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かなしいこととうれしいことと

 仕事とプライベートの境界なんてない生活をもう12年ほど続けているので、夢でも仕事ばかりしている。けれど、最近見たのは「目に見える物体は、生き物もそうでないものも含め、全てドットでできている」というもの。すべてはドットの集合体。SFの世界のように、弾けたそのドットたちは他の場所に散り散りになって、また新らしい何かの一部になるらしい。
ふむふむ。よくわからないが、夢の中で砕けて弾けたドットたちは、目の前で全くちがう形になって生まれ変わった。
 ただ...それは夢の中だけの話。決して軽い気持ちで表現をしてはいけないことが立て続けに起こった、9月末。

 一つは、9/25に保護した黒柴くんのこと。何度も車に轢かれそうになりながら、交通量の多い道路を楽しそうに走っていた。「クロスケ〜!」気づいたらそう呼んで、無宗教ながら「反対車線には行かせないでください」と誰かに祈って夢中で追いかけていた。
車に乗せた後の「元気満々!これからドライブですか」的なキラキラした目と、我が家に連れ帰った夜、ベッドに横たわって「おいで」と声をかけたら、嬉しそうにベッドにジャンプで上がってきて、私の体にぴったりと寄り添い、いびきをかきながら眠った体温が忘れられない。
翌日には一度プチ脱走をしたし(すぐ捕まえた)、ベランダの植物におしっこをかけまくるし、病院も嫌がらずに自分から診察室に入っていくし、力は強いし、すぐに甘えてくるし、ご飯は大量に食べるし...
...ああ、すごくすごく愛おしい子。
仕事・住宅環境などから、家に置いてあげることができなくて、「里親になりますよ」という優しすぎる方もいらしたもので、飼い主さんを探しつつ、警察で預かっていただくことにしたけれど、初めてづくしで不安だろうに、警察署の皆さんが話しかけて、撫でてくださると、クロスケも無邪気に甘えていて。振り返らず、大号泣で走って署を後にした。
その後、無事に飼い主さんが見つかり、連絡先も交換が叶い、これからは家族ぐるみでのお付き合いをさせていただきたい!と伝えることができた。SNSの拡散力や温かい声にもとても励まされた。文字に温度はないけれど、文面や打ってくれている方々の温度が伝わってきて、心強かった。有難うございます。
クロスケの名前も年齢も聞けたので、今度会ったら本名を呼びながら思いっきり撫で撫でできるんだな。うれしいな。

ただ、今回の件、うれしいな。だけで終わらせることができないこともあった。
病院の後、警察署までの道中、初対面の男性が執拗に『煽り歩行』してきて「邪魔だ!こんなでかい犬連れやがって!」とか「馬鹿野郎!どこ見て歩いてんだよ」等々、暴言を吐きながら嫌がらせしてきた。かなしいな。
相手にどんな事情があるのかな、と想像してやり過ごそうとしたけれど、あまりにもしつこくて。自然と口から「ろくな死に方できなくなるから、自分のためにもそういうのやめたほうがいいですよ」と言葉を放っていた。
正解ではないと思うが、相手のカバンにはお守りがついていて、きっと何かには悩んでいて、どこかに信仰心はあるのだろうと思ったから。すんなり・あっさりUターンしてどこかに去って行った。

 とにかく、どんな事情があるにせよ『誹謗中傷』を選択して一方的に投げつけるのはよくない。相手にも同じように事情があるだろう。見えている一部分がさも「全体」のように感じられてしまうのも、仕方がないかもしれない。ただ、よく「わたしのこと何も知らないくせに」っていうけど、それはお互い様。
意見をするなら対象をもっと深く知るべきだし、深く知ったならかける言葉も変わるだろう。


 二つ目は最近この世から去ってしまった素敵な女優さんのこと。
「書くべきではない」「書かなくてもいいのに」「書く必要ある?それ」と、「わたしのこと何も知らない人」たちに言われそうだが、わたしは大いにある。感情をきちんと残したいから書く。とてもとても素敵な憧れの人。
前職で撮影・プロモーション含め1年とちょっとほどの間に少々お仕事をご一緒した。その方の一部分しか見えていないし、その方からしたら、大勢のスタッフの中の1人。当然深いお付き合いではないけれど、それでもお人柄をじゅうぶんに感じられる佇まいと気遣いがあったし、わたしがマネージャー職に興味を持ったのも、この方のマネージャーさんとお仕事をして「かっこいい...」と思ったから。

 前述の、クロスケとのことがあってすぐだったこともあり、「命ってなんだ」と大いに混乱した。自分にも命があって、隣に立つ見知らぬ人にも命があって。
心臓が動いていれば命があるということ?でも、意識・感情がなかったら?
いずれにせよ、あの笑顔も笑い声も、美味しそうにビールを飲む姿も、もう過去の映像でしか拝見することはできない。
「救える命がある」ということは、「救わなければならない状態になってしまっている」ということ。当事者はその方法しか選択できないほどの状態になってしまっているが、第三者のせいで絶たれることなんてのは以ての外。

 まだまだ陳腐で、未熟な言葉でしか表現できないけれど、これからの人生の中でのひとつの課題になったことは明らか。
ドットになって砕けて散って、集合して再生することなんてないんだ。超部外者だけど、まだまだ心の整理がつかないし、一生涯整理などついてたまるものか。


人格、生活、人生、思考は人それぞれだけど、たとえどんな状況であれ、「命」だけはみんな平等だと思う。