(1)さいかいののりと

こんにちは

前回の投稿から大きく時間が空いて随分とお久しぶりな気がしますね。
いつの間にか新年になっていました。新年になったからといって僕を含めて世界が何か変わるわけではありません。2024年の始まりが大変不安定で目まぐるしいのは、世界それ自体が大きく変化しているからであると思います。新しい年が何かを運んでくるわけではありません。

しかし、まあそれが新年、ひいては暦というもので、それ自体に意味があっては区切りとしては公平な立場として成立しません。
(しかし、キリストの誕生を西暦0年としているのに、なぜクリスマスは12月25日なのでしょうか。誰か知っている方がいらっしゃったら教えてください。)
僕は新年やクリスマスといったイベントごとはあまり好まないのですか、あえて言いましょう。

新年あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いいたします
今年だけなんて言わずに末永くよろしくお願いいたします。

さて、長らく間が空いた理由を挙げるとするならば、やはり文章を書くハードルが上がってしまったことにあると思います。日常生活であんなことやこんなことが起こり、それを逐一ラジオやnoteのネタにしたいと考えているのですが、うまいこと頭の中でまとまらないままで時だけが過ぎていくのです。「すぐ行動に起こさないのが良くないのだ」と思い立ったが吉日、深いことは考えずとりあえず書き始めるまでが恒例の流れとなってしまっています。そんな時の方が意外にも良く書けてしまうというオチ付きです。

私は最近大概暇なのですが、暇だからといって、様々活動ができるかというと、実は人間そう単純にはできていません。寧ろ多忙で精神的に摩耗していた2023年の前期の方が高頻度に執筆創作活動をしていたように思います。人間の…と大きなくくりにしてよいのかはわかりませんが、少なくとも私のモチベーションは「反骨精神」にあるということです。つまりは、やりたいことが出来ない環境にあるからこそモチベーションが湧いてくるわけで、日々の抑圧からの解放や安寧を望む強い負のエネルギーを昇華するほかに創作を結実することが出来ないのです。以外にもハングリー精神は旺盛ということなのでしょうか、向く方向はこれを謳った実業家とは真逆のようですが。

そんなこんなで僕は記す欲求、綴る理由を失ったように思えるのです。結局、創作活動は話す種があろうと、水をやらねば芽生えることはないのです。困ったことにね。そもそもこの駄文を吐くことが創作と呼べるかはいささか疑問に思えるわけです。

先ほどにも述べた通り、私の文章を書く動機というのは自分の不満や現実からの抑圧に対する脱却が大半でありました。そういえば小学生の頃も学問において先生に反抗し、言い負かすときに学問に対して最大のエネルギーを発揮していたように思います。いま、暇と自由を手にした状況で果たして何に反抗していいのやら、最大の動機を失った今僕は何を原動力に文章を綴ればよいのでしょうか。(反抗と言っても不満不平をそのまま出力するのではなく、新たな世界観・形式に変換したうえで出力していたことは皆さんご理解いただけていると思います)そもそも、僕が文章を書かなければいけない理由とは何なのか、自己実現でしょうか。しっかりとその点について向き合わなければならないフェーズに来ていると考えられます。

さて、次の章、と言いたいところですが、更新頻度が低すぎるのは一回一回が長すぎるためでもあると思うので、少し連載形式を試してみようかと思います。またどこかで

P.S
僕は部ログを忘れたわけではありません。必ず更新します。皆さんもその気があればぜひ

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