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ウィッシュは100周年に値しない作品だったが…

一太郎の再インストールが遅いのでこちらに書いておく。

おことわり

本作を批判するにあたって、「美しい願いばかりで、邪悪な願いが存在しないことがおかしい」ことを挙げる人がいるらしい。ナンセンスだ。「願い」の定義は物語のトーンに過ぎず、邪悪な願いが存在しないことは何もおかしくない。自身を真に幸福にする願いだけが願いであり、単なる欲求と区別してかもしれないし、邪悪な願いは王が受け入れていないのかもしれない。このように、人物像や設定から推察できる部分の説明を省くことはあらゆる作品に行われることであり、そこを突っつくのは単なる言いがかりに過ぎない。問題はそこではない。

導入

壊れやすく脆い願いを守るため、マグニフィコ王は島にロサス王国を建国し、あらゆる人を受け入れていた。そこでは成人すると願いを王に差し出して保管してもらい、定期的に選ばれた人が儀式で叶えてもらう制度がある。主人公のアーシャは、王の従者に志願する。100歳になる祖父がまだ願いを叶えてもらっていないからだ。しかし、王は「国のためになる」願いのみを叶えており、個人的な願いは叶えないと言い切った。願いを独占する王に主人公は立ち向かう。

評価点

ミュージカルパートが素晴らしい

ミュージカルパートは3Dの長編が本格的に始まったラプンツェル以降で最も良かった。背景が抽象的なシーンでもずっと引き込まれる。コンテ、カメラワーク、演技、全て素晴らしい。
また、近年問題の多様性の押しつけ問題についてもチェックしたが、架空のユートピアを建設することで、最低限、説得力の点はクリアした。そして、特に冒頭の国を紹介するミュージカルは様々な国籍の音楽要素がさりげなく調和しており非常にユニークで、多様性を真に活かしていた。

ヴィジュアルの作り込みが素晴らしい

シェーダー一発(トゥーンシェーディング的な)というような分かりやすいものではないのだが、2Dのような空気感を作り出す細かい工夫の集合体。美しい。ライティングとレンズ設定が、キャラクターと背景を2Dアニメのように馴染ませている。これは是非動画で見てほしいんだが、大きなスクリーンやモニターでないと、昨今の2Dっぽい3Dやゲームのカットシーンとの細かい違いは分からないかもしれない。ものすごく新しい表現という訳では無いので、一言で褒めづらい点。

問題点

社会問題を提起しながら予定調和を超えず、勢いで押し切ったストーリー

開始直後の説明だけで、作品のテーマは自ずと見えてくる。
「願いは脆く壊れやすい」
「だから成人するときに願いを支配者に差し出す」
「支配者に願いを定期的に叶えてもらう」

これらから導き出されるテーマは「願いは儚いものだが、自分で守り、自分で叶えなければならない」といったところが予定調和だろう。それは良い。ディズニーらしく力強く王道をやればよい。しかし、本作は現代社会への問題提起を避けて通れない。「成人すると願いを差し出す」は一般的、普遍的なテーマと言えなくもないが「支配者に願いを保管してもらう」というのは、どうしても現代社会の構造が頭をよぎる。

ストーリーのテーマとして社会問題を提起した。これが何を引き起こすかというと「おとぎ話では済まされない」「単なるエンターテインメントではない」ということなのだ。ハードルは上がっている。提示した問題に対して、作品は人々にどう立ち向かえと呼びかけているのかという、答えやアイディア、願いのようなものが必要なのだ。本作にはそれはなかった。セリフでも良い。行動でも良い。何か示して欲しかった。願いが奪われ、絶望に陥った人々の危機のシーン。彼らを救ったのは何だったのか? 何もない。ただみんなで歌ったらなんとかなってしまっただけだ。本作の中心にあったはずの「願い」に対する精神的な成長、乗り越えは何も見られない。学芸会の段取り芝居のようで幼稚だ。
こうしてテーマをスポイルしたことで、城や服装で作り出した西洋ファンタジーの雰囲気が、単なるガワであることがバレてしまう。ワンマンで建国した国とは言え、体制側の人間が王と王姫、拘束に来た騎士二人程度しか見えず、異常にチープに見えることにも気づいてしまう。

意味がありそうでない設定や伏線

まず、火の?魔導書。火の要素はあっただろうか? 本の色だけ? 「王の部屋に厳重な保管された兵器」。核を思わせる小道具なのに、設定はふわっふわだ。「決して使ってはいけない強大な力」に期待していたが、いざ使っても、ただ魔法の色付けが変わっただけにしか見えない。50kg持ち上げられる人が100kg持ち上げられるようになっただけで、質や規模が変わったようには見えなかった。アラジンのジーニージャファーのほうがよっぽど強そう。
主人公の父親の設定も「いつも星を見ていた」という場所へ導くだけの取ってつけたような感じが拭えない。父親が主人公に与えたものがなんだったのかというものが少しは欲しい。祖父の願いが王に危険視されたことが、単なる杞憂だったこともモヤッとする。

セリフにまで侵食する過剰なパロディ

「ポピンズは来ない!」など。過去のディズニー作品の要素を入れすぎ。一体どんな世界観なのだ? 背景の動物の作画が同じとか、隠れミッキーくらいがファンサービスの範疇。本作のパロディはただの濫用。独自の世界にとってノイズでしかない。100周年をオールスターの「ノリ」で押し切って欲しくなかった。

ペラッペラのキャラクターたち

先述した、伏線の活かされない父親だけでなく、七人の小人を思わせる脇役たちもイマイチ。イニシャルが元ネタ(Doc=Dahliaなど)と同じらしい。ここでもパロディ。どうでもいいわ。ここはハッキリと多様性押しつけポイント。障害者のモンゴロイド(東洋人)、ニグロイド(黒人)、コーカソイド(白人)のコンプリート。こういうことやりだすとじゃあオーストラリアとかアラブは? とか細分化してキリがなくなることは自明ではないか。鬱陶しい。
多様性の問題は差し置いても、とにかく7人も脇役は必要なかった。前述したパロディのゴリ押しの一貫でしかなく、やりたいシーンを先に設定して強引にキャラクターを作っていることがバレている。比較してみると、ベイマックスの脇役たちは短時間でキャラクターの個性を発揮できていてすごい。
相棒役、喋る山羊のバレンティノも酷い。冒頭に喋りたがっている様子があったので、願いを叶えたものとしての立場があるだろうに、全く活かされない。完全に、単なるにぎやかしでしかない。ギャグがウケてたから良いんだろうけど、俺は勿体なさや雑さを感じずにはいられない。

ヴィラン(マグニフィコ王)に魅力が無い

小物過ぎ。ミュージカルシーン1つ使って動機を説明しているのだが、承認欲求モンスターというだけ。願いの保管というお節介をし、特権的立場で願いを叶えて、特定の人間を贔屓して楽しむ。現代での選んだ現金をプレゼントする富豪に類似する。こういうコモノには何か強大な力があってこそ、厄介で魅力的な悪役になり得るのだが、それは魔法が使えない一般国民に対しての、相対的な強さにしか見えなかった。一応、国を焼かれた過去があるが、彼の驕慢のあり方には関係は感じられない。「守りたいものが壊されたから過保護になった」のような因果関係がないのだ。一般的なトラウマと、特権的身分にいる一般的な奢りに過ぎない。
こういう薄さは、ヘイト創作に見えてしまう。例えば、彼は中年の危機に陥った白人の保守政治家が、様々な事象を危機と見做して過剰反応する様のメタファーなのだとか。観客を穿った見方に誘導してしまうのだ。これはフィクション、ファンタジーを楽しむのに最も遠い立ち位置だ。そして残念なことに、多分これは当たっている。
ヴィランに魅力がないから、倒した甲斐もない。主人公たちが抱えていた問題も矮小化される。

締めくくり

願いと魔法というモチーフ、世界観設定には魅力を感じた。本作が試作、制作途中であったらどれだけ良かっただろう。だが当然、それではディズニー100周年という重責には耐えられない。本人たちも値しないと気づいているはず。だが公開に踏み切った。完成度の低さよりも、完成度を上げるために粘らなかったことが非常に残念。100周年内に公開できずとも、100周年を記念した作品として作ることはできたはず。ウォルトならこうしなかったと思ってしまう。そういう作品。


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