ばらがき 4
肆
走り寄ってきた姉を慌てて押し留めて、むりやり方向転換させて家に帰るように言い含める。
と同時に、はじめ少年は土方のもとに戻ると、やにわに深々と頭をさげて入門を願い出た。
――どうにでもなれ。
八方ふさがりの中、勢い、というよりも、その場をしのぐつもりでの入門願いだった。自棄のやんぱち、という言葉の意味を、はじめ少年はこのとき初めて身にしみて知った。
はじめ少年の形相に鼻白んだ土方だったが、これまでの素行から、門をたたきたくても勇気が出なかったのだろうと勝手に解釈してくれたらしい。
土方は、はだけた襟に手を入れ、ぽり、と肌を掻きながら笑っている。こうしたくだけた姿などは、武士の風上にもおけぬ、と父は決して許さぬため、はじめ少年は身を引いた。しかし、落ちぶれているとかやうらぶれたような印象はなく、かえって、あっけらかんとあけすけにみだらな色気に感じられるのが不思議だった。「そうかい、入門希望者だったのかい――で、お前、名前は?」
かろうじて、姉の顔は見ていなくとも、自分を呼んだ声は耳に届いているだろう。
――はじめという名前は、いまさらごまかしがきかないか。
どうする?
どうすべきだ?
「さいとうはじめ」
咄嗟に口をついて出たのが、母方の実家の姓の斉藤だった。
「はん……?」
土方は眉根をよせた。が、深く追求もせず、驚くほどやすやすと道場にはじめ少年を上げた。
そして、入門の手続きの一切を代わって行ってくれた。といっても、そこらの木札に、みみずがのたくっているようなやる気のない糞下手くそな字で、『さいとう』と名を書いてくれたものくらいだが。
ともあれ、こうして、はじめ少年は『さいとうはじめ』として、試衛館にかようことになってしまった。
予想外の入門になったが、土方の素行を見張るのと、腕に地力をつけるのとを、同時に行える。
――悪くはない。
黙々と木刀を振るはじめ少年の横で、山頂から巨岩が転がり落ちてくるかのような勢いで打ち込みを始めた男が、おおう! と気合いを入れた。木刀を規則正しく振っているはじめ少年のところに、男がのしのしとやってくる。きたな、と思う間もなく、ばん! と勢いよく背中を叩かれた。
「いいぞぉっ! その調子だっ!」
「……」
「気組みだ! 気組みを大切にせねばならんぞぉっ!」
返答もせず木刀を振るはじめ少年に、くるりと背中を向けながら、男は、がっはっは、と豪快に笑い、去っていく。
――……あれで、道場の若さまなのだからな。
固く野太い、岩と岩がぶつかり合うような暑苦しい声で指示をだす男は、はじめ少年が道場に通い出す数ヶ月まえに、道場主である近藤周助の養子となった。
名を、近藤勝太という。
顔面にボツボツと赤い面皰が浮きでている。まるでさざれ石のようだ。
顔だけでなく、身体つきも岩石のようにゴツゴツとしている。
おまけに、身体だけでなく、性格も、常に岩が突進してくる巌のような男だ。頭の中にまで磐が詰まっているかのようで、まっすぐ、と言うよりはいい意味でも悪い意味でも、直進的すぎて深い考えがない。
道場に通う者からは、石臼、石臼、とあだ名されていた。
馬鹿にしているのではなく、これが真面目に道場に通う門弟たちから慕われた結果なのだから、はじめ少年は当初おおいに戸惑ったものだ。だが、常に実直で表面しかない彼は、だれからも好かれていた。はじめ少年も、この近藤という青年には好感をもった。
――剣術の教え方は怒鳴るばかりで、いまいちというか、はっきりいって下手くそだと思うのだが、近藤さんだとしっくりくるというか、らしいというか、そういうものだと素直にするりと懐に入ってくるのは、どういう不思議だ。
手ぬぐいで汗をぬぐっていると、背後から声をかけられた。
「おう、来ていたか」
「……」
土方、こちらは、うって変わって真夏の宵にゆれる風鈴のようなすずしげな声をしている。
はじめ少年は手をとめてふり返り、軽く会釈した。性格を表したピシリとした隙のない所作に、ああ、いいさ、と声をかけた土方の方が遠慮のある声音になる。
「どうだ、少しは勝太さんの馬鹿の一つ覚えみてぇな怒鳴り声にゃ慣れたか?」
「……」
気にしてくれているのだろうが、背中を気安く叩いてくる近藤といい、試衛館のこういう遠慮のなさというか距離の詰め方が、はじめ少年にはまだ馴染めない。
無言のまま答えずにいると、今度は、こんこんと湧き出でる冷たく澄んだ清水のような声が逆方向からかけられた。
「おや、来ていたのですか。どうですか、きみ、すこし、手合わせしてみませんか?」
「……」
胴着には垢じみのひとつなく、鬢はわずかなほつれすらない、これぞ武士と言わんばかりの、きっちりとした出で立ちで道場に現れた男は、落ちついた笑みを浮かべている。思慮深さが目の端あたりに伺える男なのだが、どこか得体のしれなさを感じてはじめ少年はこの男を苦手としていた。
しかし、最近はやりの、仲間の者を『くん』つけして呼んだり『きみ』と声かけする博識さを有しており、柔和温順な態度からは、広聞さを鼻にかける様子も感じられず自然で、いやらしく聞こえない。
まだ道場に通いだしたばかりの子供たちにも隔てなく接しており、土方と違い、たいそう人気がある。
しかしはじめ少年は、どうにも、どこか霏々として降りしきる雪にまじる雹のつぶてような、容赦のなさを感じていた。
――煙草臭い。
ひとつには、彼が煙草のみのせいでもあった。喘病患者は煙草をのむのが常であるが、彼もそうであるらしく、独特の体臭を放っている。
清潔そうに見せておきながら、退廃的な臭気を放つという相反する空気が、はじめ少年を惑わせているとも言えた。
「山南さんの相手かよ、そりゃ、そいつがかわいそうってもんだぜ。おい、悪いこたぁ言わねえ、やめとけ、やめとけ。山南さんの剣は厭らしいぞ」
「おや、では、土方くんわたしのお相手をしてくれますか? くれないでしょう。土方くん、きみ、自分がつれないくせに、人のことをどうこう言うものではありませんよ」
「そりゃまた、ご無礼。じゃぁ、あきらめて、山南さんの相手してやんな」
最初にはじめ少年に声をかけておきながら、土方は左手を懐手にしつつ、またふらり、と道場を抜けてどこかに姿を消した。おやおや、と言いつつ、山南さんと呼ばれた男が、笑みを向けてくる。
「して、きみ、どうしますか?」
――ここで断るわけにはいかんか。
ため息をつきながら、はじめ少年は頭を下げた。
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