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文章のフィートバックに対して、うれしいと感じた瞬間の話について。(だらだら書いてみたシリーズ)

 昨日5月4日、文学フリマに出展してきた。と言っても特に持って行くものもなかったので、noteで書いた記事を印刷して、5円の投げ銭方式にして持って行っていいよというスタイルを取った。基本的に来るのは、某Crunch Magazineという文章投稿SNSで知り合った人たちだったりするし、しっかりとカルチャー誌を作ったり合いと合体配置をしていたため、そこにきた方をついでに止めると言う事が多かった。それでも「無料」と言うだけで、手に取ってくれた方はいらっしゃった。もう少し此処のアドレスとか、ツイッターとか、分かるように書いておけばよかったなぁと思った。

 意外に嬉しかったのが、こっちは一方的にツイッターをフォローしていたけれども、相手には気付かれていないよなぁと思う方に、「みるくさん、ツイッターこっそり見ていましたよ。」とか言われる事ね。あれは嬉しくて、それも超グラマラスなチャンネーだったから余計嬉しかったね。年下だったけどね。そういう出会いがあったりするので、いくら何処かの誰かに自己満足だとか、自己承認欲求の為だとか、サークル同士の馴れ合いじゃねえの?と言われようが、思われようが、「また次もちょっと、くるだけこようかな」と思ったりはする。次の秋、本当に出るなら今から動かないと、冊子完成しないですね。と思う。今回は寄稿を2サークルにしたんで、ちょっとそこで私の文フリは終わってしまった感じがあるな。笑

 それで、私の「作りたいもの」で言えば、お気に入りのカフェとか休日の風景の写真載せた、OZマガジンの雰囲気のあるZINEかもしれんが、到底私にはそんな事をする気力が無いだろう。誰かにインタビューする取材型のZINEもいいかなと思ったが、到底私は私以外の人間に興味など無いので、それもやる気が無いだろう。そう考えると「作れるもの」を「とりあえず作って見る」しかない。

 では「私に」「作れるもの」とは何か。作って更に、「読み手のニーズを満たせるもの」とは何か。無論、OZマガジンの雰囲気のあるZINEでもカルチャー誌インタビューでもない。答えは消去して行って「たかなしみるくがたかなしみるくの事だけを書いたエッセイ」ぐらいなもんだろう。小説もたまに書くけれども、エッセイ有り気の小説と言うところがでかいので、結局エッセイか。

 そんな事はなんとなくでも気付いていたけれども、やりたくなかった。何故なら自分のエッセイ、しかももがく私の絡まった思考回路を1冊本にして、何の情報を提供できるのか?そもそも誰が読んで、誰が何を思うのか。興味を引き付けるだけのキーワードに欠ける。共通の話題が無いなど、自分の絡まった思考回路を他人に公開する価値を自分の中で見つけられないままでいた。重なる思考回路について、自分の中で価値づける事は良くも悪くも出来るようになってきた、ただ、何故それを他人に公開する?とかいいつつ、クランチマガジンやってたころは、そこに上げた20000字ほどのエッセイが今でもランキング入っている程のpv数を稼いでいるのだが。限られた狭いコミュニティであれ、pv取れると言う事は、リピーターも含め何か惹かれるものがあって、読む訳なのだから、他人にとって私の思考回路の価値が全くないと言う事ではない筈だということはわかる。それでもその意味とは。意味とは。

 と、1年と半年ほど、そんな事を思っていたが、丁度ここ最近、「noteに文章上げて良かった」と思えるようになったりもした。それは自分の重なる思考回路をアウトプットしたら、面白いと言ってくれる人がいたからだ。というよりも、「面白い」と言われて「ほっとして、よかったぁと思えるようになった私がいた」から、だな。

 先ほど書いた記事がpv数を出したことを含めて、今までも「面白いエッセイ書くよね」とぽろぽろ言われ続けてきたのだが、自分の中では「一体これの何が面白いのかわからないし、こんな面白さいらねえから、まともに働けてまともに彼氏出来る思考回路くれよバーカ」と言う気持ちを前面に出し、「どのポイントを彼らは面白いと言っているのか」を頭で理解しても、その言葉を受け入れる余裕も、受け入れる意味も自分の中に無かった。此処で彼ら読んだ人たち言う面白いは、生きづらさを描いた面白さ(あるいはぐっとくる、とか、刺さるとか)の事なので、面白いって言われたって生活がこんなぎりぎりじゃあさぁ。何の救いにもならないくせに、こんなもので明日から飯が食えるわけでもないのに、「面白い」とか「才能ある」とか言われてもどうしようもないだろうと納得いかなかった。勿論嬉しいよ。嬉しい。でも、だからと言って、私の気持ちは届けたい人には届けられない。届かない。貴方達によかったと言われても、私の中じゃ何にもよくなってない。お金にもならないしね。

 と言う私が何をきっかけに他者からの褒め言葉にほっとできるようになったのかと言うと、「私の環境の変化」だと思う。

>「一体これの何が面白いのかわからないし、こんな面白さいらねえから、まともに働けてまともに彼氏出来る思考回路くれよバーカ」

 と先ほど記したとおり、(思考回路は別にしても)お陰さまで週5日暦通りの時間帯で暦通りにもう7ヶ月は働けているし、これまた幸か不幸か彼氏もできた。でもね、コレだけ自分の欲しがっていたものを手に入れたはずなのに、私はまだ物事を考えては考え過ぎて、泣いて文字に起こす事をやめない。私は現状の私を、客観的に見て肯定している分、主観的に見て懐疑的になるか嘲笑している。自分が今まで馬鹿にして来た事との差異を受け入れられずに頭を抱えている。もうこの事実さえも「そんなんじゃなかった」と思うのである。愛されてるなら素直に愛されておけばいいのに、何故自らの幸せを具現化した形を自らで嘲笑するまでになってしまったのか。ここまで来るともう、他人の口頭レベルで相談しても、手のつけようがない本音である。なおかつこの本音とか悩みとかあがきって「本当に贅沢な悩み」である。そんな事で悩む余裕があるだけまだ心にゆとりがある証拠だと思う。贅沢な悩みであるからこそ、他人に漏らせば「それの何処が不満なの?」の一言で返されて、私が惨めな思いをして終わる。不満とか、満足とか、そういう事を言いたいんじゃない。客観的視点と主観的視点の差異に悩まされているだけだし、もっと言えば、私はキミたち以上に主観と客観の差異レベルが激しい。きっと。考え過ぎのハードルも違う。どちらがいいとか悪いとかは別にしても、今この私は「不満・満足」の次元を超えた話をしている。此処のところは特にそうだ。ある意味もう、誰かを味方につける事は出来ない。

メンヘラ拗らせて精神科通って薬漬けになっていた自分 / ろくな彼氏も出来ず、ただ堕ちて行くだけだった自分 / 体調引っくり返しまくって、声も出せなくなった自分 / 生きて行くだけの最低限の給料が稼げなかった自分

 ざっと言って、共感されるワード並べれば、コレだけの自分がいたわけで、コレだけの話題を暗い文章にすれば、そこそこの人間を味方に出来たかもしれない。味方に、と言うか、「ああ、それわかる」と読んだ側が思うポイントはわかりやすいから、首を縦に振ってくれる人の数もいるだろう。明らかに「大変そうな人」と言うラベルを張るのには分かりやすいポイントだと思う。だからまだ、まだ、浅ましくもこれだけ共感されるポイントがある悩みなら、なんだかまだ書いていても許されてる気がした。(ちょっとこのへんうまく言えない)だけれども、今の自分の悩み方など先述したとおり贅沢で、わかりやすく「不幸に共感するポイント」を欠いている。だから、今まで味方であった人たちからさえ今度は「だって、みるくさんはそれから幸せを手に入れたのに、何で悩むの?」と袋だたきに合いそうな、また妙な違和感を感じている。今まで考え過ぎだよと私を嗤ってきた「あっちの世界の人」とも話が出来ず、今度は私がいままでいた(ともすれば私だって何時そこにまた戻ってもおかしくない)「こっちの世界の人」からも袋だたきに合う。別にそれでもいいのだけれど。そういう違和感は抱えているけれども、知ったこっちゃない。だから書くのだけれども。

 それでこそ、「誰に言っても仕方ない事を書いたもの」に対して「面白かった」と言って頂ける事がありがたかった。面白いと言われたところで、お金にならない、生活が変わらないと言う返しは、とりあえずのところ今はしなくていい。だって、そこそこに生活できるお金は稼げるようになったし、環境は変わったから。だから、「面白かった」と言う言葉を受け取れるゆとりがちょっとある。今だけかもしれないけれども、今はある。だって悩んでいるもん、いくら贅沢な悩みだろうと、悩む必要が無いと嘲笑されようと、私は悩んでいるもん。「面白かった」と受け入れられることから、ギアの切り返しが始まる。そしてそこでコミュニケーションが生まれることだって、ある。

ひとりで戦うべき悩みだ、私個人の悩みだ、私だけが墓場まで持って行ける、贅沢な悩みだ、可愛らしい悩みだ、そうだ、それは私が育てて行く悩みだ。だけれども、抱え込み過ぎても重たくなっちゃう。助けてほしいって思う事だって、私には沢山あるよ。一昨日だって助けて欲しかった、でも、当然言えない。

 そんな時に、最近の私のnoteの記事、文フリで他のサークルに寄稿した記事を読んで「よかった」と言ってくれる人たちと会えた。私の文章を、毛嫌いされるような考え過ぎた言葉を「面白かった」と言ってくれる人たちと会えた。「よかったって言ってもらえるなら、よかった」と思った。私の考え過ぎは贅沢で無駄な事だけれども、決して無駄なだけじゃない。「誰かの為ではなく、自分の為だけに」編んだ言葉を拾ってもらえる事がこんなにも嬉しい事だったと、私は今まで感じてきたことがなかったかもしれない。あっちの世界からも、こっちの世界からも、私はつまはじきになんてされていないし、されていたとしても気になどしなくていい。所謂拗れも無理に矯正しなくていい。拗れ具合、いや、葛藤を自己開示できる場所を選んで自己開示すればいい。場所を選べば、きっと私は何かにまた気がつける。何故葛藤をするのか、それは今よりより良い自分になりたいから。だから、きっと、大丈夫。

※最後に2か所の寄稿先を記しておきます。

1.文芸コンピレーション input selector2 (編者:添嶋譲)

お買い求め先:https://kuusousyounen.stores.jp/#!/

本誌togetterまとめ : http://togetter.com/li/797097

2.アヴァンギャルドでいこう vol.3 (発行:Shiny Books)

本誌togetterまとめ : http://togetter.com/li/814004

どちらも経路は全く違う本だけれども、求められたものは「難しい事とかいいから、いつものみるく氏の文章の感じが欲しいんだよ」だった。

あとまだこれから、立ちあがったばかりのWeb誌に連載が載りますので、それはまたそのうち。

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