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サピオセクシュアル

土曜の夜がやってきた。夕食が終わり、子供を寝かしつけ、居間に彼女が戻るとそれは始まった。酒をしたたかに飲み、気分を高揚させた夫が「相談」と称して彼女の全てを否定して罵倒し続けた。多種多様な呪いの言葉を投げつけられ、体の芯まで腐っていくような感覚に陥ったが、今回は3時間で終わった。最長6時間罵られ気絶しそうになったこともあるのでまだ優しいほうだった。

子供が日曜日の習い事で出かけた。夫が猫なで声で「昨夜は言いすぎた」「お前のためを思って」と言いながら彼女の機嫌を伺った。何百回と続くこの茶番を疎ましく感じていたが、反論すればまた説教が始まることは目に見えていた。憂鬱な顔をしているとその虚をつかれて酒の匂いが漂うベッドに引きこまれた。揉みしだかれ彼女の意に反して体が反応してしまうと、理性が快楽の波に押し流されていった。昨夜の「相談」中には二度と相手をするまいと決めていたのに。

カウンセラーの予約は全て埋まっていて、月曜日しか空いていなかった。心が休まらず、彼女は有休を取得しても診療を受けたいという気持ちになっていた。カウンセリングが始まると普段溜まった思いが口から溢れてきた。時間いっぱいまで話をすると、医師から「うつ病ですね」と言われて腑に落ちた。毎日罵詈雑言を言われ、週末に爆発したように罵られ、おかしくならないほうがおかしい。以前よりも10キロ以上瘦せてしまったこの体を、抱いている夫はどう思ってたのだろうか。

どんよりとした火曜日だった。仕事を辞めた。被害妄想が強くなり人に声をかけられると怒鳴られるのではないかと萎縮した。人を避けるようになり、仕事が手につかなくなった。夫に「病気のお前には仕事する資格がない、やめろ」と言われた。夫の考えはこうだ。彼女の病は仕事に起因するもの。病気にかかる費用を捻出するのに仕事をするのは本末転倒。だから辞めたほうがいい。そう言われずともツラくて続けられなかった。子供を授かるときもそうだった。出来ないのは彼女の体のせいだ。費用は一切出さない。しかし実際は夫の精子に問題があった。口が裂けても彼女から言えないことだった。

水曜日の昼から雨が降ると予報で言っていたがその通りになった。彼女はパソコンを開いて書きかけの文章の続きを執筆した。仕事を辞めて以来、何かしなければと思い始めた物書き。彼女の身の上話や日々の出来事を徒然なるまま書いていた。誰ともなく伝えたくて文章を掲載するサイトに投稿した。初めは独り言のようだったが、徐々にフォローしてくれる人も増えてコミュニティが広がった。文章をアップしたとき、その反応を確認するのが毎日の日課になった。

木曜の朝、ゴミ出しから戻ると家の中はさめざめした雰囲気が漂っていた。早く良くなって毎朝仕事に出かけられるよう、人に必要にされるようになりたいと彼女は思った。スマートフォンで更新されている文章をざっと目を通した。お目当ては、長年病気の妻を献身的に支えるパートナーの文章だった。自分の夫がこんな人だったらと憧れのようなものを感じていた。高額なカウンセラーよりも彼の綴る文章は絶望を希望に変えるようなホスピタリティに溢れ、更にポジティブな気持ちにさせる面白さがあった。

「どんな人なんだろう」

そう呟きながら彼女は自らの性器に手を伸ばした。文章にセクシャルな表現があるからだろうか、興奮してあらぬことを考え自慰にふけった。最近サピオセクシュアルという言葉を知った。相手の知性に性的魅力を感じるセクシュアリティ。そこまで高尚になるかはわからないが、この感覚は日々の辛さを忘れさせてくれるには十分だった。

心が小躍りした。彼からメッセージが届いた金曜日。彼女の思いが届いたのかと思うようなタイミングだった。お互いの文章にそれぞれコメントをしていたからかもしれないが、有象無象の中から得られた繋がりは光っていた。彼とは連絡を取り合うようになり仲良くなったが、会うことができない距離にいることだけが残念だった。けれども、これがきっかけで非接触の調教をされるとは、まだ彼女も気がついていなかった。

土曜の朝、カフェは既に混雑していた。ウエイティングスペースで待ちながら彼女と話をした。幼いビジュアルとは裏腹に、快活に話をする明るい人だった。

ずっと会うこともなく日々のメッセージの繋がりだけで2人の絆を深めている。彼からのセクシャルな命令は度を越していたが、満たしてあげたいと言う従順な彼女の行動を聞いて僕は耳を赤くした。セックスよりも恥ずかしい内容だったからだ。

彼女はこの関係を「生きる術」ととらえていた。生活が上手くいかないとき、発散し潤えた。また生活に戻ってからの活気に変えることができた。このあり方に僕はリアルな出会いこそが全てではないような気がした。

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