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頑張らないことが、私の生存戦略

 色んなところで何度も書いているような気がするけど、私は、「何かマジカルなことに遭遇して、何か衝撃的な出会いがあって、劇的な変化が人生に訪れる、考え方や感じ方がガラッと変わり、素晴らしい人生に切り替わり、力強くなれる、成功者になれる」と思っていた節がある。

 人や映画との出会いに、何か大きなものを期待してしまっていた。「この人との出会いや、この人の言葉が、私を変えてくれる」「映画を観て得られたこの感動が、変えてくれる」、という下心があった。純粋に出会いや鑑賞を楽しんでいるつもりでも、頭の隅っこで、「自分をどうにか変えてほしい」という目論見みたいなものが潜んでいた。

 いつからか分からないけど、変わらないといけない、といつも思っていた。自信たっぷりだったときもあったと思う。自信なのかプライドなのか、「俺はできるんだ」と、自惚れていた時期もあった。もしかしたら自惚れ、自我の強さみたいなものは、認識の根っこにあって、否定されたり、傷付いたりしたときに、自責や自己嫌悪の度が強くなる。

 ただ、どこからか、「できない自分、ダメな自分」に過敏なほどに自覚的になった。自分を受け入れられず、何かを追い求めて、足りない自分、スマートでない自分が嫌だった。仕事や恋愛で「できる人」を見かける度に、嫉妬心を抱いた。「できない私」が浮き彫りになるようで、恥ずかしかった。苦しかった。できない自分を受け入れられず、でもプライドは高く、劣等感や傷付くことが受け入れられない。私のような人を「こじらせている」と言うのだろう。

 そうやって自分を責めて、可愛い自分がいるからこそ自分が嫌いで、嫉妬して劣等感を抱いて、少しずつ汚れた気持ちが心に沈澱していったのだと思う。段々と心が重たくなった。頑張っていなかった訳ではない。現状を脱しようと自分なりに必死だった。でも、現状を脱しようとするのは、自己否定からだった。

 当時「劣等感が酷く、苦しい」という言葉で認識し、一度カウンセリングに行ったことがある。鬱かどうかみたいな発想は全くなく、ただしんどくて誰かに話を聞いてほしかった。当時付き合っていた彼女と別れてすぐだったと思う。カウンセリングを受けてどう感じたか、あまり覚えていない。2万円くらいをトレイに置いて、「高いな」とだけ思ってしまったことを覚えている。

 明日起きたら、別人に変わっていればいいのに。明日起きたら、強くて聡明な人間になっていてばいいのに。明日起きたら、いや、ずっと起きなければいいのに。そんなことばかり考えていた。学生時代では「頑張りたい」「何かを達成したい」という熱意は良い事をもたらしてくれた。いつしか執着に変わり、自分を苦しめていた。

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