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最近考えている世界観(2024年5月時点)

このところ考えていた、自分なりの世界観を文字にしておきたい。

考えというのはどうせそのうち変わるものだけれども、現時点での世界観を記録しておくことには意味があると考えている。自分用のメモなので、人に理解してもらうことよりも、自分のために書いている。

この長い文章の要約はこういうことだ:
・人は遺伝と環境と偶然によってつくられるアルゴリズムでしかない
・人や世界を変えるには、環境とアルゴリズムのどちらかに働きかける


前提条件:生物について

生物とはインプットに対して何らかのアウトプットを返すアルゴリズムのうち、外部と自らを隔てる実体を有し、遺伝的多様性を伴う再生産をするもの。その主な動力は炭素を中心にした化学反応。

ここでいうインプットとは、外部環境がその個体に対して与える影響のことで、自覚されるもの・されないものを両方含む。アウトプットは、行動をともなう反応のみでなく、アルゴリズムの変化といった直接に観察されないものも含む。

人間に関していうと、ここで定義している生物の特質のうち、その物理的実体(姿形とか内臓の構成とか)、再生産のされかた(受精して子どもが生まれる)、動力(何かを食べて消化してエネルギーに変換する)などは基本的に変わってきていない。もちろん、ここから先の100年でこれらが大いに変化する可能性はかなりある。

一方で、人間のアルゴリズムについては相対的に変化が大きいと思われる。このメモの中心はこのアルゴリズム的な側面についてである。

人間のアルゴリズムを理解する

人間を含めた全ての生物は、遺伝および外的な環境との相互作用の繰り返しの中で、特定のアルゴリズム(反応のパターン)を身につける。

そもそも環境(世界)について
当該生物以外の全生物と全無生物が織りなす相互作用の総体が世界であり、僕たちが生きる環境となっている。

ここでいう相互作用は極めて複雑であり、その結果を完全に予測することは現時点では不可能だ。例えば人間の腸内でさえ、1000種類の菌が100兆いるといわれていて、その相互作用によって腸内環境がつくられ、それが脳にも影響をもたらしているが、僕たちは人間個体すら完全に認識するには至っていない。

アルゴリズムがどのようにつくられていくか
人間でいうアルゴリズムというのは要は性格・特質といった言葉で表現される、状況に対する反応パターン。このアルゴリズムはコンピューターでいうところのOSのようなもので、知識(アプリ)と異なり、注意して観察しないと本人すら意識できないものになる。自分のことを理解できている人間は驚くほど少ないのはそれが理由だと思う。

人間が目的達成のために環境に対応し続けることで、その人間のアルゴリズムは変化および強化・弱化していく。

人間のアルゴリズムは生後3年ほどで基本的なパターンができあがり、20歳になる頃までには変化が少なくなる。もちろん人生を通じて変化は起きるが、成人以降に根本的な変化は生じにくいようだ。

以上のことから、人間の場合、アルゴリズムは親(もしくは親代わり)および親が用意する養育環境に多大な影響を受ける。だからこそ、人間を理解するためには、その人の成人後の人生を知るより、幼少期の経験や養育環境を知るほうが役立つことが多い。

アルゴリズムの形成方向性
このアルゴリズムは、その個体種が自らの目的を達成できる確率を最大化するように調整されていく。目的は自らの遺伝子の後世への伝達が主だったものになる。例えば子どもの場合、親に好かれることが生存確率を高めるので、親の気を引くような行動はその目的に適うものになっている。なお、目的を自らの遺伝子の伝達のみとすると説明できないものも多く(例えば結婚しない聖職者など)、人間に関していえば、単一の目的があるというよりも、複数の目的を重みづけているように思う。

アルゴリズムの形
アルゴリズムの形については、すごく単純化すると、次のような関数形になっているのだろう:

Y=F(X)+E
ここで、
 Y:反応(アウトプット)のベクトル
 X:環境(インプット)のベクトル
 F:反応パターン(定数項と変数項が両方ある)
 E:ランダム項のベクトル

すなわち、何らかのインプットがあれば、
(1)そのインプットの内容に関係なく生じる反応(定数項の反応)
(2)インプットの内容に基づいて変化する反応(変数項の反応)
(3)インプットの内容にかかわらずランダムに生じる反応

に分けられる。それがどのような確率分布に従うか自分には分からないけれども、ランダム項(もしくはランダム項に見えるだけのものかもしれない)が存在することは、自分には間違いのないことのように思っている。

ランダム部分が与える影響が少なく、反応が一定している人間は安定した人、もしくは「理性的な人」であるとみなされる。一方で、ランダム項がゼロになることはありえないので、人間がある状況でどのような行動をとるのかを完全に予測することは不可能だ。違う言い方をすると、「弘法にも筆の誤り」という言葉の通り、人間はその性質上、その人が通常やらないようなこと(それが間違いであるかそうでないかはさておき)を特定の確率で行うようになっている。

これは原理的に実験が難しいが、ある人にあるタイミングで同じ質問をして、それを時を巻き戻して1万回繰り返したとしたら、どんな人でも何度かは異なる反応をすることがあるように思われる。たとえば、「1+1は?」という質問に対し「2」と答えるときや、「それってどういう意味ですか?」と問い直すときなどがあるのだろう。

人を理解するということは、その人のアルゴリズムを理解することだとも言えるが、このようなことを考えると、ある人を完全に理解するのは極めて難しいと言わざるを得ない。人はそれぞれがとても複雑である。


自由意志は存在しない
基本的に、僕は「自由意志は存在しない」という立場をとっている。何を自由意志とするのかは人それぞれだが、人間の情報処理パターンがそもそもコントロールできない様々な物事によってつくられていることを考えると、それを人為的に制御するというのは極めて難しいと考えざるをえない。

にもかかわらず、人間には自己を認識する能力が存在しているため、あたかも自由意志が存在すると考えがちである。自己を認識する能力は自由意志とは異なるものである。

知覚
アルゴリズムの反応は、インプットを受容し、それを脳その他が処理し、反応する、という形式を取る。最近だと、腸が脳にインプットをもたらしているようなことも分かっているように、ここでいうインプットは単なる外部から得られる情報だけではない。

インプットのすべてを脳が処理しているわけでなく、その人が有している受容体に応じて何が処理の対象になるのかが決まる。例えば色盲の人は赤というインプットを受けても、それを情報として処理することがない。

この受容体の作用のことを知覚という。知覚されないものは、少なくとも意識的には処理されない(先の計算式でいうと、変数項の係数がゼロ)。人間は同じ場所で同じ経験をしていても、知覚の仕方がそれぞれ異なっているので、人間個人に対するインプットは常に人それぞれ異なっている。言い方を変えれば、同じ場所にいても、万人がそれぞれ違うものを見聞き考えている。

人それぞれ知覚のパターンは完全に一致しないので、人間がお互いを完全に理解することは不可能だ。だけど、それぞれの知覚のパターンが異なっていると認識するだけでも、コミュニケーションは容易になるように思う。


アルゴリズムの平衡性
大抵のケースにおいて、生物のアルゴリズムは、総体としてある程度の平衡が保たれるようにできている。何らかのインプットが変わっても、それによる連鎖反応がドミノ倒しのように起きて、逸脱した反応をすることは稀であり、現状を維持するための機構が存在している。

インプットのバッチ処理としての物語理解
毎時点において環境が人間にもたらすインプットは極めて多く、個人差はあるが、人間の脳はそれを個別の多くのインプットと認識することができない。

それゆえに、人間は往々にして、様々な多くのインプットをひとまとまりの物語として処理する、という方法を採用しているようにみえる。そのため、人間は物語に説得されやすいという特性を持っている。また、人間が何かを記憶しようとするときに、物語(語呂合わせでも)にすると楽なのもそのためだろう。

人が誰しも物語を用いてインプットを処理する傾向にあるとはいえ、どの程度の複雑な物語を理解できるかは、その人の知覚能力と処理能力に依存する。これらの能力が低い人は、よりシンプルな物語でないと理解ができないので、たとえば陰謀論やデマに説得されやすい。


アルゴリズム形成の完全な予測は不可能
この相互の複雑な連関の中で世界は変わり続けており、そのすべてを人間が知覚することはもとより、コントロールすることも不可能である。

ある環境に生まれ落ちた人間が将来的にどのような人間になるかというのは、ある程度は推定できるが、最終的には分からない。たとえば時間を巻き戻して同じ人が同じ人生を歩いたとしても、その人の人生が同じものになる保証は全くなく、人生経験が変わればアルゴリズムも変わり、行動も変わる。

特別な人間は存在しない
全ての人が、過去に与えられた環境、遺伝によって受け継いだ特性、様々な偶然によって自らのアルゴリズムを変化させながら、その時点その時点に与えられた環境下で、自らの目的達成のために行動をとっている。その行動がまた玉突きのようにして外部環境を少しずつ変え、自分に対するフィードバックを変え、それを通じてアルゴリズムは少しずつ変わっていく。

だからこそ確信しているが、特別な人間は存在しない。様々な要因によって、たまたまそのような人間がつくられただけのことである。自分が偶然の産物であることを認識せず、自分が優れていると考えるのは誤解でであるといわざるをえない。

一方で、人間は往々にして、環境から想定される悪い予後を脱した人間に心動かされるようである。例えば、恵まれた家庭に育ったのにもかかわらず、困難な地域で支援活動をする人、困難な家庭で育ったのに成功し立派な振る舞いをする人など。すなわち、遺伝と環境要因だけでは説明をしきれない出来事に人は心動かされる。

このような感動が生み出される理由としては、環境だけで簡単に説明できない人間の成育はとても複雑なものになりがちであり、そういった複雑なものほど人間は物語として消化する傾向があるからかもしれない。


絶対的な善人・悪人も存在しない
ここまでの論理的帰結として、絶対的な悪人も善人も存在しない。皆、与えられた遺伝と環境と偶然の中で培ったアルゴリズムをもって、環境に対応しているだけである。何かが違えば、その人たちも違う行動をとっている可能性が高い。

なので、紛争地域においていわゆる悪行をしている人々の行為を攻撃しても意味がない。それよりも、その人(人々)のアルゴリズムがどのようにして構築されたのかを理解しようと努め(最終的にできるのは推定でしかないが)、必要に応じてその人のアルゴリズムが変化する手立て、もしくはインプットを変える方法を考えるべきである。「あいつはひどいやつだ」、「あいつを懲らしめたい」と思ったところで意味がないが、世界はどうしてもそのようにして反応してしまいがちだ。

(なお、上記の通りだからといって、法を犯した人を罰すべきではない、という意見を自分が採用しているわけではない)


思想や文化も環境の産物である
思想はMemeの最たるものの一つであるが、その思想もその人の遺伝や生まれ育った環境や偶然に経験したことに依存している。よって、ある人の思想を理解するためには、その人の背景を理解するのが一番である。ただし、ランダム項も存在しているので、ある人の生育環境を全て理解したとしても、その人の思想を完全に理解することはできない。

先に述べたように、環境にはある程度固有のものがある。例えば、温かい・寒い地域、山がち・平地がちといったようなものだ。なので、土地によって、その土地に住まう人々のアルゴリズムには一定の共通性が生じる可能性が高い。このことは、地域性、住民性、民族性、国民性、人間性と表現される。


世界の変えかた

ある人が置かれている環境を変えればインプットも変わり、フィードバックも変わるので、ある人のアルゴリズムも変容していく。良い方向でも悪い方向でも。

悪い方向の変化
そもそも悪いというのは一つの価値判断であり、価値判断も結局は個々人の経験の産物でしかない。よって、ここで「悪い」と言っているのは、あくまでも個人的な価値判断である。

たとえば虐待の連鎖。親から虐待を受けた子どもは長じて同じことを繰り返しがちになるが、それは親の虐待によって子どもに虐待をしがちなアルゴリズムがつくられるためである。

また、先進国で憎悪が拡大している一員には、大勢の人々が自分たちが周辺に追いやられているという思いが根底にあるように思う。具体的には、技術進歩にともなう格差拡大や、新興国の成長に伴う先進国の地位の相対的低下。それに加えて、ソーシャルメディアの利益最大化のために、対立や憎悪が煽られる構造も影響を与えているのだろう。


よい方向の変化
歴史的に殺人の数は常に下がり続けている。その理由としては、乳幼児に対する養育の基本方針が歴史的に変わってきたことがあると僕は考えている。具体的には、養育環境が体罰(歴史を遡るほど厳しい)を用いる暴力的なそれから非暴力的なそれに変わるにつれて、暴力をよしとするアルゴリズムが減少していったことが、殺人が歴史的に減っている理由なのではないか。

Factfulnessに掲げられているような社会のよい変化はすべて、こういった環境の変化に基づくものであると説明することができると思う。


自分の変えかた
ここまでの議論を踏まえると、自分を変えるというのは、(1)自分に対して生じるインプットを変えるか、(2)自分自身のアルゴリズムを変えるか、のどちらかになる。

自分を変えるためにまず楽なのはインプットの変革である。食べるものを変える、過ごす場所を変える、着る服を変える、時間配分を変える、一緒にいる人を変える、仕事を変える、肉体に対する負荷を変える(眠る時間や運動など)などがある。こちらは意識すれば設計することができる。

アルゴリズムは時間をかけて形成されるものであるため、変革は徐々にしか実現しないし、年齢を重ねるごとに変化が少なくなる。ただ、アルゴリズムもフィードバックループに基づいてできあがることを踏まえると、自分のフィードバックループを変える(すなわち、環境や付き合う人を変えるなど)ことで少しずつ変化が生じる。

他にもインパクトが大きいと思われるのは瞑想・Mindfulnessだろう。これは自分のアルゴリズムを観察する行為でもあって、いわゆる認知行動療法はそういう趣旨で行われているものだと思う。他にも、知覚を鍛えるような訓練をすること(例えば絵画鑑賞が知覚の訓練として時々用いられる)も、アルゴリズムを変えていくだろう。


世界の変えかた
世界を変えるのも、基本的に次の二つのどちらかになる。
(1)人々が直面するインプット(環境)を変えること
(2)人間のアルゴリズムをNudgeするためのデザインをすること
 (具体的には、フィードバックループを設計すること)

環境を変えるというときには、自然、物理的な人工物(インフラなど)、ソフトな人工物(制度や仕組みなど)というカテゴリーで見るのがよい。世界を変えるというのは、このどれかを変えることである。例えば金融包摂は、ソフトな人工物のなかの、金融制度に影響を与えるものだ。

インプットを変えるより、アルゴリズムそのものが変わるとより大きな変化がもたらされやすい。だからこそ、子どもたちが触れるものを変えることは、長期的には極めて大きな変化を社会にもたらす。具体的には家庭内での養育環境、学校等の教育環境は長期的にとても大きなインパクトがある。

なお、当たり前であるが、自分について変えるより、他人を変えること、世界を変えるほうがはるかに難しい。

(そもそも、他人を変えることが良いことなのか、という個人的な葛藤もある。相手をナッジするくらいであれば、自分としては問題ないのだけれども。)


組織を動かす
一人で全部は変えられないし、生物には過去の平均に向かう慣性法則が働いているので、変化を生じさせるには一定の閾値を超える力をかける必要がある。個人では不可能なので、人間が集団的に取り組む必要がある。

これまでの議論を踏まえると、人間が集団的にパフォーマンスを発揮するためには、その集団の人々がともに働きやすいような環境をつくる必要がある(すなわち、人々に対するインプットの操作)。たとえば、集団内で何らかの未来の物語を共有する必要がある。それらは、最近の用語であれば、パーパス、ビジョン、ミッションという言葉でよばれている。また、先にも述べたように、物語の整合性は高ければ高いほど望ましい。

また、人間の生存に関わるものとして、お金、人間関係、相手への尊重、キャリアへの貢献といったものは重要な要素であるので、これらをきちんと設計することも、集団のパフォーマンス向上には極めて重要である。

上記は集団のメンバーに対するインプットである。もう一つは、そのメンバーのアルゴリズムを変えることが考えられるが、先にも述べたように他人を変えるのは極めて難しいため(もちろん組織によっては、人のアルゴリズムすら変える強烈なものもあるが、個人的には好まない)、重要なことは、重要と思う領域のアルゴリズムが同じような人を採用することだろう。たとえば、問題に対する対処や、価値判断など。

こうして、一定領域におけるアルゴリズムが近しい人を集め、その組織内で同じようなインプットを与えていくと、どこかのタイミングで組織固有の傾向が形成される。これを組織文化という。人(=アルゴリズム)を選択的に集めている分、土地に根付いた文化よりも組織文化のほうが早くつくられやすい。

組織が目標実現に向けて動く以上、組織文化は不可避的に形成され、それによって多少の排他性が生まれるようになる。

組織文化は一度固まるとそう簡単に変化しない。というのも、その文化に基づいて採用・行動を行うため、特定の傾向が強化され続ける傾向があるためだ。

そのため、組織文化を変えるのであれば、多少の混乱覚悟で異分子を経営層に入れるか、組織制度のうち特に人々の行動に影響を与えるもの(採用基準や評価基準)を変える必要がある。文化を唱えてもなにも変わらない。


 

とりあえずは以上。

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