布を被せられた家具について


使わなくなった家具や小型の家電などにおいて、仕舞い方のひとつに、布を被せておくと言うのがある。

ちなみに私の家ではコーヒーメーカーと豆を挽くミルに布が被さっている。手軽なインスタントを重宝しているが、そろそろゆっくりミルの取っ手を回す時間をつくっても良いかもしれない。

布を被せるだけの仕舞い方はとても簡単だ。
埃のかかって欲しくない物に布を乗せるだけ。けれど簡単な分、守れる程度もそこまで広くない。風雨に晒されでもしたら、たちまちのうちに物も布も損なわれてしまうだろう。

だから仕舞う前に少し考えなくてはならない。

これはどの様な場所で保管されるのか。次に使われるまでにどのくらいの時間を過ごすのだろうか。そして再び使い始めるときにはどんなメンテナンスが必要になるだろうかと。

けれど、そんな先まで見通している場合だけでもないだろう。取り敢えず、と思って布をかける事も大いにある。
その時は忘れないようにしなければいけない。
布の下に何を仕舞ったのか、見えていなくても日々布の中は変化していること。


例え話になるが、私は今年の春頃から、自分の今までの生活に一枚布をかけて暮らしているようだった。それはいっときの事だと思っていたのだが、どうやらここまで来て完全に布を取っ払って元どおりという訳にはいかないのだと気づいた。

仮初めの生活を布の上に広げているうちに、いまや立派なひとつの形になった。
仕舞ったはずのこれまでの生活も、時間が経つにつれて、はみ出し、染み出して、新しい様式と融合を始めつつある。
せっかくかけた境界線も意味を成していないみたいだ。

けれども、実感として知っている。
布越しにあって肌に触れることが無くなってしまった領域があること。予期せぬ急場凌ぎと、それでも暮らしを紡ぐ靭さ≪つよさ≫が合わさって、これからどうなるのか、更に分からなくなっていること。

せめて自分が毎日何をしているのか、目を凝らして見つめても一歩先は闇、のような不安が付き纏う。何をすればいいだろう。何が出来るだろうかと考えることはやめたくないと思う。









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