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英語はなぜ難しいか?     (音声編②)

 前回に引き続き、英語の「音声」に焦点を当てて、英語speakerへの道(あるいは、英語を聞き取れるようになる方法)を探っていく。

 本記事は前回記事『英語はなぜ難しいか?(音声編①)』の内容を読んでいないと意味不明な部分が多く(読んでいても意味不明?😅)、未読の方は必ず前回記事を読んでから本記事に挑戦(前回に増して理解が難しいと思う)して頂きたい。合わせて、前々回記事『英語はなぜ難しいか?(特別編)』も読むと、より本記事の理解が深まるだろう。まあ、私の自慢話というウワサもあるが 笑(コッチは30年かけて英語を話せるようになったんだ。多少の自慢はさせてくれ!)

 以下に、本記事の要旨を書いておく。

多くの日本語speakerにとって、英語による会話は「言葉のやり取り」とは思いにくい。音楽を聞くつもりで聞く、自分が知らないだけで実は何かを喋っていると思う、などのマインド設定が重要。日本社会に生きるだけならば英語の必要性は薄く、英語を使いこなすメリットを実感する機会をもつと良い。

 例によって本記事の説明は長くなる。メンドーだと思う人は、太字部分だけでも読んでほしい。最後まで読んでくれた方には、素敵なプレゼントを用意してある。

①言語を「聞き取る」ということ

 前回記事で、私は、ある言語を聞き取るためには4つのステップが必要だと分析した。「聞こえてくる」「聞こうと思える」「リズム・スピードにのれる」「内容を理解できる」の4段階だ。そして、英語を聞こえるようになるためには、日本語にはない音(口や舌の形で決まる)を自分が出せるようになる必要がある、と述べた。

 今回は、第2段階「聞こうと思える」について考察する。ポイントはずばり、「相手の話を聞こうと思えるか否か」だ。なんだ、聞こうと思えばいいんだから簡単じゃん、と思った貴方。とんでもない‼️ この段階こそが曲者(前回も似たようなことを言った記憶が😅)で、日本語speakerがいわゆる「自然な英語」を聞こうと思えるようになるには、非常に高いハードルが存在する。どういうことか? 以下、第1段階「聞こえてくる」の時とは異なる要素にスポットライトを当てて説明する。

②会話? オペラ?

 東京(他言語speakerに会えそうならどこでもいい。とりあえず東京にしておく)のどこかの街を歩いているとする。貴方には、何らかの言語による「会話らしきもの」が聞こえてきた。顔の向きや手振りなどから、その集団が会話しているのは何となく分かる。だが、貴方には会話とは感じられない。その集団が「歌っている」と形容した方がしっくりくる。

 どうだろう? 上記の現象、あるいはその現象に遭遇したときの心理に、覚えがないだろうか?

 英語には日本語に存在しない音があり、かつ一部の人には聞こえない音域に感情をのせるケースが多い(前回記事参照)。加えて、英語を話すにはリズム・スピードが重要(「聞き取る」の第3段階)であるため、英会話を聞いていると言うよりも、オペラ鑑賞をしているような気分になる。

 trilingual speakerになった私(前々回・前回記事参照)は、実際に生徒の前で試してみた。私が英語で歌っている時には、全員が「聞こえる」と答えた。ところが、同じ音域(今回の経験から、私は音域やスピードの調整がある程度出来るようになった。こちらは、言語学習よりもカラオケを鍛えたおかげ🙏かもしれない)で歌の内容を「話し」てみると、およそ半分の生徒が「聞こえない」という反応(首を傾げる、聞こうとして耳を近づけてくる、なども含む)であった。

 そう、日本語speakerには、英語で「話している」という現象そのものが認識しづらいのだ。逆に言えば、会話としてではなく、音楽として聞けばある程度までは聞こえる、ということだ。私は以前から、「英語学習にはカラオケが有効」と生徒たちに言ってきた。自分が好き(ヒドい音痴を10年以上かけて修正したので😝)ということもあるが、英語のこのような性質を何となく察していたのかもしれない。そういうことにさせてくれ(生徒にカラオケを勧めるのは、さすがに塾講師として気が引けていた)。

③微妙に聞こえるモスキート音

 再び、東京のどこかの街を歩いていると想像してほしい。貴方の耳に、カン高い音が近づいてきた。それはどちらかと言えば不愉快な音で、貴方は足早にその音から離れていった。後から思い出してみると、あの音の正体は「英語」だったのではないか? 確かめる術(すべ)はない。

 こちらの経験はどうだろう? おありだろうか? ちなみに私は、「オペラ鑑賞」よりも上記の経験の方がはるかに多い。

 英語speakerも(当然のことながら)千差万別で、中にはやたらと高い音域で発声している人もいる。その音声は、聞こえない(聞こえにくい)人にとってはモスキート音である。いや、モスキート音の方がマシだ。なぜなら、あちらは全く聞こえない(年齢を重ねると聞こえなくなるらしい)からだ。聞こえる人(若者に多いらしい)は最初から近づいてこないため、結果的にモスキート音を「聞き続けて」不愉快になることはまずない(なった人がいたらスミマセン🙇‍♂️🙇‍♂️)だろう。

 よく分からない言語による会話は、場合によっては、強制的に不愉快な音を聞かされていることと同じである。言わば、微妙に聞こえるモスキート音を側で流し続けられているようなものだ。そんなとき、貴方ならどうするだろうか? そう、その場を立ち去るのである。英会話(?)をしている人達を傷つけないように、そっと。

④英語speakerは怖い?

 新しい音が聞こえるようになった私(前々回記事参照)にとって、聞こえてくる全ての音が新鮮だった。私はあらゆる音を聞いた。人が発する音はもちろん、自動車やビルなどが出す音、麻雀牌の音、よく聴いてみると植物も音を出している。目的もなく街を歩き回る私は、事情を知らない人達からすれば「変質者」に映ったかもしれない(まあ、否定はしないが😅)。ちなみに、いわゆる高齢者の「徘徊」も、私の場合と同じく、本人の中での認知の変化の結果なのかもしれない。本人にしか分からないこともある訳で、それを他人が「◯◯だ」と決めつけるのは良くない。自らの経験を踏まえて、私は強くそう思う。

 それはさておき、夜の街を(音を求めて)散歩していたときのことだ。背の高い黒人(この表現はあまり好きではないが、雰囲気を感じてもらうために必要な情報)男性が、日本人らしき女の子2人を前に歌っている。その歌声があまりに見事で、私はもっと近くで聞きたいと思った。近づいてみると、どうも歌っているというより、何かの言語で話しているようだ。聞き覚えのある言語だなぁと感じながら、私はさらに彼の言葉を聞いてみた。すると、なんと、日本語を話していた‼️

 以前の私ならば、見た目がゴツい赤の他人に、近づくことすらしなかっただろう。だが、新しい音の世界に生まれ落ちた私は、そのゴツい男性が出す音を聞きたかった。これが「聞こうと思える」だ。一般に、我々日本語speakerにとって、英語speakerは「見た目からして近寄りがたい」。背が高い、タトゥー(その人にとっては、大切な自己表現)を入れている、瞳の色が、髪の色が、肌の色が・・・。これらの要素に加えて、聞き取れない言葉を話しているのだから、それは「怖い」。さらに恐ろしいことには、その怖い人達と英語で会話しろと要求されることもある。「英会話」というスキルらしいのだが、もはや拷問である。せめて、コッチには日本語で喋らせろ‼️ と、かつての私はよく言っていた。

⑤それ、喋ってるの?

 電車に乗っている場面を想像してほしい。貴方の目の前にスーツ姿の男性がいて、携帯電話で話している(マナー違反だ! というツッコミはナシでお願いします)。その人が突然、苦しそうに顔を歪め、何かを発声した。さて、どうする?

 心配になって「大丈夫ですか?」などと声をかけるだろう。別に貴方や私が特別な人格者ということではない。「いや、フツーでしょ?」レベルの話だろう。これが「普通」である社会は素晴らしい。

 ところで、携帯電話の彼は何と言っていたのだろうか? 何かを発声していたのだが、貴方は聞こうとするだろうか?「そんなのドーデモイイじゃん、苦しそうにしていたから心配したんだよ!」と思った貴方。そう、それですよ、それ。目の前で誰かが苦しそうにしていることが重要なのであって、何を言いながら苦しんでいるかは重要ではない。では、苦しそうに見えたのは事実として、彼が何かを言っていたとしたらどうだろう? 貴方には聞こえない。そもそも、聞こうと思えないのだ。

 極端な例だと思うかもしれない。だが、実際にアラビア語(私の第一言語。前々回記事参照)には、苦しそうに発音する音が存在する。厳密には、アラビア語を知らない人からすれば苦しんでいるように思える音がある。断食月として知られる「ラマダン」(ちなみに断食という行為は「サウム」と言う)をアラビア語で発音すると、「ダ(ドゥ)」の音がくぐもっている(喉を緊張させて出す、と説明される)ため、呻いているように聞こえる。最後の「ン」は英語の「n」とは異なり、「ンル」(カタカナ表記は不可能だが、敢えて表記するとこうなる)と、舌を動かして発音する。結果的に、「ラマダン」という単語の後半は、日本語speakerには苦しんでいる、呻いているように感じられる(私個人の感想ではあるが、同調してくれる人も複数いた)。私が今後アラビア語を教える機会に恵まれるとするならば、いくつかの音について「最初のうちは、苦しそうに出すと良い」と指導するだろう。アラビア語をmother tongueとする人でも、「ドゥ」の音を出すのは大変だそうだ。ラジオ講座で言っていた。

 使用言語が異なるということは、使用する音の体系が異なるということだ。言い換えると、ある言語の使い手からすれば「言葉を発している」つもりなのに、その言語を知らない人からすれば、「呻いている」「奇声を発している」「ふざけている」などと感じられることは大いにありうる。このスレ違いが、私の言う「聞こうと思えない」の中核をなす。そもそも、相手が言葉を発していると思えないことがあるのだ。

 例えば、英語の「Can you〜?」は双方の条件(能力というよりも、お互いが同じ土俵に立っているか)を確かめる表現だが、日本語speakerには「奇声」と映ることも多い。この音が聞こえない人とは英語による意思疎通は不可能であるため、そもそも英会話が始められない。ある英語speakerが貴方に、「Excuse me.」と話しかけてきたとする。その後、「Can yon hear my English?」と尋ねてきた。貴方は、出だしの部分が聞こえない・聞こうと思えない。相手は寂しそうに去っていくだろう。「Sorry, I just wanna ask you a question.」とでも言いながら。今度は貴方にも何となく聞き取れるが、時すでに遅し。「日本人は英会話が苦手」とよく言われる(個人的には、大きなお世話😝だが)が、会話以前の問題が横たわっていることを認識する必要があると考える。

⑥英語が出来なくても無問題?

 いかがだろう? 英語を「聞こうと思える」ことの難しさが伝わっただろうか? 第1段階「聞こえてくる」には、多分に技術的な問題(聞こえない音をどうやって出すか。なお、具体的な音の出し方は、音声編の後半で扱う予定)が含まれていた。一方、第2段階「聞こうと思える」には、必要な技術はない。少しの知識と、心理的な問題があるだけだ。しかし、この心理的な問題が実は大問題であるということは、ここまで記事を読んできた貴方にはお分かり頂けると思う。これだけ悪条件を並べておいて大変申し訳ないが、最後にトドメとも言うべき事項に言及させてほしい。次項で素敵なプレゼントを用意してあるので、もう少し我慢してお付き合い頂きたい。

 それはズバリ、日本社会では英語を使えなくても問題ない、ということだ。広東語(中国語の一種)で言うところの「モウマンタイ(無問題)」である。日本で生きるには、日本語が使えれば十分。仕事が出来る、書類も書ける、会話が出来る、買い物にも不自由しない。多くの他言語文献が日本語に翻訳されている、従って学問をする際にも日本語で学べる、海外のニュースも日本語で伝えてくれる ・・・。日本に住んでいて英語が要求される局面は、テストを受ける時と外資系企業で働く時くらいではないだろうか? 多くの日本人にとって、英語が出来るかどうかは成績・ステータスの問題である。

 「そんなの当たり前でしょ!コッチは学校で(あるいは職場で)英語やらされて、仕方なくやってるんだよ」と思った貴方。大正解です‼️ かつての私も全く同じ思いだった。「なぜ日本人なのに英語をやらされるのか」とグチっていた。

 英語が「第一言語」である国は意外と少ない(第一言語の定義が曖昧なため明確には言えないが、10ヵ国に満たない)。英語を母国語とする人の数も、中国語・スペイン語に比べて少ない。まあ、中国は人口そのものが多く、スペイン語は中南米(大航海時代にスペインの植民地に)の主要言語という事情もあるのだが、その割には英語は「グローバル言語」と呼ばれる。実際に、政治・ビジネス・学問の世界でよく用いられている。つまり、多くの人が母国語ではない「英語」を使っているということだ。こうも言える。多くの人が英語を使わざるをえないのだ、と。事情は様々だ。公用語の1つだから使えないと生活に困る、役所で手続きが出来ない。あるいは、学ぼうとする分野には母国語で書かれた本が少なく、何かを学ぶ前に英語を使えるようになる必要がある。アジアの国では、特に理科系の専門分野を母国語では学べないこともある。専門知識の前に、まず英語を身につけなければならない。もちろん、英語を使う仕事に就くしかない(それ以外は貧困のドン底)というケースもあるだろう。

 要するに、日本人には、日本社会で生きるには、英語は必要ないということだ。人は(あるいは、動物は)必要性の薄いことには本気になれない。これは自然な反応である。「日本人なんだから英語が出来なくて当たり前」というのは全くその通りで、言語の性質云々もあるが、日本人として日本社会に生きるのに、英語が出来る必要性はないのだ。究極の「聞こうと思えない」だ。この記事を読んでいる貴方は、英語が話せないかもしれない。ほんの1ヵ月前まで、私もそうだった。それで何も問題はない。まずはそれを素直に認めることだ。

⑦素敵な(?)プレゼント

 では、必要ない英語をなぜ学ぶのか? 大きな理由に「学歴・職歴として有効」というのが挙げられるだろう。もちろん、それも重要だ。だが、せっかくなので、英語speakerとなった私が、英語を使いこなせるようになって「幸せ」と感じるようになった事柄を紹介する。長い記事をここまで読んでくれたことへの感謝と、これから英語speakerになろうとしている貴方へのメッセージだと思ってほしい。なお、私よりも先に英語speakerになっている方には、「先輩!今後もよろしくお願いします🤲」と言わせてもらう。

・様々な人々(日本語speakerを含む)が発している素敵な音声を認識できる。現在の私にとって、最も幸せな時間である。

・自分の素直な感情を表現しやすい。日本語では「お願い」が言いづらい(命令もしくは懇願になってしまう)ケースがあるが、英語ならダイレクトに表現できる。

・英語文のコード(いずれ詳しく説明する予定)を理解できるようになれば、日本語よりも英語の方が「相手の意図」を汲み取りやすい。文章を読む際にも、明らかに英語の方が速く読める。

・会話相手も素直に感情を表現しやすいため、英語によるやり取りの方が本音を聞き出しやすい。あるいは、英語的思考を基調とする生徒(留学・英語教育の浸透によって、多数存在する。幼少期の言語教育の重要性を実感させる)の思いに寄り添えるため、指導において非常に有効。

・英語の音楽、映画、ニュース、動画(ジャンルはご想像にお任せします)などを純粋に楽しめる

・口から出てくる英語を文章にしていけば良いので、英作文の能力が格段に上がる。

・英語で話せる、日記を書ける俺ってカッコイイ‼️

・ヨーロッパ系の言語は似たような音を共有しているため、英語の音の体系を捉えてしまえば、他言語もスムーズに頭に入る。現在、私が「聞き流している」言語は、フランス語・ドイツ語・スペイン語・ロシア語・タイ語・中国語・韓国語である(英語とアラビア語は「聞き取る」)が、新しく覚えなければならない音がほとんど存在しないため、苦痛を感じない(正直に言うと、フランス語を聞くのはやや苦痛)。言語学習はまず音から入るのが基本であり、一定量の音を聞いた後に文字列で確認することで、単語・表現を覚えることができる。つまり、英語を(ある程度)マスターしたら、他の言語学習のハードルが一気に下がる。大学のカリキュラムにある「第二外国語」とは、本来このように学習するのではないだろうか? なお、中国語・タイ語・韓国語はヨーロッパ系の言語ではないのでは? という疑問は正当なもので、これについてはいずれ説明する予定だ。

・ロシア語は「カッコ良さ」と「優しさ」を兼ね備えた素敵な言語(同調者あり)。サイコー‼️

・いわゆる「外国人」と話すのが怖くなくなる。私が勤務する塾では、保護者が非日本人というケースも多い。彼らも片言の日本語を話しているのだが、やはり日本人の心理として話しかけづらい(もちろん、かつての私もそうだった)。いざとなれば英語で(何なら、アラビア語で)意思疎通すればいい、という気持ちの余裕が、自分自身の態度に好影響を与える。

・やはり、英語を教えている立場としては、自身が英語を使えているのは心強い。一部の生徒が英語で話しかけてくれるようになったのは、本当にありがたい。

・スタディサプリのCMで有名になった、「聞こえないんじゃない。最初から言ってないんだ」が、明確に誤っていると断言できるようになった😁。もちろん、英語speakerは「言っている」。ただし、あのフレーズの真意は別のところにあると考えている(次回記事では、このフレーズを多用する予定)。

 ざっとこんなところだろうか。今後の記事でも、思いついた「幸せ」を挙げていく。それでは、アッサラーム アライクム(貴方の上に平安がありますように)‼️


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