
「なにか言える立場じゃないよ。母さんの人生なんだし」
 三国峠がそう言うと、ややあって珠美の目つきが変わった。
「ずいぶん勝手じゃない」
「え?」
 意表を突かれて三国峠は口籠ってしまう。
「アウトだよ、あたしに言わせれば。楽々アウト。完全にアウト」
 咎められて呆然とする三国峠が死角に気づくのには少し時間がかかった。そうだ、何よりもそれを一番に考えなければならなかったのだ。
「そうだな」と三国峠は言った。「言う通りだ。アウトだ。退場ものだ」
「勝手に退場するな」と珠美が冷ややかに言った。
「なぜ離婚した」しばらく黙った後で、珠美が咎めるような口調で言った。「母さんの言い分は聞いたけど、あたしは父の言い分を聞いていない」
「必要か」
「双方の言い分を聞かないのは、卑怯だ」
 そうか、と言って、三国峠はしばし考えてから答えた。
「理想と現実の間には必ずギャップがあるものだ。そしてそのギャップを許せる範囲は人によって違う。父が許してもらえると思ったほど、母さんは許してくれなかった。そういうことだ」
「ふーん」と珠美は視線を外して、窓の外にいる誰かに話しかけるように言った。「たぶん、そういうとこなんだろうね」
 三国峠はなにか言おうとしたが、どう考えても妥当な言葉は浮かんでこなかった。

 帰り道の珠美は打って変わって何も喋らなかった。三国峠はまるで一回表の誤審で一点が入ったまま膠着して動かない試合を裁いているような気分だった。
 待ち合わせの公園の駐車場に戻って車を停めると、珠美は数秒動かなかったが、やがて「それじゃあ」と言ってドアを開けた。何か言うべきだったのだろうが、なにをどう言ったところで交通標語程度の建前にしか聞こえないだろうという気がした。
 と、珠美は「あ、そうだ」と座り直して、
「おじいちゃんってどんな人だったの」と唐突に訊いた。あまりに唐突だったので、三国峠は一瞬なにを訊かれたのか理解できなかった。
「おじいちゃん?」
「そう。父の父」
 三国峠の父親は結婚前にに亡くなっていたから、珠美は祖父を写真でしか知らない。
「またどうして」
「宿題。作文の」
「穏やかな人だった」としばらく考えてから三国峠は言った。「自分が傲慢だと自覚している者だけが他人を非難してよい、と言っていた」
「それで?」
「それくらいしか覚えていない」
 珠美はふーん、と言って車の天井を見上げていたが、やがて「うん、わかった」と言った。「なんとなくわかった」
「なにが」
「父が」
「え?」
 三国峠は情けない声で訊き返したが、珠美はもう車の外に足を踏み出していた。どう考えたってそれだけで作文が書けるはずはなかった。きっとテーマは祖父母ではないのだろう。祖父母を知らない子どもはたくさんいるはずだからだ。あるいはそもそも作文の宿題なんて出ていないのかもしれなかった。
 忘れ物はないかと後部座席を見ると、080から始まる電話番号が書かれたメモが残してあった。とはいうものの、こちらから電話をかけるシチュエーションはいくら考えても想像できなかった。そしてしばらく考え、違う、用があるとすれば珠美の方なのだと気がついて、その番号にショートメールを送った。本文には「父」とだけ入れた。返事は、もちろん、返ってこなかった。

          ●

 三国峠が三人で暮らすには若干窮屈だが一人で住むにはなんとなく広すぎる家で、テレビの画面と時計とを交互に見るような一日を過ごしていると、見覚えだけはある同じ町内の青年が訪ねてきた。細身だが肩と下半身がしっかりとしていて、いかにも野球をやっていそうだと思ったら実際そうだった。役場のチームに所属しながら、休日は若葉町ブレイブスという少年野球チームのコーチを引き受けているという。
「お噂はかねがね」と青年は屈託のない笑顔で言った。三国峠が苦手なタイプの笑顔だった。特にスポーツマンの中には本当に屈託のない人間が何%かいて、おそらくそれは競争とルールと勝負という容易に人を歪ませかねない環境の中で必然的に獲得される処世術のひとつではないかと三国峠は思うのだが、どちらかといえば過剰適応することで生き残ってきた三国峠からすると、彼らの外面はどこかしら本音を封じ込めた、空虚な仮面のように見えてしまうのだった。むろんそこに嫉妬に近い感情が混じっていることを三国峠はちゃんと自覚していたし、だからこそ自己嫌悪も紛れ込んだ自身の感情が何より不快なのだった。
「実はひとつお願いがありまして」と青年は言った。「お忙しいこととは思いますが」
 もちろん青年は三国峠がお忙しくなどない状況であることなど重々承知の上なのだった。でなければ金曜の夜に週末の頼み事をしにくるはずがなかった。今はプロ野球シーズン真っ只中なのだ。
 聞けば、明日練習試合があるのだが頼んでいた審判が急病で来れなくなり、代わりも見つからなくて困っているという。
「アマチュア連盟からの派遣ではないのですか」
「たかが小学生の練習試合ですよ。塁審だって単なる野球経験者です。ただ主審となると誰も自信がなくて……」
「野球をやっていれば、誰だって一度くらいはやらされるでしょう?」
 言った後で、そういう問題ではないなと三国峠は思う。やれるかどうかではなく、やりたいかどうかなのだ。塁審だっておそらく選手の父親が何かだろう。趣味が野球の審判なんて話は聞いたことがない。いや、中にはそういう奇特な人間もいるのだろうが、奇特は「奇異」で「特別」なのであるから、簡単に見つかるような人種ではあるまい。 
「プロの方にお願いするのは身の程知らずというか、誠に恐縮なのですが……」といかにも公務員的な、無遠慮を慇懃さで覆い隠した口調で青年は言った。「なにぶん少年野球なので十分な謝礼も出せませんし、もちろん規定に違反するようであればお断りいただいて構わないのですけれど……」
 断る理由を遠回しにひとつひとつ潰してくるような物言いに三国峠は少しばかり不快感を覚えたが、ここでつまらない言い訳を持ち出すのは逆にプロとして間違っているのではないかという気がした。果たしてアマチュアの試合の審判をしてはならないなどという規則があっただろうか。よくは覚えていないが、というよりそんなケースはほとんどないだろうからあるとも思えないのだが、仮にあったとしてもたかだか練習試合の審判を務めることに何か問題があるだろうか、と考えた三国峠はどう考えてもないだろうという結論に達した。
 決してやりたいわけではない。しかしたとえばこの先、引退して世間的には何の取り柄もない独り暮らしの老人となった場合に、今のままでは地域に居場所があるだろうかと三国峠は時々考えるのだが、少なくとも現状では「ない」だろうと思うのである。恩を売るというのではないが、良い機会かもしれないと思ったのである。審判を生業とする者の矜持とも言えないことはない。
「いいでしょう」と三国峠が言うと、青年は心底ホッとした表情で、では明日の九時にお願いします、と告げて礼も言わずに去った。これだから屈託のない奴は、と三国峠は思った。きっと自分は誰にでも好印象を与える人間だと無意識に信じ込んでいるのだろう。


 翌日。指定された小学校のグラウンドに赴くと、既に両チーム共選手が集まっていて、観戦の父兄の姿も少なからず見えた。少年とはいっても全員が小学生だ。中には身体が小さすぎてユニフォームに埋まっているように見える子もいる。三国峠はグラウンドの入口で立ち止まって、少しだけ顔を綻ばせた。昨夜の青年が三国峠の姿を見つけるなり軽快に走ってきて、今日はよろしくお願いします、と如才なく頭を下げた。それから相手チームの監督らしき中年の男の元へ向かい、何やら声をかけるとその男も近づいてきた。せり出し始めた下腹をベルトで締めつけているせいで、全体のシルエットがひどく不自然に見えた。縦縞のユニフォームの胸には「EAGLES」というどこかで見たようなロゴのチーム名が刺繍されていた。男は城北イーグルスの監督だと名乗り、それ以上何を言うこともなく戻っていった。物腰にどことなく尊大な雰囲気が滲み出ていた。なぜこうも好かないタイプの人間ばかりなのだろうかと三国峠はかすかに吐息を漏らした。プロは、プロだからだろうが、というよりそうでなければやっていけないからなのだが、周囲におもねったり虚勢を張ったりする人間はほとんどいない。それは確固たる自分と、そして自信の裏付けがあるからだろう。実際、たまに見かけるその手の選手は例外なくすぐに消えてしまう。虚飾が通用しない世界なのだ。技術の骨角と精神の筋肉、どちらを欠いても重圧に押し潰されるだけだ。


 自分は厳しすぎるのだろうか、と三国峠は自問したが、いったい何にだ、と考えるとよくわからないのだった。自分にか。いや、それはない。他人にだろうか。いや、印旛沼や御前崎の言動に呆れることはあっても、それを間違っているとは思わないし何を言うわけでもない。強いて言うなら、美学のようなものにだろう。人間を人間らしくさせているものは、たぶん、美学のようなものなのだ、と三国峠は思う。そして、そう思う自分にこそ苦笑する。妻に逃げられた中年男の美学とは何だ、と。どうせたいしたものじゃない。


 などと考えているうちに時間が来た。ホームベースを挟んで整列する選手たちを見て、ああそうかアマチュアの試合はこうだったなと思う。お願いしますの合唱が空に響いた。先攻は城北イーグルス。若葉町ブレイブスのピッチャーはそこそこ速い球を投げるが制球に難があるようだ。先頭打者をいきなりフォアボールで歩かせて、二番打者も3ボール1ストライクとなったところで、ブレイブス監督の青年がベンチを出た。
「あの、すみません」
 声をかけられたのは他でもなく三国峠だった。
「練習試合なんで、そんなに厳密にストライクを取らなくても」
「どういうことですか」と三国峠は思わず訊いてしまう。厳密もなにも、判定を迷うような球はまだ一球も来ていないのだ。
「普通に打てる球であれば、少し外れていてもストライクで構わないです」
 まさか適当でいいとでもいうのだろうか、と思いながらも三国峠は尋ねた。
「適当でいいということですか」
 青年は、ええ、と言った。
 微かに狼狽えながら、三国峠は相手チームのベンチに声を張った。
「ストライクゾーンを広く取っていいという話なのですが、良いのですか」
 腕を組んでどっかと座ったままの監督は、三国峠を斜に見ながら、やはり、ええ、と言った。
「ボールひとつ分くらいですかね」
 失望を表に出さないようにして三国峠が確認すると、青年はニコニコしながら「ですから厳密でなくていいんです」と何の悪気もなさそうに答えた。「打てそうな球なのに打たなかったらストライクで」
 なんてことだ。三国峠はともすればその場に座り込んでしまいそうなほど気が抜けた。ならば別に公式審判員である必要すらないではないか。一塁ベースの横に立っている(その位置は違う)あのTシャツにジャージ姿のたぶん誰かのお父さんだって楽勝でできるではないか。いったい自分の何が求められたのだろうか。審判らしい外見だろうか。それではあまりに失礼ではないのか。
 いやいや、それは考えすぎだ、と三国峠は思い直した。青年は決して悪意があったわけではない。それはわかる。何も考えていなかったのだ。ああいうタイプはそうなのだ。そして公務員という無機質で的確な処理を求められる仕事がそれを補強しているに違いないのだ。確かにこのまま厳密な判定を続けたとしたら、いつまで経っても試合が進まないかもしれないではないか。青年は青年なりに状況に応じた最善の仕事をしたのだ。少なくとも本人はそう思っているだろう。ならばこちらも状況に応じた仕事をするしかないではないか。それが矜持というものだ。矜持とプライドは違う。そしてプライドなど何の役にも立たないことを、三国峠は嫌というほど知っているのだった。プロの選手にも少なからずいる。プライドが特別に大事なものだと勘違いして、何よりも守ろうとした結果、自分の弱点を無防備に晒していることに気づかない愚か者が。
 打つためにフォームを崩さなければならないくらいに外れていなければストライク、わかったいいだろう。三国峠はプレイを再開する。ボール半分高かったがストライク。内角ギリギリをかすめ損なったがストライクで三振。あのコースでは仮に打ってもファウルかボテボテの内野ゴロだっただろう。つまりはナイスボールということだ。審判はルールを体現する者、ルールが変わったらそれを適用するのが任務だ。その点において厳密さはいささかも損なわれることはない。


 試合はコントロールされて進む。失策続きで冗長になっても、自信を持ったコールが空気を引き締める。球審は指揮者である。発声のタイミングと調子とでピッチャーの間合いをも変える。投球のテンポが野手の動きに影響するというのはよく言われるが、そのリズムを調整しているのは審判なのだ。もっともそんな芸当ができるのも、三国峠が百戦錬磨のベテランだからだ。
 とはいえ勝負の方はいささかワンサイドになりつつあった。城北イーグルスは打撃でも守備でも若葉町ブレイブスより一枚上手だった。打者はコンパクトなスイングで鋭い打球を飛ばし、野手は皆無駄のない動きで連携プレイにもそつがない。地区の大会では常に優勝を争うチームなのだと聞いていた。最終回の七回表を終わって9対1。後は若葉町プレイブスの最後の攻撃を残すだけだった。ここで城北イーグルスのピッチャーが交代した。どことなく気の弱そうな、背の高い痩せた少年がマウンドに上がって投球練習を始めた。緊張しているのか、サイドスローから投げられる球は右へ左へと大きく外れた。キャッチャーが肩を大きく上下させて、何度も力を抜くようにアドバイスした。少し心配になった三国峠はマウンドに歩み寄って声をかけた。
「君、大丈夫か」
 少年は、はい、と答えたが、視線の先は三国峠ではなく宙にあった。
「これだけ点差があるんだ。2点や3点取られたってどうってことはない。満塁ホームランを2回打たれたってまだ同点だ」
 少年はやはり、はい、と言ったが、表情が変わったようには見えなかった。二桁の背番号を見て、初めて試合のマウンドに上がるのではないかと三国峠は思った。
 最初の打者こそ打ち損じの内野フライで退けたが、連続フォアボールで一、二塁。ここで次の打者に、真ん中に置きにいった直球をセンター前に弾かれてしまった。前進守備を敷いていたせいで二塁ランナーは三塁止まりだったものの、一アウト満塁。三国峠は満塁ホームランの喩えを出したことを後悔した。まさか本当に満塁になるとは思ってもいなかったのだ。マウンドの少年は早くも泣き出しそうな顔になっていた。君のせいではない、と三国峠は心の中で言う。たとえ押し出し四球であれ決勝エラーであれ、野球は誰か一人が責任を負うような競技ではない。たとえそれが

「おまえのせいだ」

 突然脳内で再生された声に、三国峠の視界が一瞬ぐらりと揺れだ。確かに聞き覚えのある言葉、聞き覚えのある声。もうすっかり忘れていた。高校三年生の夏、全国高等学校野球選手権つまり甲子園のN県予選決勝、九回裏のサヨナラ暴投。時間が経ちすぎているせいと、思い起こしてみたところでどうにもならないと早くから割り切っていたせいで、三国峠の目から見た映像は昨日のことのようにはっきりと思い出せはするが、今となっては何の感慨もない。そのこと自体には。ただ、試合後のベンチ裏で投げつけられた台詞と、それを耳にした時の胃を捻り上げられるような感覚は長い間別物だった。三国峠は反射的に台詞の主を殴りつけていた。
「ああ、俺のせいだ。そんなことわかっているに決まってるだろうが!」
 今の三国峠がその場にいたとしたら、果たしてどうするだろうか、と三国峠は思う。両者退場か。いや、違う。退場の宣告を受けるのは三国峠だ。間違ったことは言っていないのだから。実際、三国峠のせいなのだから。そこにいたチームメイトは何も言わなかった。台詞の主を諌めもしなかったし、暴力を振るった三国峠を責めもしなかった。おそらくそんな気力も残っていなかったのだ。むしろ当然のことを言い、当然の反応をしただけだ思っていたかもしれない。どちらの側につくのも違うと思ったのだろう。そして監督だけが抑揚のない声で言ったのだった。野球は誰か一人が責任を負うような競技ではない、と。それが建前でしかないことはその場にいる全員が承知していた。けれど、その建前こそが唯一の救いだったと言える。誰か一人の責任にするには、あまりにも悔しすぎて我慢がならなかっただろうからだ。全員の責任ならまだ諦めもつくというものだ。


 第一球、第二球と低めに大きく外れて、とにかくストライクを入れることしか考えていない高めの棒球をレフト前に運ばれる。送球が逸れ、セカンドランナーまでホームに帰って2点。続く打者への初球、ふくらはぎへのデッドボールで再び満塁。キャッチャーが立ち上がって野手に叫んだ。
「ひとつずつ!」
 それから、ベンチを見た。指示を伺う目ではなかった。三国峠はそこにはっきりと不安の色を見てとった。さらにフォアボールで3点目。今度はピッチャーがベンチを見た。その目にあるのは狼狽だった。監督は座ったまま動かなかった。表情すら固まったままだった。三国峠は眉を顰めた。小学生は投球数が厳しく制限されている。代わりのピッチャーがいないはずはないのだ。キャッチャーが小声で「罰ゲームじゃん」と呟くのを、三国峠は聞き逃さなかった。
 次の打者はやる気十分だった。そして、打ち損ねた。勢いのないゴロがピッチャー前に転がった。だが、投げることに集中しすぎていた彼は動き出しが遅れた。慌ててホームに投げた送球はすっぽ抜けてキャッチャーの頭上を越えた。二塁ランナーまで帰ってさらに2点。
「タイム!」
 ようやく立ち上がった城北イーグルスの監督が叫んだ。ポケットに手を突っ込んだまま、声を出すでもなく、顎をしゃくってマウンドの少年を呼んだ。フィールドの空気が張りつめるのがわかった。それは城北の選手ひとりひとりから漏れ出している緊張感だった。走ってきたピッチャーが監督の前に立った、次の瞬間、監督は少年の頬を容赦ない勢いで叩いた。パシッという高い音にその場の全員が凍りつく、
「なにやってんだおまえ!」
 中年男は野太い声で怒鳴った。少年は肩を震わせて泣き始めた。
「ビイビイ泣いてんじゃねえよ!」と中年男は追い討ちをかけるように続けた。「まったく、恥かかせやがって」
 さすがに見過ごせなくなった三国峠は男に歩み寄った。
「ちょっとあなた、いくらなんでもやりすぎだろう」
「ああ?」
 中年男は下から睨め付けるように三国峠を見た。一度腹を立てると相手構わずに躊躇なく、というより何も考えずに矛先を向けるタイプなのだろう。
「あんたには関係ねえ。これがウチのやり方なんだよ」
「認められません」三国峠は冷徹に言い放った。「あなたの言動は学童野球の精神に著しく反している」
「はあ?」
 中年男は半分笑いながら訊き返した。
「おまえなに言ってんの」
「暴力は問答無用でアウトです」
「暴力じゃねえよ。指導だ」
「それがやりすぎだと言っている」
「だから強いんだよウチは!」
 中年男は我慢ならない風に声を荒げた。
「みんなそれを承知で入ってくるんだ! おまえに文句言われる筋合いはねえんだよ!」
 そして聞こえよがしにボソッと吐き捨てた言葉が三国峠の一線を超えた。
「……たかが審判の分際で」
「退場だ!」
 三国峠は即座に叫んだ。中年男は呆然とした顔で三国峠を見た。
「は?」
「退場だ。聞こえなかったのか。直ちにグラウンドからの退出を命ずる」
 中年男がヒステリックに笑った。
「なにいい気になってんだよ。たかが少年野球で退場? なんの権限が……」
「ある!」と三国峠はきっぱりと言い放った。「審判にはグラウンド内でのあらゆる権限がある! まさかそんなことも知らずに監督をやっているわけではないでしょう」
 中年男はなにか言おうとして奥歯でそれを噛み潰し、かぶっていた帽子を地面に思い切り投げつけた。醜い、と三国峠は思った。玩具屋の床に転がって泣き喚く子どもとどこが違うというのか。
「やってられるかこんな試合!」
 中年男はそう吐き捨てると、野手に向けてベンチに戻れと怒声を投げた。
「退場だとよ! 帰るぞ!」
「試合放棄ということですか」
 三国峠が確認すると、中年男は顔も向けずに「あたりまえだ!」と怒鳴った。
 城北イーグルスの選手たちは互いに顔を見合わせながら、男の顔色をちらちらと伺いつつ帰り支度を始めた。観戦の父兄もなにやら口々に声を上げながら席を立つ。三国峠は聞こえないフリをした。ヤジは慣れていた。慣れすぎてもいた。なめんじゃねえぞ、という中年男の捨て台詞だけが耳をこじ開けて入ってきた。奇妙なことを言う、と三国峠は思った。いつ彼を見下したというのだろう。おそらく中年男は常に見上げられていないと見下されたと感じてしまう不自由な人間なのだろう。審判は偉いわけではない。ただその名の下に権限を有しているだけだというのに。
 三国峠はホームベースの後ろに立つと、無人のダイヤモンドに向かってゲームセットと試合放棄による若葉町ブレイブスの勝利を宣言した。対戦相手の姿が見えなくなると、若葉町ブレイブスの監督がおそるおそる近づいてきた。
「あの、なんか、すみません」
 青年は上目遣いに、言葉をひとつひとつ置くように言った。
「なぜ謝るんです」
 三国峠はそう訊いたが、青年はもう一度「すみません」と言うと、いたたまれなくなったように背を向けた。


 やがて誰もいなくなったグラウンドに、三国峠はたった一人残された。納得がいかなかった。間違った裁定を下したとはこれっぽっちも思っていないのだが、中年男の言うことにも、一理ないとしても半理くらいはあるのかもしれないと思わざるを得ないのだった。そこには需要と供給に結果が加わった育成サイクルがちゃんと構築されているからだ。ただ、なにかがおかしい。なにかが間違っている。なにかが無視されている。子どもたちの気持ち……ではない。そんなに安直なものじゃない。彼らは義務として野球をしているわけではない。嫌ならば辞めればいい。簡単に辞めさせてもらえなくとも、辞めるための悪知恵くらい、今の子どもは見事に回す。娘を見ていればわかる。では誰が傷つけられている。なにが損なわれている。方法を改めたことで結果が失われるとしたら、それはなにかを守ったことになるのだろうか、自分はいったいなにを守ったのだろうか、と三国峠は自問したが、ルール、尊厳、秩序、理想、健全性、とか思いつく言葉は所詮ただの言葉でしかなく、すぐに考えるのをやめて歩き出した。三国峠は審判員としてなすべきことをなしただけだった。目的も理由もあるはずがなかった。正しさなんてものは、所詮単純なものなのだ。そして、所詮その程度の、一方的な、意味のないものなのだ。

          ●

『審判員の資格と権限』
 ……
(d)審判員は、プレイヤー、コーチ、監督または控えのプレイヤーが裁定に異議を唱えたり、スポーツマンらしくない言動を取った場合には、その出場資格を奪って、試合から除く権限を持つ。審判員がボールインプレイのときプレイヤーの出場資格を奪った場合には、そのプレイが終了して、初めてその効力が発生する。
        (公認野球規則8・01)

          ●

「なぜおまえは自分が正しいと胸を張れるのだ。おまえの目には死角がないのか。おまえは、神か」
「グラウンドではルールが神だ。そして私はルールを適用する者だ。つまりは神の代理人だ。神の名の下に退場を命ずる」
(2002年、神戸アイアンドッグス対日本海ドルフィンズ戦におけるドルフィンズ監督外海府浪雄の抗議と球審北岳登の返答)

          ●

 …王貞治が756号の本塁打世界記録を達成した際、狭い日本の球場だけで達成された「世界記録」になど意味がないと揶揄した者は少なくなかった。それは口さがないファンのみならず、マスコミや訳知り顔の評論家にしても然りであった。しかし彼らは野球という競技を根本的に勘違いしていたのだと言わざるを得ない。そもそも野球とは、厳格な判定基準を排することで成立している競技である。ストライクの範囲は審判によって違い、同じ審判でも日によって違う。同じ角度、速度、高さで打ち上げたインフィールドフライが、別の日、別の審判によっても同じく宣告されるとは限らない。ファウルチップとキャッチャーフライの違いはルールブックのどこにも記されていない。盗塁を試みた走者は、審判の胸先三寸によって一塁への送球でアウトになってしまうかもしれないのだ。それらの曖昧さを我慢できない者は野球などするべきではないし見るべきでもない。基準を厳密に決めるべきだという議論がなされたことはないし、今後もなされることはない。野球はこの世界のように曖昧であり、この世界は野球のように曖昧なのである。
      諫山一雄『哲学としての野球』

          ●

「なにかが間違っていると思います」
 青年は目を逸らしたまま、俯き加減で言った。
 狼狽えていて渡すのを忘れていたと、青年が自宅に届けに来た審判報酬五千円を三国峠は固辞した。そういうわけにはいかないと青年は食い下がったが、それでは受け取ったことにして子どもたちに飲み物でも買ってやってくれと言うと、ようやく納得してのし袋をポケットに入れた。
「礼儀や精神力を学ぶのは、なにも武道の専売特許じゃない。スポーツはすべてそうだと思うのです」
 昨夜の青年に不快感を覚えた自分を、三国峠は少しばかり反省した。無礼と紙一重の屈託のなさは、やはり時に理不尽であろう環境の中で青年が獲得した処世術なのであって、今見ている謙虚な姿が本質なのであろう。外側も内側も大差ない人間は、実際いるのだろうし信用には足るかもしれないが、たぶんただ単に恵まれた境遇にいるだけなのだ。
 言葉を選んでゆっくり話す青年は決して快活ではなかった。次の台詞を探す沈黙が次第に苦痛になってきた三国峠が、なにげなく「上がっていくか」と訊くと、青年が躊躇したのはほんの一瞬で、最初からそのつもりだったかのようにごく自然に靴を脱いだ。
 応接間に青年を通して知人から貰ったまま持て余していた洋酒を出した。三国峠は元々呑める方ではないから酒の価値などわからないが、青年の反応を見るとどうやらかなり高級なウイスキーのようだった。青年は三国峠が勧めるままに遠慮なく飲んだ。なんとなく奢られ慣れている感じがした。先輩は奢るもの、後輩は奢られるもの、という体育会系の不文律はおそらく今でも変わっていないのだろう。それが良いか悪いかは別としても、余計な気を使わなくてもいいという利点は確かにある。
 酔いが回るにつれて青年はよく喋った。もっとも昨日今日かかわったばかりの三国峠の前であるから、大半は野球の話だった。少年野球に勝敗至上主義が蔓延っていることと、父兄もそれを容認していること、そのために連盟の勧告を無視した過剰な練習や体罰が横行していること、おそらくそのせいで重篤なケガが増えていること、実力主義によるいじめに近い差別が恒常化していること等々、そしてそれらを良しとしない自分のチームが弱く、甘いだの無能だだのの中傷に晒されているのだと青年は言った。三国峠はといえば美味いとも思えずに、舌先で舐める程度の飲み方では酔うはずもなく、あまり耳にしない世界の話を勉強するような態度で成年の話を聞いていた。
「三国峠さんは、なぜ審判員に?」
 青年が唐突に訊いた。三国峠がどう答えたものかと考えあぐねていると、酔っている青年は三国峠の返事を待たずに続けた。
「わかりますよ。なんというか、世界をまとめたいんですよ。自分の手で。綺麗な形にしたいんですよ。スムーズに動かしたいんですよね」
 確かに自分が試合をコントロールしているという実感は悪いものではない、が、べつにそれが目的で審判員になったわけではない。だがそこで否定すると面倒なことになりそうなので、三国峠は青年が語るままにしておいた。
「それで市役所に入ったんです。まあ、野球部の先輩の引きもあったんですが、それより社会をね、きっちりまとめる仕事がしたかったんですよ。でも……」
 と、青年はトーンを落とした。
「がっかりしました。みんなそんなにきっちりしてないんですよ。いかに手を抜くかとか、ごまかしてズルをするかとか、そんなことばかり考えている」
 それはどこでも同じだろう、人間そういうものだと三国峠は言ったが、青年は聞いていないようだった。
「僕はサッカーが嫌いなんです。審判の見えないところでみんな普通にユニフォームを引っ張ったり反則するじゃないですか。あとたいしてケガもしてないのに転がって時間稼ぎしたりとか。それがテクニックのひとつであるかのようなの扱いをされてる。あんなのおかしいですよ」
 僕は子どもたちにサッカー選手のようになってほしくはないのだ、と青年は力説した。言いたいことはわかるが、それはそれでサッカーに失礼な話ではないかと思ったものの、三国峠は「まあ、そうだね」と頷いた。
「こんなことなら僕も審判員になればよかったんだ」
 青年が吐き捨てるように言った。三国峠は苦笑するしかなかった。ここで審判員の苦労を話して聞かせたところで、青年にとっては馬の耳になんとやらどころか耳障りなノイズにしか聞こえないだろう。それでも青年がうじうじと卑下を続けるので、仕方なく三国峠は言った。
「でもねえ君、役所がなかったら社会は動かないが、審判がいなくても野球はできる。紅白戦でわざわざ審判員なんか呼ばないだろう」
「審判は無駄だと言うんですか?」
 青年が突然気色ばんで前のめりになったので、三国峠は少し背を反らした。
「審判こそが必要なんですよ。極端な話、グラウンドに選手がいなくても、そこに審判員がいれば秩序が約束されているんです。世界にはなによりも審判が必要なんだ」
 三国峠は至極冷静な声で「まあ、そういう視点もあるのかもしれないね」と言った。それ以上なにも言うつもりがないことを示すために視線を外していたので、青年がどんな顔をしていたかはわからなかった。


 結局青年は二時間ほど家にいたが、トイレに立とうとして躓きかけたことで飲みすぎを自覚して帰っていった。その間、三国峠から話を振ることはほとんどなく、ずっと青年の話に合いの手を入れるだけだった。ひどく疲れたが、たぶん地域の付き合いなどというものはそもそもがこういうものなのだろうと思った。気の合う者が集まっているわけではないのだから。
 慣れないアルコールのせいで頭痛がし始めたので、早く床に着こうと歯を磨いている最中に電話が鳴った。来週の二軍の試合からグラウンドに出ろという審判長白川郷からの連絡だった。
「二軍落ちですか」
 努めて冷静な口調で三国峠は言った。若手のうちは一軍と二軍の試合を行ったり来たりで担当するが、三国峠ほどのベテランになると二軍戦に送られることはまずない。つまりはそういうことなのだろう。
「精神的に楽だろうと思ったのだがね」と白川郷もまた冷ややかに言った。「嫌なら強制はしないが」
「わかりました」と三国峠は間髪入れずに返答した。やる気を見せたわけではなく、これ以上言うことがなかったからだった。
 頭痛薬を探したが見つからず、考えてみれば買った記憶もなかった。仕方なく風邪薬を飲んで寝た。たいした違いはないだろうと思ったが、もちろんそんなわけがなかった。

          ●

 多摩市民球場の二軍戦、それも平日の昼間ともなれば、スタンドも閑散としたものである。三国峠は目視で観客を数えた。107人だった。たぶん公式発表は二割増くらいになるのだろう。あるいはさすがにもう少しサバを読むかもしれない。それはもうフロントの問題であって三国峠には関係がない。ホームの多摩ワイルドキャッツがイースタンリーグの最下位から抜け出せず、対する北日本アロウズとてもはや優勝の目がないBクラスに低迷しているとなれば、誰の興味も引かないのは仕方のないところだった。もっともそれゆえに、わざわざ足を運ぶファンにいい加減な試合は見せられないというものである。今日の試合、三国峠は球審を務めることになっているのだ。


 控室で自分で淹れた茶を飲んでいると、どこかで見たことはあるのだが名前までは知らない審判服の若者が、担任教師から呼び出しをくらった身に覚えのある生徒のような面持ちでやってきた。
「三国峠さん、ですか」
 そうだと答えると、若者は駿河台と名乗った。まだ二年目でオフにアメリカの審判スクールから戻ったばかりだという。座らせて茶を出そうとすると、苦手だというのでインスタントコーヒーを淹れた。試合前にカフェインみたいな利尿作用のあるものを摂るべきではないのだが、それもまた三国峠の問題ではない。
「他の人たちは」
 三国峠が尋ねると、残りの三人は休憩室で談笑しているらしい。
「どうして」
「三国峠さんに遠慮してるんじゃないでしょうか」
「どうして」と三国峠はもう一度繰り返してしまい、我ながら間抜けだと思った。
「だって一軍レギュラーじゃないですか。そりゃあ引け目はあります」
 駿河台はてらいもなく言った。正直の上になにかが付きかねないタイプなのかもしれない。
「チーフですらないよ」
「僕たちは一・五軍ですらないです」
 審判員は二軍の試合を平均して三、四年務めると、時々一軍の試合も任せられるようになる。この状態を「一・五軍」というのである。もちろん年功序列というわけではなく、直ぐに能力を発揮する者が一、二年で一軍に上がったりすることもあれば、もちろん、ほとんど二軍に燻り続ける者もいるのだった。駿河台が「僕たち」と言うからには、他のメンバーが後者だということなのだろう。
 とはいえ三国峠は審判員にヒエラルキーを感じたことがなかった。一軍だろうが二軍だろうが試合は、試合だ。審判は、審判である。
「それは三国峠さんが押しも押されもせぬ一軍だから言えるんですよ」
 駿河台に言われて、三国峠はいささか面食らった。確かに三国峠は普通の出世コース(と言えるかどうかはわからないが)を歩んできていたし、苦労を経験していないと言われればそうなのかもしれない。ひょっとすると忘れているだけということもある。実際、二軍時代のことはあまり覚えていなかった。それだけ必死だったとも言えた。必死だった記憶もないが、それとて忘れているのかもしれなかった。なんにせよ、いつまで二軍戦を担当しなければならないのかはわからないが、あまり打ち解けた雰囲気は期待できそうになかった。考えてみれば人間関係などえてしてそういうものであって、印旛沼や御前崎が特別なのかもしれなかった。同年代で気の置けない審判仲間がいるかと考えると、それは普通に話くらいは誰とでもするが、具体的には思い浮かばなかった。
「ところで」と駿河台が言った。「相談がありまして」
「相談?」
 著名人ならいざ知らず、三国峠には数分前に初めて話をしたばかりの相手に相談を持ちかける心理がわからなかった。あるいは自分の抱えている問題に他人を巻き込むことで、負うべき責任を分散したいのかもしれない。なざならその結果が望んだようなものでなかった時に

「おまえのせいだ」

 と考えることができれば、たとえ口には出さなくとも、楽であることは間違いないからだ。もちろん単純に知恵や別の視点を求めているだけかもしれない。
「なぜ私に」と、そこで三国峠は尋ねた。
「先輩ですから」と駿河台は言った。「大先輩じゃないですか」
 言われてみればそうだった。先輩に相談するというのは確かにごく自然な選択ではあるだろう。要は先輩と呼ばれるには歳を取りすぎているのだと三国峠は思った。若い頃なら後輩に相談を受けることに、自尊心をくすぐられる喜びを感じたかもしれない。そうだったようにも思う。だが歳を重ねるにつれて疑心暗鬼が先に立ってしまうものだ。
「なんの話かは知らないが、たいした助言ができるとも思わないのだがね。私は……」
 言い終わらないうちに、辞めようかと思っているんです、と駿河台が言った。
「何を」
 愚問だった。
「三国峠さんは、どうして審判を続けているんですか」
 無意味な問い返しを無視して駿河台が訊いた。まったく、なぜ誰も彼もが同じことを訊くのだろうと三国峠は思った。他人の理由にどんな意味があるというのだろう。審判はただの役割であり仕事なのであって、なにかの比喩ではないのだ。しかも駿河台は「なぜ審判になったのか」を尋ねたのではない。「なぜ続けているのか」と訊いたのである。
「目指した理由ならある。たいした理由じゃない。目の前に審判という仕事があったからだ。でも続けている理由など考えたこともない」
 三国峠は有り体に言った。考えてみれば、他人になぜ野球選手を続けているのかと訊く野球選手などいないだろう。しかしここに、なぜ審判員を続けているのかと他人に問う審判員がいる。
 言葉が省略されているのではないかと三国峠は思った。おそらく「審判を」ではなく、正しくは「審判なんかを」なのではないか。確かにどれだけファインプレー、いやファインジャッジを披露したところで、審判員が拍手を受けることはまずない。精密機械のような判定を繰り出したところで、誰もすごいとは思わない。感動などしない。ファンレターも届かない。しかし批判はされる。バッターがチャンスで三振しても仕方ないで済む。次の打席でホームランでも打てば名誉はいとも簡単に挽回できる。だが審判は違う。ミスジャッジを仕方ないとは誰も言わない。得点に絡もうものなら、あのミスジャッジさえなければと敗戦の責任さえ負わされる。全打席で凡退した四番打者はその一端さえ担ってはくれない。
 それが審判員だ。
「続けていく自信がないんです」
 駿河台は言ったが、その口調にあまり悲壮感はなかった。割に合わないと言われればまったくその通りなのだし、続けていればそのうちいいこともある、などとは言えるはずもなかった。三国峠自身、そんなことはひとつも思い浮かばなかったからである。
「自信のない審判員では困るね」
 三国峠が言うと、駿河台は「そうですよね」とさらりと答えた。
「技術的な問題で悩んでいるなら無駄だ」
 駿河台は虚をつかれたように「はい?」と訊き返した。たぶんそういうことではないのだろうと三国峠は悟ったが、それでも話し始めたことは最後まで言わざるを得ない。
「正確さが求められるならビデオやら機械やらに頼ればいいだけのことだ。審判という役割が存在し続けているのは、審判が人間だからだよ。我々は曖昧でいいんだ。いや、むしろ曖昧でなければならない」
 コントロールのいいピッチャーであれば、その日の球審の「クセ」を利用するものである。たとえば外角をボール半分外れた球でもストライクになるなら、その日はそのコースを決め球に使う。審判員は観察者でありながら、純粋な裁定者ではない存在なのだ。現に退場処分の明確な規定などルールブックのどこにも書かれてはいない。
「単純に向いていないのだと思います」と駿河台は言った。「なんていうか、充実感がないんです。いい仕事をしたという達成感がないんです」
 充実感とか達成感とか、そんな「やりきった」感覚など三国峠も感じたことはない。何事もなく試合が終わった安堵をそう呼んでよいなら別だが、たぶんそれとは本質的に違うのだろう。いい仕事をしたということではなく、ただ悪い仕事をせずに済んだということでしかないのだから。
「それで」
 三国峠が先を促すと、駿河台は困ったように「それで?」とおうむ返しに訊いた。
「それだけです」
「別に言うことはないよ」
 冷めた茶を口に運びながら三国峠は静かに言った。
「君がそう思うなら、そうなのだ。本当のところは私にはわからんよ。私は君ではないのだから。それに、私だって自分のことをどれほど理解しているわけではない」
「まあ、それはその通りですが……」
 駿河台がいささか不服そうに言うのを、三国峠は渋面で受け流した。
「辞めるなと説得した方がよかったのかね。それとも審判員のやりがいについてでも話した方が?」
 余計なことだと承知しながらも三国峠が言うと、駿河台はねじ曲がった笑みを浮かべながら「そうですね」と言った。
「他人に期待しすぎだと思いますか?」
 そう訊かれて、三国峠は言葉に詰まった。他人になど期待したことがあっただろうかと自問したからだった。

 試合は盛り上がりもあまりない代わりに、目立ったトラブルもなく終わった。達成感や充実感などない方が平和なのだ。それが審判という仕事なのだ。

          ●

 すべて慰めは卑劣だ。絶望だけが義務だ。
 (ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)

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 審判長の白川郷は不機嫌そうに見えた。おそらく実際に不機嫌だったからだろう。白川郷はきっと他人に期待する、期待できる人間なのだ。そうでなければ人の上には立たないし立てない。当たり前の話である。
「今度はなにをやらかしたのですか」
 顔を見るなり、機先を制して三国峠は言った。
「誰の話だ」
「私の話です」
「なにかやらかした自覚があるのかね」
「自覚がないから訊いているのです」
 白川郷は椅子に沈んだまま、片方の眉を吊り上げて三国峠を見た。
「なにもしなかったことが問題だということもある」
「どういう意味です?」
 そのままの意味だよと白川郷は言った。
「駿河台くんは知っているだろう」
「ええ、先日一緒でした」
「退職願が出ている」
「そうですか」
 三国峠は冷静に言った。しばらく沈黙があった。白川郷が我慢できなくなったように口を開いた。
「それだけかね」
「と言いますと?」
「君は相談を受けたと聞いている」
「受けましたね」
 平然と三国峠は答えた。だが、あれは相談だったのだろうか。確かに駿河台は「相談がある」と言ったが、自分の考えていることを述べただけで、どうすればよいかとかどう思うかなどと問われた記憶はないのだった。本人がそう思うのならそうなのだろうと、三国峠は本気で思っただけなのだった。そしてそれをそのまま口にしただけなのである。あれは相談を「受けた」ことになるのだろうか。
逆に駿河台は相談を「受けてもらった」ことになっているのだろうか。
「君はなにも助言をしなかったと聞いているのだが、そうなのか」
 やはりそうなのだ。三国峠は暗澹たる思いにとらわれた。反論も言い争いもない短時間の会話にこれほどの認識のズレができてしまうのはどういうことなのだ。
「駿河台はすでに自分で結論を出していたと思うのですがね」
 三国峠が言うと、白川郷は唇を窄めて鼻の先を捻じ曲げてみせた。痒かったわけではないだろう。それなら掻けばいいだけのことである。
「それは単に君の印象だろう」と白川郷は言った。「もしそうなら相談する必要はあるまい」
「相談なんてたいていはそういうものです。背中を押すなり前を塞ぐなりしてほしいだけです。助言なんて求めていないのです」
「そういうことを言っているのではない」
 白川郷は言いながら、机の上に両肘を乗せて、組んだ手で口元を隠した。それがあまり言いたくないことを言う時のクセであることを三国峠は知っている。
「君が優秀な審判員であることは誰もが認めるところなのだ。その君がいまだサブチーフ止まりなのは、君のそういう部分なのではないかと言っているのだよ」
「意味がよくわかりませんが」
 三国峠はあえて言い返した。
「代名詞が多すぎます」
「わかっているだろう。背中を押すなり前を塞ぐなりすべきだと言っているのだ」
「背中を押してもよかったのですか」
「たとえばの話だよ」と白川郷は苛立ちを奥歯で噛み殺すように言った。「励ますにせよ叱咤するにせよ、審判員としての誇りを伝えるべきだったのだ。それこそが我々の仕事の生命線だ。そうでなくてもビデオ判定の適用を拡大すべきだという声があるのは知っているだろう。荷物が軽くなった分、いや、それ以上に我々の威厳は失われつつある」
「思ってもいないことは言えませんよ」
 白川郷はさすがに顔を顰めた。
「君がどう思っているかではない。建前だろうがなんだろうが、必要な言葉はあるんだ。たとえ車が見えなかろうが、赤信号で道路を横断してはならないという規則と同じだ。それがなければ、秩序は維持できん」
「それは言葉で伝えなければならないものなのですか」
 三国峠が訊くと、白川郷はようやく組んだ手をほどいた。
「その価値観は古いぞ三国峠。伝統工芸の職人ですら作業をマニュアル化している時代なのだぞ」
「誇りや矜持もですか」
 白川郷はしばらく黙ったが、やがて諦めたように言った。
「きっと最初のページに書いてあるよ」
「本当ですか」
「知らないよ。俺なら書く」
 潮時と見た三国峠は背を向けようとして、思い直して尋ねた。
「結局、駿河台にどう言えばよかったのですかね」
 白川郷が黙ったままなので、三国峠はさらに言った。
「辞めるなど説得すればよかったのですか」
 白川郷はそれには答えず、三国峠を憐れむように見ながらため息混じりに言った。
「審判員を一人育成するのがどれだけ大変か、君だって知らないわけではあるまい」
 考えたこともありません、と三国峠は言った。

          ●

 1956年、南海ホークスの若手投手皆川睦男は、ボールカウント3ー0から「どうせ打ってこないだろう」とど真ん中に力のない直球を置きにいった。ボールは明らかにストライクゾーンを通過したが、球審の二出川延明はボールと判定した。当然バッテリーは猛抗議したが、二出川はこう言って堂々と退けた。
「気持ちが入っていないからボールだ」
 これに感銘を受けた皆川は、その後一球たりとも気を抜かないことを信条とし、現役通算221勝を挙げる名投手となった。

          ●

 おそらく、と三国峠は思う。審判員というのは自身の世界との向き合い方を問われる役目だったはずなのだ。グラウンドの裁定者として、倫理と規律によってコントロールされた世界が、どれだけ美しく感動的であるかを知らしめる立場であったはずなのだ。
 いったいいつから審判員はルールブックに手足を縛られた奴隷になってしまったのか。個性を封じられた機械人形に成り下がってしまったのか。いつの間に傍若無人が自由と、主体的な判断が自分勝手と入れ替わってしまったのか。変わったのはなんだ。野球か。世界か。それとも選手か。人間そのものか。誰が悪いのだ。社会か。変わらない自分か。あるいはすべてが詭弁か。

「おまえのせいだ」

 そうだ、自分のせいだ。
 自分が裁定を下すべき世界で自分が裁定を下したのだから、その結果は自分のせいに決まっているではないか。それがどうしたというのだ。「おまえのせい」と「あなたのおかげ」は同じカードの裏表ではないのか。


 ああ、いいだろう。三国峠は開き直ってそう思った。それでいい。世界が自分に退場を迫るなら、まずルールブックを見せてみるがいい。おまえらはルールブックが頭に入っているのか。同時はアウトだと勝手に思い込んでいるだけではないのか。俺は入っている、と三国峠は自信とともに思った。

          ●

 1959年7月19日、毎日大映オリオンズ対西鉄ライオンズの15回戦、8回裏オリオンズの攻撃で二塁でのクロスプレーを塁審の中根之はセーフと判定した。ライオンズ監督の三原脩はこれに抗議したが、中根は「走者の足と捕球が同時だったからセーフだ」と説明した。しかし三原監督は「どこにそんなルールがあるのか。同時はアウトではないのか」と主張、納得せずに審判控室にまで行ってそこにいた二出川延明に同様の抗議を行った。その際「ルールブックを見せろ」と迫る三原監督に対し、二出川はその必要はないと取り合わず、なおも食い下がる三原に「俺がルールブックだ」と言い放って抗議を退けた。
 公認野球規則では「走者が塁に触れる前にボールとともに野手が塁に触れる」ことがアウトの定義とされているので、同時の場合の記述はないものの、論理的にはセーフである。
 なおこの件に関しては、二出川の「俺が言うのだから間違いない」という意の発言を、新聞記者が脚色して「俺がルールブックだ」という言葉に仕立て上げたという説が有力だが、二出川本人はそれを否定している。

          ●

 ルールがあっても上手くいかないことはある。
 ましてや、ルールのない、人によってルールが違うことなど、どうして上手くなどいくだろうか。
 その時、人は、防具を固め、心を無にして、キャッチャーボックスの後ろに立つしかない。そして、こう宣言するしかないのだ。

「俺がルールブックだ」

 少なくとも三国峠は、それ以外の方法を知らない。

          ●

 多摩スタジアムの試合が延長引き分けに終わり、電車もなければホテルも予約していなかった三国峠は、深夜にタクシーで自宅に戻った。一日の休みを挟んで名古屋に向かう予定だった。ほどなくして一軍に復帰はしたものの、ローテーションに関係なく塁審か控室待機の予備要員が続いていた。これならば二軍の試合でコールしていた方がまだ「やりがい」があるというものだった。それにしたってバックネット裏の退屈の対極を「やりがい」と呼ぶならの話である。御前崎などは気楽な調子で「球審変わってくれませんか。気が重いんで」などと言うのだが、もちろん言いながらプロテクターを外して腰を下ろしたりはしないのだ。


 路地の手前でタクシーを降りて荷物を手に立った瞬間、三国峠はいつになく疲れていると感じた。体力的な疲労ではなかった。その日は予備要員だったからだ。ただ座って試合を見ていただけである。真剣にプレーを見守っていたわけではないから、なんならほとんど見ていなかったと言ってもいいくらいだった。家を見た途端に襲ってきた軽い眠気のせいもあったろう。三国峠の注意力は一足先に眠っているも同然だった。だから背後から声をかけられた時、なんと呼ばれたのかも定かではなかったし、どこかで聞いたような声だとは思ったもののそれが誰の声かまでは思い当たらなかったし、相手が街灯を背にしていたこともあり一瞬見たはずの顔も識別できなかった。
 振り向いたと同時に激しい衝撃を感じて、三国峠は意識を失った。
 こんなんばっかりだ、とその直前に三国峠は思った。

          ●

 三国峠が目を覚ますと視界には見覚えのない白い天井があって、微かに鼻をつく消毒液の匂いでそこがまた別の病院であることを知った。顔の左半分がひどく痛かった。恐る恐る手で触れてみて、顔面が包帯でぐるぐる巻きにされていることを知った。しばらくぼんやりしていると、ベッドを囲んだカーテンが突然開いて社会や家庭や職場に対する不満をありったけ顔に貼りつけたようなナースが現れ、何も言わずにまたカーテンを閉めた。しばらくすると今度はチャウチャウ犬みたいな顔つきの老医師がやってきて、立てた指が何本見えるかとか小さな音が聞こえるかとかアンモニアを含ませた綿を鼻に近づけて匂いがするかとかひと通りの感覚検査をした後で、頬骨が折れています、それと脳震盪、とぶっきらぼうに言った。


 誰もいなくなってから三国峠は「ツイていない」と呟いたが、声に出してみるとなにかが違うと思った。単に運がないのではなく、自分が必然的に誰かから悪意を向けられているような気がした。

「おまえのせいだ」

 もうそれでいいと三国峠は思う。
 また少しすると次は私服警官が現れて誰かに襲われる覚えはあるかと尋ねた。ないと言えばない。あると言えばある。犯人は退団を余儀なくされたバンデラスかもしれないし腹の虫が収まらない城北イーグルスの中年監督かもしれないし理由はわからないがあるいは期待を裏切られた駿河台であったとしても驚くにはあたらない。白を黒だと言おうが黒を白だと言おうが白を白と言おうが黒を黒と言おうが、いや、間違いを恐れて白か黒かの断定を避けたとしても、誰かの悪意を買うことはあっても感謝されることなど決してないのだ。裁定者は裁定者であろうとすると孤独にならざるを得ないのだろう。そんなことは考えたこともなかった。もっと早く考えるべきだったのかもしれないが、おそらくはそもそも考えるべきではないのだ。


 審判員には向いていないのかもしれない、と三国峠は初めて考えた。違う。向いていなかったのかもしれない、だ。今さら悩むようなことではない。そして馬鹿げた妄想だとは承知しつつも、三国峠はこうも思った。もし襲われたのがバンデラスや城北イーグルスの中年監督や駿河台だったなら、犯人は他でもなく自分であったかもしれないと。きっと長い間の自己矛盾がここへ来て吹き出しているだけなのかもしれないと。


 退院した三国峠は自宅に戻ると、薄暗い納戸に入って珠美が置いていった金属バットを探し出して外に出たが、陽の光を受けたバットが真っ赤に染まっていたので驚いてそれを放り出した。それはこびりついた血ではなく、考えてみれば珠美のバットは最初から赤いのだった。気を取り直してバットを拾い上げた三国峠は何度も素振りを繰り返した。想像の中で打っているのはボールではなく、脳裏に浮かぶいろいろな人間だった。三国峠は彼らの頭を砕き、腕や脚を折り、肉を裂き内臓を潰して血の雨を降らせた。
 そうしながら、なんとか審判員を続けられるだろうと三国峠は思った。この期に及んで他にできることなどないのだから。

          ●

 おそらく。

 何かが自分を辞めさせようとしているのだと三国峠は思った。

 おそらく。

 世界が自分を退場させようとしているのだと三国峠は思った。

 面白い。やってみるがいい。

 流れに抗え。

 時代に抗え。

 運命に抗え。

 裁定を他者に委ねてはならない。

 生きるとは、そういうことだ。

 今頃気付くとは。

 いや、気付いただけマシなのかもしれない。自分は退場するわけにはいかない。守らなければならないものがある。たとえ誰からも望まれていなくとも。なぜなら。

 生きるとは、そういうことだからだ。

 おまえが生きているのは、おまえが裁定を下さなければならない世界だ。

 誰かにとってのセーフは、誰かにとってのアウトなのだ。

 繰り返す。
 
 裁定を他者に委ねてはならない。

 それは、死ぬことと同義だ。

           ●

 数日後、警官がやってきて犯人が捕まったと告げた。三国峠を襲ったのは同じ町内の、あの若葉町ブレイブスの監督を務めている青年だった。青年はむしゃくしゃしていた、誰かを殴ってみたかったと供述しているとのことだった。ああそうかと三国峠は思った。それだけだった。おそらく青年を知る者の中でこの事実にもっとも驚いていなかったのが三国峠だったろう。青年は誰かを殴りたかったのではない。自分を退場させたかったのだと三国峠は思った。我々は全員が被害者であると同時に全員が加害者なのだ。誰かがどうだ世界がこうだと裁定を下そうとする者ならばなおさらのことだ。


 あるいは。
 そもそも青年は裁定を求めていたのかもしれない。いい歳をしてそんな綺麗事を並べているようでは、社会人失格だと宣告してほしかったのかもしれない。自身にそぐわぬ高い場所から飛び降りるために、誰かから背中を押してほしかっただけなのかもしれない。だが、もし三国峠が青年にそれを告げたとして、果たして三国峠は無事でいられただろうか。


 審判員など因果な商売ではないか。
 青年を責めるつもりはない、と三国峠は警察官に言った。むしろ青年に同情している自分に気がついて、三国峠は歪んだ笑いを浮かべた。
「奇特な人だな、あんた」と、見るからに納得していない表情で警察官は言った。「だからといって、罪が軽くなるわけじゃありませんよ」
「わかってますよ」と、三国峠は顔の右側だけで笑いながら言った。「それを決めるのは私じゃない。私は他人の裁定には興味がないんだ」

          ●

「君はもはや厄病神だな」
 白川郷は半ば閉じた歯の間から呟くような声で言った。ひどく疲れている様子だった。そのせいか、いつもなら眠っているのではないかと疑わせる風貌が、今日は一瞬死んでいるのではないかと思えた。
 お言葉ですが、と三国峠は顎を引き、上目遣いで椅子の上の審判長を見据えた。皮肉を言われるだろうとは思っていたが、それを承知で再復帰の挨拶に顔を出す自分はお人好しが過ぎるかもしれない。
「災厄に見舞われているのは私です」
「審判部が春の海みたいに穏やかだとでも思っているのかね」
 確かにこれだけ事件が続けば、なにもないところに煙を立てようとする輩が次々に押しかけたとしても不思議ではなかった。実際にそうなのだろう。だが三国峠とて、好きで面倒を呼び込んでいるわけではない。
「厄祓いでもしてもらったらどうだ」
「しましたよ。年の初めに」と、三国峠はさらっと答えた。「本厄ですからね」
「じゃあ信心が足りないんだ」
 三国峠はこれ見よがしに声を上げて笑った。
「あなたがそんなことを言うとは夢にも思いませんでしたよ」
 三国峠が言うと、白川郷は一度睨み返した視線を外して、退屈そうな声で答えた。
「私もだ」

          ●

「辞めることにしました」
 印旛沼は神妙な、しかしどこかしら他人事のような気楽さを透明な膜のように貼りつけた表情で言った。
「止めたんですけどね」
 大仰に顔を顰めて御前崎が頭を掻いた。
「先に辞めると言い出したのはおまえじゃないか」
「俺はおまえと違って仕方がないんだから仕方がないだろう」
 リーグ5位と6位の消化試合を前にした湾岸スタジアムの審判控室で、三国峠は二人に横顔を向けたまま紙コップの冷めかけたコーヒーを飲んだ。御前崎が今シーズン限りで辞めるという話は聞いていた。父親が身体を壊して、実家の酒蔵を継がなければならないのだという。兄がいることはいるんですけど、と御前崎は言った。「下戸なんですよ」
 世の中の空隙はたいてい皮肉で埋められている。
「そうか」と、三国峠は言った。
「止めないんですか」
 御前崎が驚く顔を、三国峠は穏やかな表情で見た。
「子どもじゃないんだ。大の大人が決めたことに他人があれこれ言えるものではない」
「理由くらいは訊いてもよさそうなものじゃないですか」
 御前崎がさらに言うので、三国峠はようやく印旛沼を見た。
「私のせいじゃないのか」
 三国峠が尋ねると、印旛沼は「はい?」と間の抜けた声で首を傾げた。
「どういう意味ですか」
「私が君なら、いや君でなくとも、もし私が私でなくて、今の私を見たら、やはり辞めようと考えるんじゃないかと思ってね」
 印旛沼は力なく苦笑した。
「考えすぎですよ。たまたま母校に教員と野球部監督の空きが重なってできただけです」
「ああ、君は教員免許を持っているのだったな。それがいい。たぶん審判員よりは命の危険はない」
 そう言って三国峠は自虐的に笑ってみせたが、二人は真顔のままだった。
 それよりも、と印旛沼は言った。
「三国峠さんこそ、大丈夫ですか」
「なんだって?」
「俺が三国峠さんなら、きっと退職を考えると思うからです」
 三国峠は一瞬深刻な表情を浮かべて視線を逸らしたが、すぐに笑顔で印旛沼に向き直った。
「大丈夫だからここにいる」

          ●

「おまえのせいだ」

 と、誰かが言う。
 ああそうだとも。
 それが俺の裁定の結果なら、それは紛れもなく俺のせいだ。
 だが、逆に問おう。

「貴様にはその断罪の結果をすべて受け入れる覚悟があるのか」

 俺にはある。
 ありがとう。
 貴様のおかげだ。

          ●

 もしプロ野球の試合前に、バックネット前で赤いバットを振り回す真剣な面持ちの審判員がいたなら、おそらくそれは三国峠毅である。だが一時期のように、三国峠が球審を務める試合に乱闘騒ぎや退場処分を期待する者はもう誰もいない。なぜなら三国峠はその視線や物腰から放たれるあからさまな殺気をもはや隠そうとはしなかったからである。

  駐車場を転がる
     ファウルボールの如き孤独

                  (了)

         


 
 

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