いい感じの石 手頃な石


河原や海辺などで、なぜか目につくいい感じの石というものがある。
丸っこかったり 魅力的な角が立っていたり
食パンの様な見た目をしていたりする。

何が良く感じるのかはその時々によって違う。


以前、唐突にその場で紙の束を押さえておく為の重しが必要になった事があった。そして幸いにもそこは花壇や中庭があったりする施設だった。
一緒に居た方(iさん)が外で手頃な石を見繕ってきてくださるとのことで、私は別の作業をしていた。
この時、手頃な石の要項と言うものを、私たちは特に決めていなかった。

それでも私は持ってきてくれたいくつかの石について、とても適当だと思った。

程よい大きさで、紙が風で飛ばないようにするには十分で手で持ち上げるには不便しない重さ。加えて見逃さないだけの存在感があった。
もしも、また石を集めることがあっても私はiさんの選択を肯定するだろう。

当時の私とiさんはほぼ初対面であったが、示し合わさずとも2人の思い描く「手頃な石」は合致していた。
この一見しただけでは通り過ぎてしまうくらいの小さな不思議さを持った符合は何なのだろうと考えてみた。

そもそもペーパーウェイトという物は果たすべき役割がシンプルで、定義の枠が広い。緩すぎるような気もする。本来はペーパーウェイトでは無いものにも代役が務まるほどだ。

恐らく、ペーパーウェイトという商品名を知るよりも前に私は、何かを押さえておく為には重さのある纏まりのある物を上に置くと良いということを学び、実行していた。たぶん人の真似から始まって段々と自分の仕草にしていったのだろうと思う。

もしかしたら iさんも似た経験を積んできたのではないだろうか。そうすればあの日の局所的な2人の感覚の重なり合いにも納得がいく。


改めて周りを見れば、もはや些細な符合は至る所に存在している。
規模の大きな言葉を使うと、これが社会で暮らすという事なのかもしれないと実感している。


飛んでいって欲しくないものには重しを乗せるなんてこと、考えるまでもなく当然だと思っていたけれど、いつから身についていたのだろう。
名前を付けられなくても、生活のなかで繰り返された行為は確実に私の中で何かを築いた。その一部には今も続く価値観だったりがある。


たとえ既にありふれたものとして現れても、私のしている事は今までの自分が関わっているのだから、それがどこから来たのか、たまには振り返ってじっくり見つめてみるのも悪くないかも知れない。


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