「トランスジェンダー」という概念を一旦解体か再定義するべきではないか

トランスジェンダーという概念が広く周知されたことは、孤立して悩んでいた当事者に希望を与え、社会的な配慮を促すきっかけとなった。これは有意義だったと思うし、支援はあるべきだし、多目的トイレをはじめとした性別に関わらない第三のスペースは増設されるべきだ。しかし、それでも、トランスジェンダーという概念にはいろいろと無理がある。一旦立ち止まって、この概念の使用は考え直した方がいいのではないか。トランスという概念は一度解体あるいは定義し直す(そもそも明確に定義されていないという問題があったが)必要があると私は考えている。

海外を含むLGBT活動家や推進者、(自称)当事者の中には、女性や子供への加害を嗜好していたりそれを目的に活動している者が含まれてしまっていることがもう否定できない

LGBT活動家の主張の中には、妥当なものも当然含まれるが、性犯罪目的の男性が女性スペースで性犯罪を起こすことを容易にする内容も含まれる。そしてイギリスの調査でもアメリカでの調査でも、(自称)トランス女性が性犯罪を犯す確率は、他の男性よりも高いという結果が出ている。比較的最近、相次いで活動家が小児性加害で逮捕された。

日本でも女装男性が同僚のハチミツに精液を混入させたなど広義のトランス女性に分類される人による加害事例は後を絶たないし、女子供の人権の軽視に反発する女性に対してネットリンチやレイプ予告、暴言の数々等執拗な加害行為が当事者や支援者からあったのは事実だ。自称にしてもそうでないにしても、これは本当にTの「ほんの一部」なのだろうか。有名な活動家がそうであったのだから、そういう人間が、その目的のために、「トランスジェンダー」という傘の下に集まってしまっている可能性もあるのではないかと考えるのは当然ではないか。このような状況になってしまっているのに、そういった犯罪者気質の人間を分けるような概念の提案や議論がされないのもおかしいのではないか。彼等はしかも被害者が出た後で、加害者は「トランスではなかった」という。これでは自浄作用も期待できない。

LGBT活動家や(自称)当事者の中には、女子供を脅かすこと(男性体の女性スペースへの侵入)を「人権」と称し行っている者や、そこまでいかなくとも女性差別的思想を持つ者や女子供への加害欲の強い者が、(世間一般よりは高い確率で)どうやらすでに含まれている。また、自称トランス女性による性加害のニュースは海外からより多くきかれるが、LGBT平等法の制定を求める署名十万件のうち半分以上が海外からのものだったということも、気を付けなければならない点だと思う。

うち国内41333票と右下に小っちゃく書いてある

「生物学的性」を否定し、トランスジェンダーという極めて曖昧な概念を前提として使用することで、女性の人権を守るために必須である「無防備な場所での男性体からの隔離」という社会的な仕組みを無くす。これにより、犯罪的な行為(男性体と女性体を更衣室で混在させた場合に起こる公然猥褻や窃視等)や女性の権利の侵害を容易に、あるいは合法化する。捕まっても女子刑務所に入れれば懲役さえ娯楽にできる。正直その目的のためにこの概念は、ここまで無理のある、定義すらできないモノとなってしまったのではと、疑わざるを得ない。それほど、悪用向きすぎる概念だ。

昨年「女子トイレに男性がいたとして、それを警戒するのは差別」として女性の芸能人が叩かれていたが、子供に「女子トイレに男が居たら逃げろ」と教えることもできないということだ。このような思想の法制化推進に、ガチのチャイルドマレスターが加わっていたということだ。女性として、親として、疑わない方が問題がある。

「トランスジェンダー」という概念には、性犯罪気質のある人間を集める性質と、性犯罪者幇助の性質が含まれ、すでに実害が出ている。

これが問題点の一つ。


「トランスジェンダー」には、流動的な個人の固定観念を前提とした性自認を持つ人が含まれる

トランスジェンダーという概念の中には、性同一性障害の人の他、オートガイネフィリアや女装男性といった人も含まれる。そもそも、これもおかしい。

ちなみにDSD(性分化疾患:外性器や性腺の発生が非典型的な形で起こる疾患)(多分身体的性のグラデーションとかいうことを言う人はこのことを言っているのではないか)を持つ人は、トランスジェンダーに自分達は含まれないと考えているそうだ。

日本性分化疾患患者家族会連絡会 ネクスDSDジャパンHPトップページの一部


トランスジェンダーの中には、性被害などの原因により自分の身体を嫌悪しているために他の性になりたいと考える人が含まれる。そういった人の個別の支援や配慮が公的に必要なのは理解できる。

しかし、個人の頭の中にある「男らしさや女らしさの固定観念(ジェンダーステレオタイプ)」を根拠にして自分が男だとか女だとか言っている人も含まれる。そういう人に必要なのは、トランスなどという概念ではなく、固定観念を崩すための支援なのではないか。固定観念がなければ自分の身体ごと自分自身を肯定することができるのではないのか。変えようのないかけがえのない「自分自身の身体」を否定してしまうトランスという概念をわざわざ利用し続ける道理はない。宗教やそれに準ずるものが理由で男らしさ女らしさを前提としなければならないなら、それは当然他者にまで押し付けて法制化などあってはならない。

女装男性もそうだ。トランスなどと言う概念を使用するまでもなく、ただ「好きな格好をする男性」でいい。そこに回りくどい言い分けなどいらない。言い訳が必要だと感じるのは、男らしさ女らしさの固定観念がとれないからではないのか。言い訳などしなくとも、人には好きな服を着て、性別にあったスペースを使う権利がある。男性なら、女らしい服を着て男性スペースから排除されたなら、その男を差別主義者として通報できる。あくまで「女性」にならなければならないというならば、それは不可能なのであきらめるしかない。ほとんどすべての細胞に性別は刻まれている。外性器を整形したり薬を投与したところで、それは外性器を整形して薬を使っている人でしかない。外性器の形も胸の形も性別を表すものではない。人生にはあきらめるしかないこともある。男が女になるのも、その逆も、できるなどと言うこと自体がその身体を持つ人への侮辱だ。特に男→女というのは、女性が被差別属性であることから、結構深刻な侮辱だ。

(ここまで書いてきて私が男らしさ女らしさを否定しすぎていると感じる人もいるかもしれないが、私は男らしさ女らしさの良さを全否定する気はない。むしろ、性別役割分業や、男らしい男や女らしい女の魅力はある程度大事にされて然るべきだと考えている。ただ自分でも他人でも「それにあてはまらない人間を否定しないこと」「少数派であることを否定しないこと」が重要だと考えている)

以上のように、トランスジェンダーの中には、本人の固定観念の如何によってどうにでも変わり得るような当事者も含まれている。依拠する基準すら定まらないどころか、いくらでも変えられる概念を法律、しかも犯罪を誘発する性質のある法律の根拠にすることなどあっていいとは思えない(法律のことはわからないのですでにある可能性は否定しないが)。

また、仮に本当に心の性というものが存在したとしても、人々が注目しているのは身体であって、心の話はしていない。そして心の性の存在は今のところ証明できないことから、他人に押し付けることはできない。どれだけ女子トイレに入りたくとも、男性の身体は一般的に女性より強く女性にとって恐怖の対象であり、男性器は女性の精神を破壊する可能性があり、精子はそれ自体が女性に死を招く可能性を持つ。もっと性犯罪が少なく、司法や警察が適切に機能しているような社会だったらもっと違ったことになったかもしれないが、今の社会で男性体を女性スペースに受け入れることは女性の精神的負担が大きすぎる。可能性を見出すなら、まずは社会を変えて欲しい。


「トランスジェンダー」という概念は本質的に女性差別を内包している

人間の生物学的性は明確に二つ存在するものだ(これはヒトという生き物や他の生き物を細かく丁寧に観察した結果出された結論だ)。そして人間の身体は、生物学的性を表現する遺伝子に従って形作られる。発生が正常に完了すると、身体の機械的な機能は性に従って明確に二つどちらかの身体になっている。女性はその生物学的性に従った身体の、機械的な機能と外観を持ち、その身体性によって差別されてきた属性だ。生物学的性を蔑ろにすることは、女性差別の不可視化に他ならない。

脳も身体の一部であるので、性の影響を受ける。しかしこれは人間の行動様式(欲求の持ち方や強さ、その発露の方向の傾向)として表現されるものと私は考えていて、人格とはまた少し違うものなのではないかと思っている。子供を育てて確信したが、男女で脳みその差は平均を取れば確実に存在する。しかし、それはあくまで平均をとれば、という話であって、個人を論じる時には無意味な話だ。そして個人の行動様式が身体の性となにか関係あるかというとせいぜい中指と薬指の長さの差とか、肛門と性器の距離とか、その辺に出るくらいだと思う。男の子っぽい女の子は身体も男と混ざっている、ということにはならない。

人間が動物の一種であることをどうしても認めたくない人が結構なボリュームでいるようだが、動物の一種だと考えるのがいまのところ最も「尤もらしい」のだから仕方がない。適切な反証があれば、最初は反発があっても科学者はいつかそれを受け入れるだろう。

それにしても、少なくとも機械的な身体機能は動物と同じ様式に依っているというのは疑いようがないのではないだろうか。女性はその機械的な身体機能の特性によって差別されてきているので、「人間は動物じゃない」を採用してしまうとこれを無視することになり、女性差別を強化してしまうことを理解してほしい。

(生物学は、人間が生き物として、人間として、どう生きるべきか考えるためにある。優生学と呼ばれるものは、どういう社会の仕組みを作るのが適切か、生物学を参考にして考えられた思想だ。定期予防接種は、ヒトや病原体についての生物学的知見が集まった結果、社会の仕組みとして組み込むことが可能だし適切であると判断されたものだ。妊娠出産は非常に原始的な事象で生物としての人間の本質とも言えるが、人間の人生はそれがなくとも意味がある。しかし、人間の社会が続くことを前提とする限り、妊娠出産は避けて通れない。妊娠出産を、原始的として悪いもの、人工子宮が開発されたら切り捨てるべきものとするべきかは、子供の成育や親子間の愛着形成の他、出産リスクの増大の可能性など議論の余地がかなりあると私は考えている。それらを考えるには生物学の知見は必須である。人生や社会の在り方を考える際、生物学的な知見を参考にすることは、重要だ。特に人間の身体的、機能的な限界を知るために重要であると私は考える)

もう一つ、トランスジェンダー概念が女性差別的なのは、社会的男らしさ女らしさの存在を(可変なものであるにもかかわらず)前提として、それに自分を合わせに行く格好の考え方をしているところだ。

ジェンダーステレオタイプは特に女性を抑圧してきた固定観念である。女は化粧をするものだ。女はスカートを履くものだ。女は男を誘惑するものだ。女は感情的だ。女は非論理的だ。女はなよなよしている。女はハイヒールを履く。女は理系科目ができない。女は馬鹿な方がよい。などなど。クソである(基本的に諦めの後押しや足枷になるものが多いので、女らしさは降りた方が良いものとして認識されやすい)。

男性もそれに苦しめられている。男は強い。男は賢い。男は金を稼げる。男は勇敢である。男は料理をしない。男は家事をしない。男はケアをしない。男は感情を出さない。男は根性がある(基本的に気持ちの応援要素になるものが多いので、辛さがないのなら前向きな男らしさからは降りない方が自身の成長のためにはベターであるのは当然だ。後ろ向きな男らしさは降りた方が良いのではないか)。これらにあてはまらなければ辛さもあるだろうし、そこから落ちないようにキープするのにもエネルギーが必要なことなので緊張感があるだろう。

社会は少しずつ「それを押し付けるのはやめよう」という気運を高めてきていたはずだ。やりたい人はやればいい、やらない人はやらなければいい。やりたいけどこれ以上は無理、と言う人も、諦めることができる、それによって非難はされないようにすればいい。他人の選択にケチをつけない否定しない、というだけのことだ。トランスジェンダー概念はこれを逆行させる。特に女性にとっては、足枷を外そうとしている最中に足枷を喜んでつけて自分こそ女だ女だと言う男性体が存在するのは侮辱だし脅威だ。

上記二点に加えて、LGBT活動家による要求には女性の精神的負荷や犯罪被害が増すことが必然ともいえるものが含まれる。総合すると、トランスジェンダーという概念とLGBT活動家の活動は、純粋に差別を無くすためのものとは言えず、女性差別を不可視化し、女性差別を強化≒男性特権の拡大を目指す側面があるということを否定できない。

まとめ?

この記事ではトランスジェンダーという概念自体の問題点を挙げたつもりだ。トランスジェンダーという概念によって、困っている人の存在の周知はある程度はできたことと思うし、なにせダイレクトに行政に取り入っているので他のこと(女性差別とか)と比べれば素早く支援も進んでいるように見える。この後は一旦トランスジェンダーという概念から離れ、そこに含まれていた人々を、もっと細かに、デリケートに尊重したほうがいいのではないか。背景も実生活も持っている欲求も不安も、あまりにも異なる集団が一緒くたにされすぎている。これを一括で扱いを決めるということには、はじめから無理がありすぎたのではないか。トランスジェンダーの概念は、孤立していた当事者に希望を与えたり、支援が強化されたりなどのいい面もあったと思う。しかし、これ以上は、一旦立ち止まって考えるべきだ。(自称)当事者への悪感情が広がっている(予見できた犯罪被害を軽視するのだから当然だ)し、女性差別的意図が無視され過ぎている。トランスジェンダーという概念には、悪意的な形で女性差別が組み込まれていると言っていい。もうやめろ。

他人への加害を嗜好する人間以外のみんなの心が大事にされますよーうに。


(ちなみにLGBについて個人的には、Gの人の中に代理出産という犯罪行為をやりたがっていることを表明する人が時々いることを除いて特に文句は無い。性のある生き物をそういう目で観察すると、同性愛行為は大抵見つかるものであるらしいので、同性愛はむしろわりと普遍的なものと言えると思う。代理出産については、他人の子供の命を危険に晒してまで血のつながった子供が新しく欲しいなどというやつは、親になる資格はない。代理母は他人の子供である。代理母は大抵小さい子供がいる母親である。出産には命の危険や後遺症が伴う。やっとの思いで赤ん坊を産んだ産婦から赤ん坊を取り上げ、他人が「自分がこの子の親だ」などと名乗り、それが法的にも認められるなど、代理母経験者が精神疾患になりやすいというのは当然のことである。代理出産利用者が嬉しいのは当たり前で、完全に買う側のメリットが大きすぎ、売る側のデメリットが大きすぎる人身売買だからだ。「親になる資格はない」言説は大抵しょうもないものだが、これについては絶対に譲らない。LGBT団体の人は代理出産の利用を明確に否定してほしい。ローマ法王も否定したことだし)

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