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『絶歌』を読んで

いつか俺は殺人鬼になるかもしれない。そういう恐れがあったのかもしれない。俺が家族を持ちたくないのは、なにも自由がなくなるからってだけじゃない。新しく家族になるパートナー、いつか生まれてくる子ども。彼らは人間なのだ。そんな彼らを、傷つけてしまう気がするのかもしれない。いつかリミッターが外れて、化けの皮が剥がれる。そういう漠然とした恐怖があったことを、ある本を読んで思い出した。

『絶歌』
あの殺人鬼、酒鬼薔薇聖斗の著書を、私は読んだのだった。正直覚悟が要った。もっと幼い頃にこの本を読んでいたら、間違いなく感化されてしまっていただろう。Notionに読書メモをつけることで自分を俯瞰し、かろうじて彼の世界に引き込まれずに読了した。

彼は著書で、親からは愛されていた、決して家庭環境が悪かったわけではないと述べていた。それでも彼は、憎まれ嫌われ恐れられることでしか自我を確立できず、殺人鬼になったのだという。

彼がある少年を殺害して生首を校門に置いたのは、汚らわしい存在でなければならないはずの自分を好いてくれる純真な少年に出会い、自分の醜さが際立ったからだという。そして自分を破壊したくてその少年を殺したそうだが、この感覚は私も持っているのかもしれない。人を殺すことは考えにくいが、私は一生懸命に努力している人の、前向きな言葉を耳にすると自分の醜さが際立つ気がして、目を背けたくなる。その不快感から逃れるために、どうせそいつは口だけだと、無意識に合理化してしまう。そういうまじめに努力している人の文章を見るのがつらくて、暫くNoteから離れていたのかもしれない。

その後収監された彼は、少年院や自立支援施設でひたすら掃除をし、働いて時間を埋めていたのだという。そのことについて彼は、心の痛みから逃れるためにやっていたのだ、そしてその心の痛みとは成長痛のようなものだと自己分析している。これに関しても、私は将来への不安から逃れるために勉強などをしているので、共通する点があるかもしれない。

だとしたら、私がすべきことは自分の心の成長痛と向き合っていくことだろう。それはここで文章を書くだけでは不十分であり、理論と実践の両輪かもしれない。

家族と面会した彼は、受け入れられるのがつらかったと述べている。私は、高校卒業直後に会ったある人から「先輩」と呼ばれるのが辛かった。成長痛と向き合うことと同様に、受け入れられるような人、先輩と呼ばれるに値する人にもなる必要がある。そんなことを思った。


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