はたしてそうだろうか




朝とは無色なものだろう。
ただ、それは虚無的だろうか
いつも同じだろうか



事実として空や毎日は虚無ではない。それが繰り返されようと繰り返されなかろうと何らかの現象がある。

日常に変化を期待しない人間にとって空や毎日とは、ただそこにあるだけのものであって、そこに肯定的な評価も否定的評価もない。

繰り返される現象を虚無と謳う提唱者の内心には、変化に対する期待がある。日常の基底部に上乗せされる変化が「ない」ことをもって虚無としている。

つまり、朝に虚無を感じる人間の内心がニュートラルなはずがない。そこには期待と失望がある。ここでいう期待は必ず受動的なもの、棚ぼた的な恩恵に限られる。己の労力を払わないものだ。


ここでいう期待と失望が、もし挑戦と失敗なら、それは最早繰り返される無色の日々ではなく彩られた毎日と言えるだろう。主体的な経験だ。

では、朝に退廃性を見出す種族は持たざるものなのだろうか。答えは否だ。日々の失望を持って虚無性を見出すのはやはり退廃的「脚色」であるだからだ。
脚色は持てるもの(主観世界の書き換え能力を持つもの)の力だ。ここでその能力の鋭敏さ、巧みさは問わない。

では、彩りに関する脚色能力を持ちえるとする。
それを彩りを奪う力から与える力に転回すること、日々に対する諦観から美の創造へと向き直ることこそが持てるものの特権ではないか。
そういう議論も出てくる。

これに関しては断言できない。
そうだとも言えるし、そうでないとも言える
結局これは人が変われるか変われないかという議論だからだ。
運命論か自己決定論か。そういう話だ。

だが、私が疑問に思うのは
たとえば今お前が持たざる者だとして、
それは時間的かつ空間的に不変なものなのだろうか

お前は死ぬまで持たざる者なのか
お前はどの視点からも持たざる者なのか

人は己の最大の理解者になり得るが
完全な理解者になることはできない

人間の多面性を鑑みるに、己では得られない視点があるため、己からは見えない己の側面が必ずある。これは視野の機能的問題だ。
己が己の全身の実体を見ることが叶わないことと同じだ。(もちろん鏡像は像にすぎない)

そうなった時にお前が持たざる者であると一体誰が決められようか。お前か?お前以外か?そのどちらでもなく、宇宙にそんな事をできる主体は存在しない

見る立場によって正でもあり負でもある。
二元論を飛び越え多様化する
それが人間ひいては事物の本質であり
だからこそ万物は流転する

万物に流転する権利がある。流転を許されている。勿論、お前にも変化する自由がある。
本来的に。

美の創造とは、人生の諦めへの反抗であり、諦めそのものへの反抗だ

私は美の創造を言葉の力による作用に限定した覚えはない。それは特権的な力ではない

美の創造は自分の人生に主体的に向き直る事であり、己にとっての価値を定めていく事。

別にこんな事はしなくてもいい。
人生が無色であり虚無でない人たちにはそのようなライフハックは必要ない。

私は毎日への期待から退廃的な脚色を施してしまう人達に叫びかけている。彼らの中に眠る「向き直る」潜在性に呼びかけている。退廃的な脚色とは美の創造を反転させたものだから。

私はお前がそれを出来るとも出来ないとも断定した覚えはない。

自分を持たざる者と断定する事、経験則的な自己評価による自身の未知性の排除の方が寧ろ、異なる側面の存在可能性を捨象する危険性を孕んだ「キッチン」的観察に思える




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