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アカデミックの世界に入りました

先日,東京の私立大学に入学したので現時点で大学での学びを続けるモチベとなっていることをひとつ述べようと思います.選択の幅が広い分,モチベがなければ何もできなくなってしまうので.

現時点で私が思うに,アカデミックの世界というのは現実と隔てられたものではなく,日常生活を送る上でも役立つような価値があるのだと思います.それは例えば,情報リテラシーが身につくことではないでしょうか.勿論,一般社会でも本やWebサイトを活用して,情報収集をする上で気をつけるべきポイントを知ることはできます.しかし,大学で学ぶということは,その理論を日々のレポートなどで実践し,自分のものにする機会に恵まれているということではないかと思うのです.

高校生の時,「水の東西」の授業で,各自で東洋・西洋で異なる考え方がある事例を挙げるというアクティビティがありましたが,私はここで捏造を働いたことがあります.当時,私は手紙の書き方について,どこかで聞いた曖昧な言説をもとに「東洋では結論は後に,西洋では前に書く」という仮説を立て,日本・韓国・イギリスなど複数の国の手紙の書き方の事例を調べました.検索を進めるうちに,西洋・東洋ともにあまり違いがないことに気づき,この仮説をそのまま発表するために,フォーマルな手紙について調べていたのを一方の国の手紙の例だけをカジュアルなものに差し替え,あたかも違いがあるかのように見せたのです.

このように,自分の論に都合のいいように,事例を不適切に援用している例は,他にも私の身近にありました.それはビジネス書です.

私はよくビジネス書のような実用書を読むのですが,ここでは「誰々がこう言った」「何とか大学の研究は何々はこうだと結論した」といった,誤った事例が数々紹介されているのです.具体例を挙げるならば,現在では謬説とされている説をうろ覚えで紹介しているとか,偉人のエピソードなどを別の二次資料・三次資料から引用したため実際と大きく異なるとか,参考文献の一部の文言を文脈を無視して抜き出し,その著者の意図と異なる主張のために援用しているとかいったものでしょうか.

では,なぜこのようなことが起きるのでしょうか.それは書き手・読み手ともに,一次資料にあたっていないからではないでしょうか.書き手は質の低い書物を次々に発売して稼ぎ,読み手は一時資料にあたる手間を省けるという状況にあり,これが誤った事例を援用する質の低いビジネス書の氾濫を招いているように思えます.

ここで,アカデミックの価値というものが見えてきます.潤沢な時間を使って一次資料にあたることで,質の高い知識を得ることができます.日常では時間や手間,労力を惜しんで省略することのある一次資料にあたるという行為を行うことができるほか,日常生活で目にする情報がいかに多くの人の手を経て伝言ゲームになっているか,また自分が何となく抱いた考え・主張がいかに裏付けのないものかを知ることができると思うのです.そうして最終的には,自分が特に興味のある分野について,誰かの意図を持った手を介さない,歪められていないありのままの情報をもとに考えることができるのではないでしょうか.

「仮説を持って調べてみて,違った・結果が出なかったとしても,その時点で価値ある一つの発見なのですよ」

このように,高校時代の研究発表の場で,他校の理科の先生が言っていたのを思い出した.

「テレビで社会学者だという人が何か言っていますが,ああいう人は我々からすると困りますね.彼らは社会学のやり方を無視して主観をしゃべっているわけで,学問にはちゃんとしたやり方というものがあってその上で学説は成り立っているのですから.自然科学でも人文科学でも,『本当にそうなのか?』という批判的思考を持って吟味し続けていかなければならない」

このように,一般教養で履修している社会学の教授は言っていた.

好き勝手言うことのもう一歩先にある,「本当にそうなのか?」を問い続けられる世界.「何の役に立つのか・時間の無駄」という言葉は禁止カードな世界.そんなアカデミックの世界に,足を踏み入れてみたのです.さて,私は何について,研究しましょうか.

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