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英語はなぜ難しいか?   文法編  時制①

 英語を言語として習得することを目指す、「英語はなぜ難しいか?」シリーズ。文法編の第三弾では、多くの英語学習者を戸惑わせる「時制」について扱う。

 「時制の体系」などと大風呂敷を広げるつもりはないが、私自身も何回で説明できるか分からないので、とりあえずタイトルは「時制①」としておく。本シリーズは私の人生と同じく、「出たとこ勝負」なのである😝。


 では、始めよう。




①時制がどうした?

 まずは、次の2文を読み比べてみてほしい。

A. アイツはいい奴だ
B. アイツはいい奴だった


 ・・・、

 ・・・。


 ビミョーな相違だが、日本語話者ならば確かに「違って聞こえる」はずである。そこから生まれる素直な感想に時制を理解するヒントがある


 という訳で、自分なりの感想を抱いてから以下をお読み頂きたい。



 私が抱く(そして、多くの日本語話者が抱くであろう)感想は、「Bだと、今はイイ奴じゃないってこと?」だ。貴方もそう感じましたよね?

 アイツはイイ奴だったのに、今はどうしてこうなっちゃったんだろう

 と言っているように感じられる。「だった」という表現に、現在との分断を(脳内で勝手に)聞き取っているのである。


 お分かり頂けるだろうか? この、「脳内で勝手に聞き取っている」メカニズムが「時制」である。
 決して、「「イイ奴だ」は現在形で、名詞「奴」の後に断定の助動詞「だ」をつける」、「「イイ奴だった」は過去の助動詞「た」が追加されているから過去形」などという理屈をこねることではない

 ある表現に込められた話し手の意図が、聞き手・読み手に正しく(accuratelyではなくcorrectly)伝わること。そのためのメカニズムが、私が言うところの「文法」である。
 この「正しく伝わる」ことの重要性に比べれば、「◯◯時制」「◯◯用法」「◯◯詞」などの文法用語は小さな話に過ぎない。理解できたならば素晴らしいことだが、その理解が「正しく伝わる」の前に来てしまうのは、まさに本末転倒なのである。



②時制の捉え方は人それぞれ

 しかし、である。Bは単に過去のことを言いたいだけとも考えられる。つまり、「アイツは俺の知っている時点ではイイ奴だった。今がどうかは知らん」という解釈だ。

 と言うか、文面だけを素直に読めばその方が自然である。「別に、今がどうとか言ってないじゃん」と捉えた読者がいても、何の不思議もない。いわゆる「Z世代(Inter net、LINEなどのtoolに生まれた時から触れている世代)」では、その方が多数派まである(← 彼らの感覚についていけなくて、日々苦戦しているオジサンの勝手な推測だ😅)。


 ・・・、

 ・・・。


 結論。聞き手・読み手にどう伝わるかは相手次第だ。だから、自分の伝えたいことが伝わったかどうか知りたければ、相手の反応を待つしかないのである。どーしても知りたければ、私が授業で多用する「分かった? 何が分かったんだ、言ってみろ」というharassmentギリギリ(そのもの?)の質問をする方法もあるが、あまりお勧めはできない。

 それよりも、ある表現が自分の意図通りに伝わるかどうかは相手次第であることを意識し、相手に合わせて表現を工夫することの方が遥かに重要だと考える。

B'. アイツはイイ奴だった(太字を強調して読む)
B". アイツはイイ奴だったのに・・・

 などなど、工夫は思いつくだろう。日本語では。

 同じ工夫を英語ならばどうすればイイか?

B'. He was a nice guy.
B". He was a nice guy, but・・・

 色々な表現を思いつきますね? 思いつくよう、多くの表現を覚えてください

 この工夫が、私が思う「文法」である。そして、自分の意図が伝わったかどうか確認しながら進めるのが「communication」だと考える。



③時制が複雑に感じられる理由

 ここまでの内容を読んで、貴方はどう感じただろうか?

 「そうは言うものの、テストで時制が・・・」「時制を間違えると怒られて・・・」「生徒に教える際には・・」etc。
 大丈夫、私にも経験がある(慰めになってない?😅)。

 そこで、本記事の締めとして、本来は「素直に」「自由に」捉えれば良いハズの時制が、なぜ複雑に感じられてしまうのかを私なりに分析し、かつ対策を考えてみる。参考になれば幸いだ。


・「be動詞」の変化が複雑

 「am、isの過去形がwas。areの過去形がwere」などという意味不明な変形をする。「大丈夫、他のヨーロッパ言語はもっと複雑な変化だから」などは何の慰めにもならず、初習者のヤル気を気持ちよく削ってくれる。

 → 私もスペイン語を練習する際に「yo soy(I amに相当)」はスッと口からでるが、「nosotros(we)は何だっけ?(正解はsomos)」としょっちゅうなっている。両者の使用頻度に差があり過ぎるからだ。少なくとも現時点の私は、「まあ、使う機会が無いからイイっか😝」で済ましている。対して、使用頻度の高い「hablar(speakに相当)」「tener(haveに相当)」はかなり多くの場面で使っている。なお、スペイン語ではこれら一般動詞にも「主語が複数の場合の形」が存在するが、こちらも「語尾にsを付けとけ」くらいの感じで済ませている。ほとんど使わないし😅。
 ・・・。長くなった。結論は「出現頻度の高い表現から覚える」だ。「We are〜」など、「I want to〜」「I will〜」などの超頻出表現を一通り言えるようになってから覚えても遅くない。実際に言語を使う過程で、自然とそういう感覚になると思う。
 そもそも、なぜ我々「ガラパゴス日本のオジサン世代」はbe動詞から英語を習い始めたのか? なぜにbe動詞の変化を完璧にしてから、他の動詞に進まなければいけなかったのか? そこに何か合理性はあったのか? もっとハッキリ言えば、それで英語を使えるようになったのか? 一度冷静に考えてみるべきだろう。
 英語に直せば「We am〜」と言ってしまうレベルでも、何とかスペイン語で自己紹介はできるのである。もちろん、このままで良いとは思わないが(と言うか、3年経ってもこのレベルかよ😱😱)、ここから始めるのは悪くないと思う。




・状況抜きで動詞の変形を要求される

 日本の言語教育は「活用表」「変化一覧」がとにかく好きだ。本シリーズで何度も言ってきたことだが、言語を使う前に活用表を覚えようとするのは、料理を作る前にレシピを覚えようとするのと同じことだ。
 そうではなくて、「レシピを軽く眺めてから」料理を作り始め、よく分からなくなったら「レシピで確認する」。これが本来のレシピの使用法である。
 まあ、この点に関しては英語よりも古文の指導の方が酷いが😱。

→ 「◯◯一覧」を覚えるのではなく、例文とセットで覚え、使う状況をイメージする。大切なことは「日本語に訳すとどうなるか?」ではなく、「どのような状況で用いるか?」「自分が伝えたい内容にfitする表現は何か?」である。
 例えば、「wear」という動詞は「No need to wear a mask」の時しか使わない。「is wearing」ははメチャクチャ使う。「wore」などという過去形は使わないし、「worn」はボロっちいイメージがする形容詞だ。
 ↑ は、English speakerとして覚醒してからの私の感覚だ。私はこの3年間、「wore」を使ったことも聞いたこともない。逆に「Look! That guy is wearing a cool shirt.」などと言う・聞く場面は非常に多い。
 ・・・。あくまで「私は」、ね。特定の表現を使うかどうか、使う状況に置かれるかどうかは人それぞれであり、一律に「これが正しい」などと押し付けられるものではない。
 



・音声と時制がリンクしていない

 「askedはaskの過去形」「wroteはwriteの過去形」だが、「wentはgoの過去形」ではない。なぜなら、音声が違うからである。
 いや、もちろん「wentは何の過去形か?」と問われれば、「go」と答えざるをえない。そういうことが言いたいのではなくて、「goとwentは別のイメージ」ということである。詳しくは次回以降説明する予定だ。

→ 私のnote記事の愛読者の皆さん😍には、もはや「耳タコ」だろう。「correct pronunciation」で単語・例文を覚えることだ。
 音声と意味が一体となって機能するのが言語である。私が音声練習の重要性を強調しているのは、それが言語のイメージを捉える上でも大切だからだ。




・「〜と言わなければならない」と身構えている

 テストですな😅。まあ、定期的にテストしなければ生徒が覚えないというのも一つの真理ではあるが・・・。それよりも、より伝わりやすい表現・誤解されにくい表現を探究することの方が重要だと考える。
 そもそも、言語に正解はない。「これが正しい言い方だ」「こう言わなければならない」などというのは、nonsenseの極みだ。

→ この辺りは、日本の英語教育も変わりつつある。私が本「英語はなぜ難しいか?」シリーズの執筆を始めてからに限っても、かなり教員・講師の英語力は向上したと思う。
 私が普段勤務する個別指導塾では半数以上の講師が大学生なのだが、彼らは当たり前のように「correct pronunciation」で英語の授業を行ない、自然な例文を紹介している。チクショウ、私なんてできるようになったのは40過ぎてからだぞ😭😭。
 まあ、「ガラパゴス日本のオジサン世代」のヒガミは置いておいて、この状況は素晴らしい。英語を「言語として」使える人間は、「こうでなければいけない」などとは言わない(と思う)からだ。

 自身が英語を言語として使えていない指導者側が、テキストなり問題集の「正解(笑)」に頼っているから、それ以外の表現を許容することができない。結局のところ、問題はそこにあると考える。ちなみに、本記事のサムネはこの辺りの心理を表している。

 「Z世代(← 最近覚えた表現だから、使いたくてたまらない😝)」の英語は心配していない。もちろん、彼らとて膨大な練習時間が必要になるのだが、環境・人々の意識が大きく変わっている現代において、日本にいながらにして(当然、留学経験も有効)English speakerになるのは容易になっているからだ。
 今や、「英語は日本の準公用語」と言っても差し支えないだろう。そこに中国語(北京語)・スペイン語が加わるのもほぼ確実だ。実際、京都では日本語の方が耳にする機会が少なかった(次回記事で紹介する予定)。


 という訳で本記事の結論だ。オジサン世代も負けてられないぜ‼️

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