先ず米櫃と水筒から始めよ
頼んでいた米櫃がAmazonで届いた。米櫃を買った。米櫃とはただの米を入れる箱だ。
「先ず米櫃と水筒から始めよ」とあるが、米櫃と水筒から始めるべきは一人暮らしである。今回はそんな気づきを話そうと思う。
僕の米櫃にまつわるエピソードは3年前の3月に遡る。一人暮らしを始めるにあたって必要な家電や家具をAmazonで選んでいた時だった。冷蔵庫や電子レンジなどを次々に選んでいく中で母親が米櫃の購入を提案した。「父はそんなものは要らない、袋から直接掬って入れれば良い」と提案した。
実際、袋から掬って入れることで何か不便になるわけでもないし、不便になったとしても些細な差だと思っていた。それよりも初期費用を節約すべきだと考え、父の意見に賛同し僕の一人暮らしがスタートした。
3年くらい、ある程度の頻度で自炊を続けて始めて己の過ちに気がついた。実際米櫃は必要だったのだ。米櫃がない場合、炊飯の度に米袋の口をクリップで留めて密封することになる。直に面倒になったり、クリップを紛失したりで口を閉じなくなり、最終的には開けっぱなしになる。こうなると衛生的によろしくない。
また、米袋保存では継ぎ足しができない。物理的には可能だが何だかフニャフニャの袋に新しい袋から新しい米を注ぐことになる。
ここまで読んでみて、「あなたが面倒くさいだけでしょ?」と思われるかもしれない。
大正解だ。僕が面倒くさいのだ。ただ、このような些細な作業を面倒がる人間は、それを理由に米を炊くのも面倒に思うのだ。米を炊かなくなると、少し単価の高いパスタを食べ始め、それでもやっぱり米料理は食べたいものだから終いには単価が跳ね上がるコンビニ飯や外食に手を出し始める。
「節約」を第一目標に考えるのであれば、米を炊かないのは不経済であり、最も避けるべき行為なのだ。一見不必要ような米櫃に出資することは無駄のようにも思えるが、炊飯を促す点を加味すると十分お得である。
最も重要であったのは自炊をする心理的なハードルを下げることだった。
水筒も同様だ。外出先でペットボトル飲料ばかり買うとかなりの出費だ。家計簿をつけてみると食料費に対するペットボトル飲料の割合は馬鹿にならない値でもあることに気づくだろう。その全てが水道水でも構わないことに加え、清涼飲料水は糖分も高く健康に悪い。特にこれは喫緊の問題で、糖分が高い飲料は十分な水分補給にならず、結果1日で2本3本と購入する事態を招く。
解決策にペットボトルに水を入れて持って行けばいいと思い至るのだが、結局そのペットボトルを入手するにもペットボトル飲料を購入する必要があるため全く意味がない。
同じペットボトルを使い回すのは不衛生であるし、そんな事をするくらいならダイソーで百円の水筒を買えばいい。
実際普段から水を飲んでいても嗜好品としてジュースはある程度飲むため、ペットボトル自体は調達できる。だが、「不衛生かも」という不安がペットボトルに水を汲んで持って行く習慣に歯止めをかける。結果部屋にペットボトルが溜まっていく。
水筒もまた米櫃と同じことで、ジュースを我慢する習慣の心理的ハードルを一つ下げたのだ。
出費を抑えるためにはある程度の初期投資をする必要があることは多くの人が理解していると思う。設備投資なんかはその良い例で、導入した設備が生み出す時間とそれを価値に換算した場合、総合的に低コストとなることが多い。
ただ、この投資の中には時間を生み出す物や、効率を上げる物だけでなく、自分の行動を促す物も含まれるべきだ、というのがつまり僕の言いたいことだ。
たとえ節約しようと志しても、自分が行動に移さなければ何の意味もない。最初は「面倒くさがってはならない」と自分を戒め、自分が行動しない事を勘定に入れず事を進めがちだ。しかし人間なかなか初志貫徹とは行かず、当初の志は大抵持続しない。ならば己の自堕落な性格を気合とやる気で見て見ぬフリをするのではなく、自分でも面倒に思わない環境を整えてあげるほうが効率的だ。長期的な目線で見るとそちらの方が長く続く。これはなにも節約に限った話ではない。僕の目下の関心はやはり節約であるのだが。
今思えば、母は息子の便利さを思って米櫃の購入を提案したのかもしれないが、結局節約という同じ判断基準の上で父と母は対立していたのだ。そして今、僕の中では母に軍配が上がっている。数多の価値基準の中で「節約」の優先度が高いのは家族で類似しているとも思った。
僕は人生で最も価値の高いものは時間だと思っている。ただ、時間が限られているからといって無理に焦り、気を擦り減らすのはかえって有効な時間を無駄にしているとも思う。ただぼーっと空を眺めて時間を無為に過ごすことも、矛盾しているようだが、ある意味では時間の節約である。何はともあれ包括的な視点で僕は無益な時間を減らしたいと思っている。労働によって実質的に時間をお金に換算できる以上、お金の節約は時間の節約でもあるのだ。だから僕は財政管理にこだわる。心穏やかに余裕を持って人生を消費したいから。
僕が米櫃の重要性を理解できていなかったのと同じように、世の中には僕が未だ気付いていない価値が転がっている。だから僕は一見意味のないことや納得できないことにも、異なる視点からその意義を見出すよう常日頃試みている。自分がその価値に気づく感性を持ち合わせていないだけかもしれないのだ。
ただ、長年考え続けても、ペットボトルで水を買う理由だけはわからない。なまじ店に並ぶ水の値段が安いから気づかないが、ペットボトルの水の値段は水道水の値段の約千倍だと言われている。水道水を熱して飲めばいい。(別に熱さなくても飲めるけどね)。あるかどうかもわからない些細な味の違いや加熱を惜しむ労力に、果たして千倍分の価値の差はあるのだろうか。
これもまた心理的なハードルの問題なのだろうか。ただ、流石の僕も水を買うのが馬鹿らし過ぎて面倒くさがることすら出来なかった。
なぜこんな馬鹿げた事が起きるのか。
甚だ疑問である。
(誰も知らないけど、彼らの家は蛇口から一万円札が出てくるんだ。みんなバレないように秘密にしてる。だから内緒にしてあげてね。)
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