母の誕生日

昨年、長年ののしるまでに至っていたことも含め謝罪したのち、過去1度も見に行ったことのないジャイアンツをみにいってもえんえんアルハラまでされ、身の危険ばかり迫り近所でも身動きもとれなくされ病におかされけがが絶えなかった時、何1つ球場でたのしめず、もう阪神戦もみにいくことがないとなった最後、球場で楽しませようとてつあんどともまででてきたのがなぜなのかさっきまでわからなかった。
羽田空港駅誕生の日をつかえたかったのか、とさっききがついた。

野菜売りだの八百屋で暴れ、京急がなかったら野菜売りもなにもできなかったのに恩も忘れいばりちらされ疲れ果ててもきたならしい愛だの好きだのキスだの軽々しく口にしたりするものではないこともわからないものが、夏目漱石にとびすきラブだの好きだの文学だのきもちがわるく急遽、ミニーになり誕生日が母と同じだったことから思いながら球場にいたときのことをふりかえってみた。
京急さえつくった祖父にのこされた唯一の子供となった母の誕生日、1998年11月18日に羽田空港駅が誕生したのである。
母は無論乗ってもいないし羽田に行こうともしなかったし、私は仕事で渡米したとき、成田をつかっていから全然気ががつかなかったのだが、祖父母を知る人が作る日を合わせてくれたとしか思えなかった。

嫌がらせされ続け、精神をやみ福岡から戻ってきたとき、タクシーではなくはじめてにちかい2019年北海道にむかったときぶりに京急にのってみたとき、はじめてじいちゃんスゲーと私は度肝さえ抜かれた。
JR中の伝言掲示板には大切な人の心が壊れてしまう前にとそこらじゅうの掲示板はひかりつづけ、駅員の方全てが私をみかけると最敬礼までする。
全員に敬礼されたのだ。
1度も偉いともすごいともいわずひたすら耐え、生きていた姿をどうしてこの人たちは知るにいたったのだろうと首を傾げてはいたが、延々地元の駅の周りでの待ち伏せ、乗り換えでのつけまわしがやまず、本当に日本人が理解できなくなった。
やすませてももらえないこの書いてもらえたから価値が上がったことへの恩も忘れる様はふんぞり返っている王そのものでわたしは捨てた。

関われないことがはっきりする記録と歴史を何度言ってもやめなかったのだから。

2024.92.22
17:52