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不安な事は不安なまま朝を迎えて月曜日(だらだら書いてみたシリーズ)

会社の担当コーディネーターさんの名前を聞きかえしそびれていても経ってもいられない。

「週末物書き」と言う職業が存在する理由が何だかよく分かる気がする。平日は朝6時起床、規則正しく働いて夜11時に寝る。そこから解放された週末は、気持ちもちょっと落ち着いてスイッチも切り変わる。起きて眠り情報番組とトークショウだけを流すおせっかいなテレビをながら作業で眺めるだけの部屋も、週末ともなれば、ちょっといいコーヒーなんか入れちゃって、立派な書斎に変化するものなんでしょうか。如何せん定期的にものを書く習慣があると言うだけで私としては「あーすげえー」と思っちゃうね。誰の為に書いているかなんて自分の記録の為なのだから、書く事をしないで不利益を受けるのも私だし、書く事によって失われるものもただいくらだって存在するようにも思える。

書く事によって失われるもの って何だろう。ひとつ、鮮度は消えるかも。ある記憶における、鮮度。一度生まれた感情を言葉をつかってあらわすことは調理することだとしたら、鮮度は徐々に失われていく。もちろん鮮度のいいまま消えぬまま調理をして保存をするという点からしたらそれはそれでいいんだけど、鮮度を失った瞬間にどうでもよくなっちゃったりする気持ちもあって、そうするとちょっぴし残念だなあと思うこともある。本当に大事な事は、大事だと思っているまさにその真っ只中に書きたくないと言うのはそういうこと。

ふたつ、うーん。精神力。失われるね。

あとは、友達減るかも。その、しゃらくさい物書きコミュニティ以外の場所で。

久々にCMにブログを書いたら、意外に10名位から♡が付いたけど、大体既にツイッターとかで普段やり取り見てる方からだった。勿論それも嬉しいし、私はここで友達を作ったんだなあという気持ちにはなるけど、それは特殊なパターンであり、大概の場合は友達が減っちゃうような気もする。やっぱり「あいつはなんかちょっと理解できない」「ぼくわたしはちょっと向こうと考え方が違う」とかそういうよくわかんないプライド見たいのが激突しがちな気がする。なんでだろうね。

小説家だろうがエッセイストだろうが、ライターだろうがなんでもいいけど、物書きを名乗る女性は、いずれにせよ綺麗か可愛いかわからないけれど、ある程度ルックスと言う物が大事なのではないかと最近思う。私の偏見だけど、物を書くひとは暗い人と言う印象を、私はまだ自分自身でぬぐいきれない。暗いと言う事は人前に出ない、ルックスに自信が無いと言う事にも繋がるので、物書き=不細工 と言うむかーしに根付かせた方程式が私の中にいまだに根付いている。もちろんね、今全然そんなことないし、そんな方程式を覆すかのように、いまどんどん綺麗な人可愛い人が出てきてると思うの。なんか全然名前出てこないけど。w そしたら今度は逆に、「文章を書けるだけじゃダメで、ある程度のルックスもないと胸張れないよな」と言う気もして来たの。まあなんつうか、有名な作家さんじゃなくてもこう言うSNSとかで物書いてる女性も、写真綺麗だったりするし(加工の力とかそういうのの他に)

誰でも書いて発信できるからこそ、書くこと出すことって特別じゃなくなった分、そこに付加価値って必要になるじゃん。(これがクランチのセルフプロデュースの話とかのモトなのかもしれないけど)書ける人の中だったら、書けて当然、可愛かったらなおのこと、と言うのは結局どこだってそうじゃん。

と思うと、やっぱりそんなに可愛くもない私が文章を書く事自体、余計に後ろめたくなってしまうのだね。書いててばかばかしくなるもん。じゃあ可愛いってなんだろ、と思うとまたきりが無い。結局女同士って最高でもあるけど最低な世界だなあとも思う。でもどうだっていい。そんなどうだっていい争いからは目をそむけて生きていたい。自分の性の話はどうでもよくないけど、他人の性の話は本当にどうでもいい。ただ自分の昼ご飯の話もどうでもよくないけど、他人の昼ご飯の話もどうでもよくない。自分ちのいぬの話はどうでもよくないし、他人の家のいぬの話もどうでもよくない。そこは個人の取捨選択によるものだもの。いらない争いからは目をそむけていたいけど、可愛いを巡る論争に関しては、どうもなあ。可愛くって文章書ける人には誰だって嫉妬するよ。

そもそも此処で可愛いという言葉さえも宙ぶらりんになっている。

ひとそれぞれと自己責任と言う言葉に全部集約されちゃって。


でもそんな私でもちょっと最近分かってきたのが、全ての男女は全て社会的に見て100パーセントの異性を求めている訳ではなく、自分のとっての100パーセントに近い異性をなんとなーく探している訳なんだね。それもこれもどっちにせよ運命と言う物を引き当てる潜在的な力は必要となってくるんだろうけど。

村上春樹の「カンガルー日和」と言う短編集のなかに「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」と言うお話があるのだけれども(改変されたものは知らんかったな!w)このお話が私は本当に好きで、全て人生の出会いがこう言う物であればいいなあと思う。お互いにとって100パーセントであれば、別にそれで良いだけの話なのにね。あ、でも、またもう一度、巡り合えても声をかけられないから悲しい話だと思いませんか?か。それでも読み終わった後に残る、すがすがしさとか爽快な感じは何なんだろう。長編はそんなに好きなわけでもないけれど、短編はこう、いつもウォークマンの中に入れておきたい感じがする。あとは「風の歌を聴け」が好きですね。それでもなんだかなあ。

結局私は、どっちにも振り切れないのでしょう。メンヘラからも成り下がり、かといってもうちょっとリア充側にも振り切れない。カテゴライズしたところで何もないのに、自分で自分を型にはめようといるだけ。私に友達っていたのかなって思う位、こう言う事考えると止まらなくなる。明るく見せかけているのと平行に、こう言う事を書いて、こう言う事をしているのと平行に、明るく見せかけて。

あ、先日最果タヒさんの詩集を読みましたけど、私がタヒさんのように、言葉を踊らせることが出来ないのは、絶対的にまず、自分自身に自分自身を楽しみつくす余裕が無いからなんだなあと思いました。ああいう言葉がちゃんと踊っていると言うのはすごい力が働いている気がするし、言葉の力とか言葉の無意味さを、知っているからこそ、の詩なんだなとか、思いましたね。自分の直感と、自分の中からわいてきた1単語1音、まず信じてやれないとなあと、思いました。


以上。なんか最後だけ文体違うけど。

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