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あ、ぼく病人だった

 今、僕は鬱から回復しつつある。発症前みたいには動けないけど、少しずつ体力は戻りつつある感覚がある。仕事をしていないから、復帰したときにどうなるかは分からないけど、求職活動をしたり、読書や執筆をしたり、酷かったときに比べると、大丈夫になった。映画を楽しめるようになった。時間がかかったし、まだまだ疲れやすさや落ち込みやすさは残っているけど、僕にとっては大きな進歩だ。

 考えすぎはエネルギーを想像以上に多く消費するのだろう。ふと過去のしんどかったときを思い出す。「思い出しても意味ないよ」と自分に言い聞かせようとするほど、余計に思い出してしまう。何が起きたかを思い出す、というよりは、そのときの感情だけが湧き出る。落ち着いたときには「今考えると、深刻に捉えすぎているかもしれない」と気付けるのだが、今再解釈をほどこそうとしても、感情はこびりついたままだ。もう少し時間がかかりそうだ。

 ふとした瞬間に、嫌な記憶が脳内にスルリと入り込む。水を取りに台所を歩いているとき、椅子に座って映画を観ているとき、急に辛さが舞い込んでくる。「急に」だとは自分では思っているが、もしかしたら連想のトリガーとなるキッカケで遭遇していたのかもしれない。情景や匂いや文字列を知らぬ間に知覚し、それをキッカケにぴょんぴょんと思考が飛んで、気付いたら心が重たくなっている。

 「思考」なんて偉そうなものでもないけど、グルグルと考えていると、ものすごいエネルギーを消費するんだろうなと思う。「暇だから考えてしまうんだ」「コントロールできないことを考えても仕方がない」という処世術は理解しながらも、体力が無くて何もできないときに嫌な記憶が侵食する。コントロールできるかどうかなんて関係なく、脳が反応し続ける。体力が無くてエネルギーの投資先がコントロールできなかったり、傷が残って反芻が癖になっていたり、一筋縄ではいかないな、と憂鬱になる。

 僕は体力がない。外出するとすぐに疲れる。面接などで話すとぐったりする。どうやって働いていたんだろう、と度々不思議に思う。疲れると、やらないといけないと分かっている簡単な作業さえできなくなるけど、その疲れるタイミングが、やはり早い。「別に大したことしていないのに」「2時間くらいただ外出しただけなのに」と毎度思うのだが、しんどいものはしんどい。

 色々な事柄に関する自分への期待基準を、ガクンと下げたつもりではあったが、まだまだ下げないとやってられない気がする。活動量や活動内容を、鬱になる前に戻したいなとは思うが、そんな簡単ではないと、毎日の気怠さが教えてくれる。そう、僕は病人なのだ。病気になる前の自分と比べて、体力、注意資源が驚くほど少なくなっているのだ。「前のように」「あの人のように」といつも薄っすら期待している自分がいるけど、もしかしたらこの先ずっと、この疲れやすさ、体力の無さと付き合っていく必要があるのかもしれない。

 やりたいことは沢山あるので、少し残念ではある。ただ、優先順位を見直すチャンスでもある。あれもこれもできるようになりたいと思っていた。どんなところでも活躍したいと思っていた。元気なまま世界線だったら、もしかしたらある程度の頑張りである程度の身のこなしができたかもしれない。でも、本来は不必要なはずのものばかり求めて、疲弊して、「本当の本当は何を大切にしたいのか」「本当の本当は、この人生で何を目指したいのか」と向き合えなかった世界線でもあると思う。

 うつ病になって改めて気付いたのだが、普段の生活で色んなことをしようとしすぎている気がする。鬱になる前は、「みんなに好かれるためにエネルギーを注ぎ込む」「課された課題はとにかく全力でこなす」「誰かに要求されていることは、何とかいい感じにこなす」みたいなことの連続だった。実際に成果が出ていたかは知らないけど、「自分にとって、大切なのか」「エネルギーを使うべきかどうか」をあまり考えず、とにかく目の前のことに全力を尽くしていたんだと思う。

 今、鬱になったおかげで、エネルギーの有限であることはっきりと突き付けられた。そして、適性上どんなことをするとエネルギーが余計に消費されるか、を度々考え、体力を節約する行動・環境を日々模索している。「できるかも」「やらないといけないかも」という選択肢があると、常にやろうとしてしまっていた僕だが、「Aをやるために、Bを捨てないと」と、天秤にかける考え方が身に付いた気がする。

 恐らく数ヶ月前、調子が良くなり始めたときに、「これくらいまで持っていきたい」という基準に囚われていた。調子が良くなり始めたけど、治った訳ではない。ガクンと落ち込むことがある。そんなときに、「これくらいはしないと」という基準を勝手に頭の中で作っていたから、焦ったり、自分を責めたりした。頭の中で「あれこれしないと、努力しないと」ってぐるぐる考えるけど動けず、もどかしくて、気持ち悪さを感じ、「情けない」「自分はダメだ」と強迫的な観念に襲われる。

 調子が良くなってきたからといって、急にペースを上げてはいけない。「これくらいはできる、したい」の基準についても慎重にならないといけない。「なんでこんなこともできないんだ」「みんなは普通にできているのに」って考えてしまうときって、とても苦しい。その苦しさでエネルギーが削られる。「できなくてもいいや」「今とにかく生きているだけで十分だ」という芯が必要だ。気を抜くと、人と比べてしまう。人の”普通”と比べて、「しっかりせねば」「ちゃんと頑張らないと」の方に釣られてしまう。

 頑張る自分を褒めるのも大切だけど、頑張らない決意をして、「頑張れ」と言われ続ける中でも自分の方針を大切にした、「頑張らない自分」を褒めてあげるのも大切だ。頑張っていないとき、頑張っている人を見ると焦る。「頑張れ」と言われると足りない気分になる。「頑張っていないのが悪い」と言われると自分を責めたくなる。そんな中、「頑張らない」ができるのは偉い。「頑張らない」ができることは貴重だ。僕はそういう結論を持つようになった。

 焦らない、頑張らないって難しい。でも、自分を見つめて、自分の決意を信頼する勇気が必要だなと思う。自分の体力や適性を理解して、「できないことはできない」「体力が無いから、手を抜く、そもそも手を付けない」「疲れたから休む」と愚直に実行する、その勇気ってこれから生き続ける上で、財産だと思う。未来、外を見ちゃうと「みんなこんなに活動してるのに」って不安になり焦燥感が生まれるけど、「でも、私にとっては休むこと、頑張らないことが最善だ」と地に足をつけて英断していかないと、また体調を崩してしまうなって思う。

 他人の評価や一般的な基準から降りようとすると、少し怖い。でも、そのような評価・判断・基準を常に自分に侵食させる方が、怖いのだろうなと今は学んだ。誰かの評価・基準にだけ依存してしまうと、気付けば自分の基準や信念を見失って、「足りない自分」「できない自分」に焦点を当て続け、自分を責めてばかりになる。人の評価にビクビクして、自分で自分を判断し続け、ダメ出しし続け、莫大な憂鬱、失望感に襲われる。そうやって、僕は心を蝕まれてしまった。

 僕は病人だ。そして、得手不得手がある人間だ。生き方、日々の過ごし方の最善は、人それぞれだ。弱さも、体力の無さも、苦手なことも、まずは認識しておきたい。そして、捨てるもの、諦めるものを発見し続ける。少量の「ここはできそう」「何とかしていきたい」を見極める。人と同じように動けなくてもいい。頑張れないときがあっても構わない。頑張れないとき・ことばかりでも構わない。自分を責めない、自分を否定しない。とにかく「今はこれでいい」と受容してあげたい。自分で自分を苦しめないためにも。

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