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「愛している」が言えない

オリキャラの一人に「愛している」というセリフを言わせようか、言わせまいか、悩んだことがある。私自身は多分使ったことがないのではないか。どうしても言えない。

こないだツイッターで「愛=ケアである」みたいな話がちょっとバズってたと思うんだが、それはとても納得のいく話だと思う。そしてそれを上記のことにあてはめてみると、そのオリキャラには言わせるのがしっくりくるし、自分が言えないのもしっくりきた。私は他人をケアするのに向いていない。

言い訳を並べてみたい。

私は多分体力があまりない。子供が産まれるまでは、持病はあったがむしろ結構丈夫なのではくらいの感覚だった。自分は人より体力がないっぽいと気が付いたきっかけは娘だ。娘が成長してきて、自分で歩くようになったころ、明らかにまだ2/3は体力が残っているのに、弱音を吐いてへたりだすのを目の当たりにしたからだ。私は、体育の持久走で最後にみんながダッシュできるのが信じられなかったのを思い出した。自分は最初から最後まで全力だったから、ダッシュする余力など残っていなかった。こいつのように体力の出し惜しみをしていれば、最後もダッシュできるじゃないか。

さらに小さい頃の記憶がつながる。

私は2歳頃からの記憶がある。おそらく歩くのがだいぶ上手になったようなころだと思うのだが、外で遊んでくたびれたあと、さらにどこかに出かけることになった。とても楽しそうで自分も行きたいけど、正直、体はきつくて「え、マジで?」という気持ちだった記憶がある。母に「面白いことをやりたい人は、面白いところまで自分であんよして行かなきゃいけないんだよ」的なことを言われて、「確かにそうだ」と思って、「えいや」と我慢して頑張る、という行動を、多分とった。多分。

そしてもう少し大きくなった3歳くらいだと思うが、私には必殺「眠い」と家族から名付けられた癖(?)ができていた。親と手を繋いで歩いていても、いきなり「ねむい」と言って十秒以内とかで眠ってしまうのだ。これも自分でも覚えている。

他にも、友達がかなりの余力を残しながら遊んでいたと思われるところで、自分だけ全力でやっていたような心当たりがいくつかあった。

これらを総合すると、自分は「体力の限界近くまで我慢して動くことができる子供」だったと言える。(これは自分偉いと言いたいわけではなく、多分、疲労を不快に感じにくい性質をあの「えいや」としたときに獲得したのではないかと思っている。娘を見ていると、ちょっとした体の異変をとても不快に思っているようで、気の毒でもある)

何より私は小学校の入学時健診でひっかかり、心臓病(先天性僧帽弁閉鎖不全症)と言われて、18歳ごろまでは1~2年に一回くらい定期検診をしていたのだ。いくら勝手に治ったからと言って、心臓病の子供が他の子より体力があるわけなくない?

この発見により、私は自分のダメな性質についていくらか説明というか言い訳ができるようになった。私にとって年に数回あるすごく調子がいい日、というのがデフォルトの人というのが世の中にはたくさんいて、それは心の持ちようの問題というより体力の問題なのではないか、ということ。赤ちゃんや老人やペットが好きで「お世話をしたい」という感覚に子供の頃からあふれてて実際介護士になった幼馴染がいるけれど、そんな感情が自分の中には全然湧かなかったのは、そもそも自分の世話でいっぱいいっぱいだからだったからではないか、ということ(明らかにそれだけじゃないけど)。

ケアする余力がないのが私なのだ。ケアしてほしいのだ。きっと看護師や介護士になると思えるような人の体力はすごいんだろう。他人の面倒まで見ようと思えるなんてすごすぎる。

しかし、私は子供を二人も産んで楽しく育てているし、旦那のケアっぽいこともしていなくもない。それでも自分から「ケアしたい」と言えないのは、性格的な理由もあると考えられる。

思い当たるのは、自分は料理が好きではないということだ。お茶漬けでも良いから他人が用意してくれたものを食べたい。自分がお腹空いてるのに自分でご飯を作るというのが結構苦痛である。関係なさそうで結構関係あると思う。

もう一つ思い当たるのは、あまり自分が他人から理解や共感をしてもらえたと感じた経験がない(と自分では思っている)ということだ。これは私の思い上がりで、他人に共感したり慰めたりすることはある程度できる気がするけれど、逆が無いと思ってるところもある。私は積極的に誰かの心には寄り添いたいと思っているけれど、それは私がいつか誰かにそうして欲しいからに他ならない。でもまあ現実的には諦めていて、オリキャラが顕現するレベルの現象だと思っている。その辺の欲求の解消は基本オリキャラの皆さんにご協力いただいているという感じである。(旦那はどうなんだというと、別に理解や共感の有無に関わらず人間は大事にできるものだし共闘も労りあいもできる。私は旦那のことを理解してないと思うけれどよく知っている)

理解や共感、小学生の時には体験しているので、知らないわけではない。そのやりとりの心地よさは忘れられない。そうか。小学生に戻ったなら、皆を愛しているのだと言える気がする。私にとっては理解や共感と愛が結構結びついているのかもしれない。これが一番の理由かな。

ケアという意味での愛は体力不足で言いたくない。自分にとっての意味の愛は、そもそもが無い物ねだりだったと。

以上、私が「愛している」という言葉を使えない身体的、精神的理由をまとめてみた。まとまってねえしだからなんなんだよ。




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