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自分と向き合う、自分を取り戻す

 映画館に向かって二駅分くらい歩いていた。外を歩きながら、何かに恐れていると気付く。ドキドキして手先の力の入り具合いに違和感がある。一つの些細な出来事をキッカケに、不快感で胸あたりに広がりそうな感覚。過去の嫌な記憶に脳内を支配されそうになる感覚。何かが少し触れるだけで、心が崩れ落ちそうな感覚。過度に心が反応してしまう。頭の中がグチャグチャに蠢いて、どんよりする。「頭の中の、この気色悪さ、邪悪さを消したい」から「ここから消えたい」に変わる。

 時々、外を歩いていて、色々なことが気になることがある。気になって、少しイライラする。怖くなる。後ろの人に会話が聞こえて過度に気になったり、見られている気がしたり、傷になった過去の出来事を頭の中で再生し続けたり、心の穏やかさが脅かされる。「疲れているんだろうな」「鬱による脳の誤作動だろうな」と思えるようになって少し楽になったけど、それでも心の中に嫌な感じが鎮座するのは、当たり前のように心地が悪い。過去のストレスを思い出すのは嫌だ。

 「誰かに何かを言われて過度に傷付くのは、自分の中の軸が定まっておらず、自分に自信が無いからだ。自信や安心感がないから誰かの評価や承認に強く頼ってしまい、それ故に見下されたり大切にされていないと感じたりすると、強い反応を起こす」と聞いたことがある。確かに、僕の胸が締め付けられ嫌な感覚が胸からジワジワと広がるとき、誰かの言葉や行為を思い出している。誰かに僕の価値を評価されているという錯覚に陥っている。それを凶器として自分自身を責め、否定し、傷付けているのかもしれない。

 ただ、そう気付いたからといって、今すぐに改善できる訳でもない。子どもや学生の頃からの、深く刻まれた心の癖は、そう簡単にグニャッと修正できない。ただ「構造がある」と気付けたのは収穫だった。「こうあるべきだ」「これはダメだ」という言葉や価値観に触れたときに、(恐らく無自覚に自分を貶めるものを選定して)「自分は劣っている」「価値がない」と感じてしまう。比較だけではなく、優劣を付けている。
 
 「人は人、自分は自分」と考えたいが、何かしらの空間や関係を共有した瞬間に、互いの思考様式が干渉し合う気がして、うまく切り分けることができない。「人は人、自分は自分だ」と強く意識しないといけないことが、僕には心地悪い。「違ったっていいじゃない」を受け入れるために、人を強烈に意識しないといけなくなって、意識した瞬間に、人の価値基準を少し自分に照らし合わせてしまう。僕は、その侵入で疲れてしまう。

 いや、疲れてしまうどころか、自分自身が嫌になる。気力を失い始めたとき、「頑張れない自分、できない自分はダメだ」と強く感じ、その嫌な感覚が溜まっていって、居場所が無いように感じる。消えたくなる。でも「死にたい」とよく思っていたときも、自分で手を下す勇気はなかった。歩道を歩いているときに、暴走するトラックに跳ね飛ばされたら、とたまに考えていた。そして今は、死を想像したときに「死にたくない」とも思う。「まだあの映画を観ていない」「書くこととか、やりたいことがまだ残っている」と、急に悲しくなる。僕はわがままだ。
 
 僕の身体を検査すると、大して悪いところは見つからないのだろう。「運動不足」は見透かされるだろうし、腰痛はあるけど、呼吸は正常だし、心臓も問題なく動いているのだろう。でも精神は病気にかかっているのだ。見た目では分からず驚かれるのかもしれないけど、僕の中には僕を蝕む何かが確かに蠢いているのだ。そう強く自覚するまでに、時間がかかった。

 よく鬱の症状として、風景がグレーに見える、というのをよく聞いた。何となく分かる気がする。脳が汚い水に浸ったみたいで、注意を払えなくなる。色に気付かなくなる。最近散歩をしていると、奇妙な外装の建物とか、空の色味とか、「こんなに色々な情報やグラデーションがあったっけ」と不思議に感じる。鬱が酷かったとき、歩いていても下ばかり向いていたのかもしれない。頭の中がうるさくて、意識の鮮度が悪くて、「気付く」ができなかった。

 数年前、鬱だと診断された当時、少し救われたのを覚えている。無気力さ、憂鬱さに病気という説明が付いて、少しだけ肩の荷が降りた気がした。でも数年経った今でさえ、「病気になって良かった」「鬱になったのも何かの恩恵だ、学びや意味を得ればいい」と、割り切ることができている訳ではない。「鬱になって拓かれた道がある」と無理やり自分に言い聞かせようとするけど、全てを受容できていない僕も確かにそこにいる。

 無理やり消化する必要もないなと、今では思う。もしかしたら将来、柔らかい気持ちで、鬱になったことや、心を壊す過程で経験したことを全肯定できるようになるかもしれない。でも今すぐそれができなくてもいい。焦って、無理に消化しようとしても、自分に素直になれていない自分に自分が気付いて、その感覚で辛くなりそうだ。「何でこうなってしまったんだ」と、「こうなったから気付けたこともある」を行ったり来たりしてもいい。白か黒か、はっきり決めてくなっていい。複雑な気持ちが共生したっていい。曖昧でいい。僕はそう自分に伝え続ける。

 自分自身であることを楽しむって、ずっとできていないような気がする。自分らしく生きたいなって思いながら、でも自分らしさが分からず、誰かの視線を意識した自分の像を勝手に想像して、それっぽい自分らしさを選んだときの周囲の変な目に耐える勇気もなく、でも「自分らしく生きているんだ」って無理やり自分に言い聞かせ、いつの間にか自分らしさがよく分からなくなり、そして自分を殺し切ることもできず、時々自分らしさを不器用ながえら出そうとしておかしな空気になり、人の目が強烈に気になって恥ずかしくなり、苦しむ、ということをずっとしていた。

 「いつも頑張らないといけない」「頑張っている自分に価値がある」という認識から生まれる焦燥感、正義感によって自分を駆り立てていた。そして自己理解が完全に欠落していた。成長していた自分がいたし、気持ち良さに酔っていたときもあった。でも不器用でいい加減で頑張れない自分も自覚していた。もし何かの弾みで頑張り続けることができる心身だったら、焦燥感が役に立ち続けていただろうか。僕は、素直に自分を楽しむことができず、自分を見失い続けたままだったのではないかと思う。自分らしさ、人間らしさを模索する発想にならなかったのではと思う。

 少しずつ、自分を取り戻しているような感覚がある。悲しいときに悲しいと感じ、「苦手で辛いな」と思ったら避ける、逃げる。何かに囚われて感情や疲れが霧の中で見えなくなるということはなくなった。誰かの目を強烈に気にして、期待や評価を優先して自分を押し潰すことも少なくなった。少なくとも「あ、今自分の本音や自己理解から逸れた」と気づけるようになった。自分に問いを向ける時間を設け始めた。少しずつ、ゆっくりと、「自分ってどんな人だっけ、どうありたいんだっけ」がクリアになっている。

 僕は今公園のベンチに座っている。日曜日の19時前。少し冷たい風が肌に当たって心地良い。桜の花びらが土の上を転がっている様子に季節を感じる。紺色の夜空に美しい三日月が存在感を放っている。ベンチで座っている他の人が電話で「人間だからしょーがない」と言っていて、心が少し軽くなる。散歩道の、公園の中の、日常的瞬間に、「あ、心地良い」と感じる。鬱になって気付かなくなった情景、感情、そして気付いてくれる自分を、取り戻しつつある。

 うつ病になって数年間、僕はこういった日常に潜む一瞬に気付けない心身だった。陽の光を浴びると心も晴れる気がする、親子が散歩している姿が微笑ましい、シャワーの温かいお湯が気持ちいい、公園や神社の静けさで心のざわつきが軽くなる、「美しさ」「微笑ましさ」「穏やかさ」を感じる取るセンサーが壊れていた。辛い記憶が消える訳ではないけど、「鬱になったから」「ならなかった」と無理に解釈することに時間を割くより、今心を動かしてくれるものごとに感謝をして生きていきたいと思う。

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