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サバイバーズ―統合失調症の母との再会

人はトラウマと向き合うからこそ強くなれ、生きることの大切さを感じることができる。
私の原点はここにある。

ところが、死と病と絶望から生き抜いたサバイバーズは、「なぜ自分だけが」と運命を呪いがちだ。
重い病気を抱えていたり、毒親から生き抜いた人ならなおさらだろう。

確かに向き合うのは辛い。まともに向き合おうものなら気が変になるだろう。
しかし、例え絶望しても自分の辛い過去に蓋をしたままでは決して幸せになることはできない。

時間がかかっても負の側面と向き合う。
つらくても自らの負の側面に光を当て、それを受け入れるとき、はじめて「自分の人生を生きている」と言えるのではあるまいか。
そしてそれが後悔せず生き抜くということではなかろうか。

運命に、そして社会に翻弄されたままではいけない。
自分、そして家族が不幸の連鎖に取り込まれないためにも、負の側面と向き合う重要性に気付くことが大切だ。

かつて私自身、はじめは諦めていた。
手助けもなく、手がかりもない中でどうやって解決すればいいのか。
母親と自分の生きづらさを本当に解決できるのか?

母親は統合失調症。
昔は「精神分裂病」と呼ばれ、近年まで非人道的な扱いをされてきた。社会からも家族からもつまはじきにされてきた。
20年以上強制入院をさせられ、まともに外も出れず、檻の中で暮らしていたのだ。
何も悪いことをしたわけでもないのに。

私は23年間、母のそういう運命に翻弄された。

しかし、仲間との「つながりの連鎖」が私自身の人生を大きく変えた。

私は北海道出身。今は茨城県在住。
仲間とのつながりの連鎖で人生を変えた者の一人だ。

このブログは母の病気、そして関係回復までの過程をまとめたものである。
メンタル不調、毒親に悩んでいる人だけでなく、生きづらさを抱えている「サバイバーズ」全般にとっての参考事例になると思う。

ぜひ、自分の負の側面と向き合い、生き抜いてほしい。


1.母の強制入院
「お前達が大きくなったら会わせる。約束する」
私が9歳のころ、母が統合失調症になって強制入院されたとき、父が告げた。

母は家族内でいさかいが絶えなかった。
家族内で年中喧嘩をしており、ひどいときは祖母に向けて「うるせぇ!クソババア」と言い放つほどだった。
昼は横になっていた。目にはクマができ、夜眠れてないことは明らかだった。

その上での一か月の失踪と警察沙汰の強制入院である。メチャクチャだった。

まもなく、誰も母について話さなくなった。
母は家族内で「隠された存在」となった。母について話すことはタブーとされた。

私はというと次第に葛藤に苛まれるようになった。
解決の糸口が見えず、それどころか問題そのものを隠す家族の姿勢に不信感が大きくなったからだった。

葛藤のために風呂に入らなくなった。全身に痒みが起き、とうとう中学1年には重度のアトピーになった。
毎日風呂に入り、スキンケアをするようにしたものの悪化しつづけた。
アトピーは30年経った今でも治っていない。

だが、問題はそれだけではなかった。


2.うまくいかない人間関係
葛藤は私の人間関係にも影響した。

恋愛が最もひどかった。
相手との距離を感じると突然攻撃的になったり、冷たくなったりした。
相手は突然の私の変化に困惑していた。ひどく自尊心が傷ついた人もいる。

友人関係は1年と持たなかった。
距離が近づくほど嫌になった。他人に侵入される感覚で疲れてしまうのだ。
とは言え、常に誰かを求めていた。
根底に「私の深い苦しみを分かってほしい」という悲鳴があったのだ。

しかも私自身、こういう自分が嫌だった。
そこで協調性を良くするためラグビーをやったり、わき目も振らず大学で勉強に没頭したりした。

ところが、頑張るほど葛藤は無くなるどころか、ますます大きくなった。
次第に周囲への苛立ちが大きくなっていき、人間不信が強くなっていった。

苛立ちは生きづらさを感じさせた。友人との関係構築の失敗がそれを強めた。
しかも、対処しようにも上手くいかないことが、根本的な問題に向き合わせることとなった。
大学卒業後、母の病、つまり「統合失調症」について向き合うことし、家族会に参加するようになった。

そこで驚くべきことを目の当たりにした。
「統合失調症は二度と治らない病気でないこと」「家族の本人へのケアが重要であること」
同じ立場の人と交流は、私が持っていた常識を根底から打ち砕いた。

そして理解できた。
問題は隠すのではなく、「向き合う」必要があったのだ、と。
私は母に会うことが自分の問題解決になると思うようになった。
強制入院されて十数年が経過していた。


3.「息ができない!」葛藤からのパニック障害
私はずっと「約束」を信じていた。大きくなったら父が母に会わせるいう約束だ。
しかし、父には一向にその気配はなかった。なぜなら、母が強制入院されて間もなく父は離婚し、その8年後、他の人と再婚していたからだ。
父ははじめから会わせる気などなかったのだ。

相談しても無駄だった。母の入院している病院を聞き出せたのがやっとだった。
私は十数年の歳月をかけて父に騙されていた。

なぜ、父は会わそうとしなかったのか。
父によると統合失調症で強制入院となった人は社会復帰が困難なのだと言う。
しかも重い病気であるため、息子の私が常につきっきりで面倒を見る必要がある。
私には到底、やれるようなことでないことだった。

しかし、私には母本人の状況など知る由もない。
結局は母に会わなければわからないことだし、そうせざるを得なかった。

ところが問題はこれだけにとどまらなかった。
失意の中、部屋で一人佇んでいると、父から手紙が来たのだ。
読んでみると、母のことではなく、そこには何と連帯保証書があった。

父は事業立ち上げをしようとしていた。そこで銀行融資を得ようとしたのだが、「息子の私の連帯保証が必要」言われたからなのだ。2000万円もの大金だった。

「何も聞いてない!」

突然のことでパニックになった。途端に目の前が真っ暗になり、呼吸ができず転げまわった。
「借金で将来が閉ざされる。すべてダメになる」と不安から気が重くなった。

誰も助けてくれない。助けを呼ぼうにも誰に助けを求めればいいのかわからない。

さらに、ますます葛藤が強くなった。
父への裏切りと憎しみ。そして世の中のすべての人が敵に見えた。
そして、こともあろうに私自身がメンタル不調になってしまった。パニック障害だった。

もはや、母ではなく自分自身のためにメンタルケアをせざるを得なくなってしまった。
その日から絶望の中、メンタルクリニックへ通うこととなった。


4.運命を変える仲間の出会い
メンタルクリニックは3回ほど通った。薬は効かなかった。効いたと思っても時間が経てば元通りになった。
病院には女性が多く、皆世の中に絶望した顔つきだった。

ところが、ある日医師からショッキングなことを言われた。
「あなたは自己肯定感が低い。病院に通っても良くならない。自助グループへ通った方がいい」
医師から見放された気持ちになった。私は言葉が見つからなかった。

一体、私はどこへ行くのか
家族会、メンタルクリニック、自助グループ…
世の中に振り回され、抗うことのできない自分が悲しかった。

やむおえずインターネットで検索する。
すると病院の近くに自助グループがあった。そこには「回復の12step」という奇妙なプログラムがあった。

「マインドコントロールか?」心配がよぎった。しかし、もはや選択の余地はなかった。

ところが、参加してすぐにそのような懸念は吹き飛んだ。
そこには「言いっぱなし聞きっぱなし」という自分の内面を見つめる場があったからだ。

私自身を正面から見つめると、既に言いようのない悲しみに支配されていた。
他人とはすぐに関係が壊れるようになっていたのだ。
親と信頼が破たんし、自分への信頼すら失ったことが葛藤を作り出していた。

さらに驚くべきことがあった。私同様、親との生き別れでメチャクチャになっている人がいたのである。
私はこれまで自分と同じ境遇にある人に会ったことがなかった。
しかし、十数年以上親と生き別れ、同じく人間関係に行き詰っていた人がその自助グループにいたのだ。

同じ立場の仲間との出会いは、破たんした感情を急速に取り戻すことを可能にした。
自分の弱さからくる欠点を受け入れ、本当に大切なことに向けて行動することに気づかせてくれた。

そして私は、母親に会うことに再度チャレンジしてみようという気になった。
ただ、母と別れてもう23年も経ってしまったのである。いきなり会いにいくには抵抗があった。


5.叔母との再会
母に会うには本人の病状が落ち着いていることが重要だった。
そうでなければ悪化しかねない。すぐに会うことすらままならなかった。

しかし以前、私は叔母が母に定期的に会っているという噂を耳にしていた。だがその叔母も最後に会ったのは9歳の頃だ。その後どうなったかはわからなかった。とは言え、叔母に会わない限り手がかりはゼロだ。

そこで母の近況を知るため、まずは叔母に会いに北海道へ行くことにした。
既に12月になっていた。
駅から出て、雪が積りしきる中しばらく歩き続けた。

大きな団地に公園。20年以上経っても見覚えのある景色は変わっていなかった。
ただ、私には不安があった。
もし叔母が引っ越ししているならどうしようもないのだ。

だが、不安が的中した。
他の家に建て替わっていたのだ。頭が真っ白になった。
辺りを一軒一軒探し、近くに住んでる人に尋ねても見つからない。

だが、ここまで来て大人しく帰るわけにはいかない。
手がかりを掴もうと電話帳から住所を探すと、何と近くにいた。

すぐに電話をかけた。すると「よっちゃんかい?」
電話越しに懐かしい叔母の声が聞こえた。

私の声を覚えてくれていたのだ。すぐに会いに行くと家の玄関前に女性が立っていた。
叔母だった。だが様子がおかしい。
50代後半のはずなのに、まるで白髪交じりの70代のお婆さんだった。

叔母は「体調を崩していて、家で静養していた」と述べた。だが、これが後で悲劇になるとは私はそのとき思いもよらなかった。

しばらくすると、叔母は1通の手紙を渡してくれた。母からの手紙だった。
なぜ私が叔母の家に来たのか、彼女は言わずとも気づいていたのだ。

母の手紙には「体調が良くなってきている」と書かれていた。綺麗な字だった。
統合失調症は薬の副作用で字が崩れやすいと言われている。
しかし、手紙にはそのようなところが一切見られなかった。回復しているのだ。

やっと母の安否を知ることができ、希望が湧いてきた。
ただ、ここ2年ほど叔母は会っておらず、近況はわからないとのことだった。結局自分で確かめてみるほかないようだ。

私は一晩泊まり、叔母夫婦と昔話をした。失われた23年を取り戻してるような気持ちだった。

そして朝になって帰途についた。
帰る途中、年賀状を叔母夫婦に送ることにした。なぜか、返事が来なかったが。


6.叔母の突然の死
春になった。
以前、帰り際に留守電へ連絡したにも関わらず、叔母夫婦から返事が来ないのが気になった。
久しぶりに話してお互い盛り上がったのに帰り際がやけにあっさりしている。そして叔母の老けた姿。

そこで叔母に電話をかけて様子を確かめてみることにした。
しばらくすると、叔父が電話に出てきた。

「ゴールデンウイークが空いてるので挨拶に行きますよ。予定どうですか?」私は述べた。

すると叔父は声を詰まらせながら
「…わかってると思うんだけど。今年初めに亡くなったんだ。君が帰った直後、容体が悪化して」
「肺がんだったんだ。それも末期の…。あのとき君に会ったのが最期だったんだ」

え!?何がわかってるって?全然知らされてなかったんだけど!
23年ぶりに再会して母の安否を教えてくれた直後なのに…

私は動揺を隠しきれなかった。
年賀状を送ってこなかったのは、叔母が亡くなったからだった。

だが、正直信じられなかった。私には元気に見えていたからだ。急に死ぬなんて信じられなかった。
そこで急きょ、ゴールデンウイークに叔母夫婦の家にまた行くことにした。
叔母の安否を確かめるために。

ゴールデンウイークになり、叔母の家に到着した。そこで一枚の大きな写真を見つけた。
叔母だった。

以前会ったときは元気だったのに、たった一枚の写真になっていた。

あまりにもショッキングだった。嘘だと信じたかった。だが、本当だったのだ。
私はその夜ずっと泣き続けた。そして自分を責めた。
「私が殺したのかもしれない。私が無理に会うなんて余計なことをしなければ…」

結局、以前叔母と会ったのが最期になってしまった。
私は失意のまま帰途についた。

だが、一つだけ救いがあった。自助グループの仲間だった。彼らの支えがなければ私は生きていられなかっただろう。
そして、叔母が手渡してくれた手紙が形見になった。


7.そして母との再会
母の手紙には病院の連絡先が書かれていた。しかし、母は元気になっても病院から離れてないことが気になった。何かまだ重い症状を抱えているのかもしれない。
だが、それは確認しない限りどうしようもなかった。そこで、私は病院へ電話することにした。

ところが、病院に確認すると既に母はいないという。すでに退院し、近くの施設で暮らしているらしかった。

驚いた!意外だった。
重い統合失調症と言われたのに。慎重に行動してきたのに。間違いだったのか?

私は困惑しつつも、病院から教えてもらった施設に電話をかけた。その施設はデイケアセンターらしい。
すぐに職員の男性が電話に出てきた。
職員によると母は元気だと言う。
しかし、「母に電話を代わってほしいんですが」と言っても、どういうわけか母が電話に出ない。
職員は言葉を濁すだけだった。

やむおえず、冬に直接母親に会いに行って確かめることにした。

11月になった。
北海道に着いた私は、母のいる町へバスで向った。札幌から3時間も揺られて到着したときは、既に夜になっていた。そこでホテルに泊まり、次の日会うことにしようとした。
だが、ほとんど眠れなかった。

23年も経って息子として理解してくれるのか。受け入れてくれるのか。
様々な不安がこみ上げてきた。母の施設へ行くことに躊躇をしていた。

次の日、朝食をホテルで済ませた後、母のいる施設へと徒歩で向った。
辺りは既に雪が降り始めていた。

ホテルから海岸方面へ20分ほど歩くと病院が見えてきた。
そこからさらに3分ほど歩くと、3階建てのアパートのような施設が見つかった。
母のいるデイケアセンターだ。

ところが、正面の入り口が閉まっていた。休日だからだろうか…
やむおえず、脇にある職員用の入り口へ向かい、インターフォンを鳴らした。
すると、職員がやってきた。電話で話をした男性だった。

職員によると、母に会うには施設裏側から行く必要があるとのことだった。
そこで母の部屋まで案内してもらうことにした。

母のところへ向かう途中、なぜ母は電話に出れなかったのか聞いてみた。
さらに、職員から母が電話に出れなかった理由もようやく知ることもできた。
すると驚く答えが返ってきた。

「高山さんのお母さんは電話に出ることができないんです。何か声が聞こえてくるみたいで」

声!?幻聴のことか?
統合失調症の人は「誹謗中傷の声」を作り出す。さながら誰かが話しているように聞こえてくるのだ。
どうやら、電話を取ると受話器から幻聴が聞こえてくるというらしかった。
それが、電話に出れず、長年母が私と連絡を取れずにいた理由だった。

気が付くと母の部屋の前にいた。私はおそるおそるインターホンを鳴らした。
「はーい」
元気な女性の声と共に玄関のドアが開いた。
そこには白髪交じりになった女性がいた。母だった。


8.さいごに
今、母と再会してかれこれ8年が経った。
思い出すとはじめ再会したときは苦労した。せっかく会いに行ったのに2時間ほどで追い返されるからだ。
失った時間を取り戻すのは簡単なことではなく、そのたび途方にくれていた。

しかし、何度も母に会うたびに話せる時間が長くなっていった。
2年前は一緒に買い物をして正月祝いをしたほどだ。

しかも、私自身の負の側面に向き合っていくたび、あの「葛藤」が薄れていくのを感じた。
今や人との関係において「生きづらさ」を感じることはほとんどない。

私は責任を負うことになったのだ。自分自身にも他の人にも。

母との再会で気づかされたことが一つある。
それは、「どんな辛いことであれ、自分の気持ちに蓋をしてはならない」ということだ。
例え、家族や学校、会社で「禁句」とされていることであっても、自分の気持ちには正直にいなければならない。

無人島で一人住んでいない限り、人は大なり小なり誰かに影響を与えている。
にも関わらず「誰も理解してくれない」と絶望に浸り、その気持ちを押し殺したままでいては、周囲の人に悪影響を与えてしまう。
それが、結局自分に跳ね返って、生きづらさを生んでしまうのだ。

自分には正直にいなければならない。
そうすれば少なくとも自分や周りを不幸の連鎖に巻き込むことは防ぐことはできるだろう。
そして人生に感謝をすることができるようになるのではないか。


謝辞
本ブログは「仲間と作る本」プロジェクトにて本にされ、売上金が東日本大震災の被災者への寄付されます。
はじめ、このプロジェクトを知ったとき、私はすぐに飛びつきました。人生を変えてくれた「つながり」に恩返しをしたい、そう思ったからです。

「仲間と作る本」メンバーがいなければこのブログの実現はできませんでした。
当会を結成した拓さんならびにメンバー全員に深く感謝を致します。

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