自己肯定感ってなんなのか

なんかずっとTwitterで言うのもあれだし、文字数制限あるし、ここで自分のことを吐き出せたらいいなぁと思って書いてみる。

わたしには自己肯定感というものがこれっぽっちもなく、自分のことを好きか嫌いかと聞かれたら嫌いと即答してしまうだろう。そもそも、自己肯定感とはなんなのか、よくわかっていないけど、「自分についてプラスに考えられること」だとわたしは勝手に思っている。こんなわたしでも数年前は一応それなりに自己肯定感はあったはずなのだ、自分のことは好きじゃなかったけど、少なくとも今よりはもうちょっとプラス方向に考えられていた。

自己肯定感が死んだ一因として、自分の性格がめちゃめちゃに嫌いってことがある。わたしは所謂「努力」という言葉が嫌いだ。「努力で全てどうにかなる、努力は報われる」みたいな根性論は吐き気がするし、その理屈で言ったら野球を毎日頑張っていて、素振りなんかを毎日している野球少年は全員プロ野球選手になってないとおかしくないか、とか思ってしまう。じゃあ、なんで野球少年が全員プロ野球選手になれないのか、と考えるとまあ「才能の有無」がわたしのなかでは一番先に出てくる。そう、才能がなかったんだ。だからいくら努力しても才能のある人には勝てないのだ。ここで、「じゃあもっと頑張らなきゃ」と捉えるのか、「なら努力なんて無駄だ」と捉えるのか。わたしは完全後者である。わたしは「実らない努力」が嫌いなのだ。だから、みんなが不思議で仕方ない。なぜそんなに頑張れるのかと思う。人間誰でも、しんどいことや嫌いなことをするより、自分の好きなことや楽しいことをしてたほうがいいだろうに、なぜ、実らないかもしれない努力をあんな必死に出来るのだろうと。言い訳だと言われればそれまでなのだけど、わたしはこんな風に考えてしまうから、みんなができる努力というものが出来ないのだ。そして、そんな自分の性格がめちゃめちゃに嫌いだ。ここで「これがわたしだ」と考えられたらよかったのだけど、生憎そんな風に考えられる質ではなかった。「嫌いだ」と思いつつ改善できないまま、ずるずると重りを引きずって生きていく道を選んでしまった。頭の片隅に漠然と、「死にたい」という気持ちがあり、たまにそれが前に出てしまう。前に出るとこういうnoteを書いちゃうような精神状態になるのだ。めんどくさいね。

わたしには誇れるものがなにもない。勉強も運動もできない、器量が良い訳でも、性格が良い訳でもない。病院で診断されたわけではないけど、対人恐怖症をググったら、当てはまりすぎてて引いたので対人恐怖症の疑いすらある、強いて言うなら若干優しさは持っている、わたしの良いところなんてそれくらい。こんな人間はいて捨てるほどいる。別に人類誰もが、素晴らしい才能とかを持っているとは考えてないけど、わたしになにかひとつでも、どれだけ小さくても良いから才能というものがあればなあ、とたまに考えてしまう。あったとして、なにか変わるわけではないだろうけど、きっと心の持ちようが違ったのだろうな、と思う。さっき言ったみたいに、才能のある人には勝てないし、わたしはなんの才能にも恵まれなかったのできっとこれからもこうやって、自分を呪って生きていくのだ。

わたしは将来が怖い。今は学生だからとりあえず、卒業までの未来は保証されているけれど、それから先の未来が見えない。就活というイベントを近々控えているというか、もうちょこちょこ動き始めているわけだけど、コロナのせいで氷河期だとも言われる来年の就活を、わたしが乗り越えられる気がしない。行っている学校も大したことない上に、採用したところで特にメリットがないわたしを採用してくれるとこ、あるのかな。いや、ないよな。そして上述のように頑張れないときたもんだ。もうダメだ。仮に、もともと持っていない自己肯定感をボコボコにされて、苦しみ抜いて就活を終えたとして、わたしはそれから生き抜いていけるのだろうか。衝動的に、死を選んでしまう可能性を捨てきれない。安らかに死ねる機械とか、誰か開発してくんないかな。

今すぐに死を選ぶことはないし、どうせこういうことをうだうだ言いながら生きていくのだろうけど、わたしはいつまで自分のことを嫌いなまま生きていくんだろうな、と考えてしまう。

書くにあたり、ちょっと小説的に書いてしまった。でも、読んでくれてありがとう。もしリアル知り合いとか、Twitterで仲良くしてくれてる人がこれを読んだのなら、無駄な心配をかけてごめんと言っておく。持病みたいなものなんだ、だから長い目で「いつか治るといいね」くらいの気持ちでいてくれると嬉しい。

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