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「僕のままで大丈夫なんだ」という自信がほしい

 まだ暗い早朝に一度目覚めて、前の職場のことを思い出して苦しい。鬱になったこと、嫌味を言われたこと、気持ちや真面目さを蔑ろにされたこと、会社や外が怖くなったこと、ワンルームの部屋でシャワーも浴びれずに自分が汚く情けなく感じたこと、辞めさせたかったのか仕事を取り上げられたこと、連想ゲームのように、芋づる式で嫌な記憶が蘇る。脳内で映像を再生してしまう。

 拒絶された、仲間外れにされた、大切にされていない、そう感じた。自分に価値のないよう感じて、心が締め付けられる。悔しい。苦しい。あまり考えずに価値観を委ねてしまい、「認められること」に重きを置いてしまった。自分で選ぶよりも、人の基準で選んで、見返りを期待してしまった。苦しさは内側から湧き出ていることも、今では分かる。

 でも、思い出して、黒い感情が生まれることには変わりない。いつから「死にたい」と思うようになったのだろうか。学生のときは、そんな風に考えることはあまりなかった。一度だけ、高校生のときに煙草で自傷行為をしたことがある。当時付き合っていた人の振られ、別れる直前に不良男子とお酒を飲みながら戯れ合っていたことを知り、死にたくなった。

 その出来事以外は、学生のときに「死にたい」という思いは現れなかった。少なくともそう記憶している。傷付きやすい、緊張しやすい、不安になりやすい、そんな性格である自覚は持っていたが、「心は病んでいる」みたいに感じたことはなかった。でも、働き始めて数年経ったくらいから、強く責められるような感覚のせいで、思うように動けなくなった。どこにも居場所が無いような、どこにも出口が無いような、そんな感覚がずっと稼働していた。

 「死にたいって度々思うんです」って誰かに話せるといいのかな。ありきたりな表現だけど、心に大きな穴が空いているような感覚があったり、心臓が締め付けられて熱を発していたりして、苦しい。20代後半になってから、「生きることから逃げられたら楽なんだろうな」って思い始めた。どんなときに満たされるのだろうか。何があれば、何をすれば、どう感じれば、少しでも「満たされている」と感じるのか、よく分からなくなってしまったな。

 今までずっと、黒い気持ちを押し返そうとしていた。そのままにしておくとしんどいし、弱音を吐くと嫌われそうだし、腫れ物扱いされるだろうし、蓋をしてきた。向き合うことを避けていた。膿のような、汚れた感情が心に沈澱して、気付けば、取れない汚れになっていた。「汚れだ」って認識して、ずっと放置してきたけど、どうやら無視しようとすればするほど、「死にたい」という気持ちは、存在感を増すらしい。

 最近思う。「死にたい」という言葉が現れるけど、もしかしたら色々と飛ばしているのかもしれないなと。時間をかけて、慢性的な「消えてしまいたい」が育って、ずっと稼働するようになったのだろうけど、苦しみの原因がどこかにあって、どこか満たされない感覚があって、それにラベルを貼るのに便利な言葉が「死にたい」なのだろうなと思う。

 少しずつ、黒い感情を掘り起こしていった方が良さそうだ。一人で行うと辛そうだし、どこにも進めず溺れそうだから、本を読んだり、カウンセリングを受けたり、人の言葉やガイダンスを頼ろうと思う。承認欲求や自己愛、プライドや劣等感、正義感や自他境界線の曖昧さ、おそらくそういった心の癖が悪さをしているんだろうけど、例えば「プライドを無くせ」という正論だけでは対処できない、凝り固まった原体験・記憶が根深く存在しているんだ。ゆっくり、少しずつ向き合う姿勢が大事そうだ。

 虚しさや憂鬱を少しでも和らげるために、幸せの刷り込みを解体していきたい。「これが幸せだ」という決めつけから生まれる欲求と向き合いたい。人との関係性の中でしか得られない喜びにばかり着目していた。それが本当に心を豊かにする喜びかは検証してこなかった。でも、認められる、「優れている」と認知される、評価される、社会的成功・成果を生み出す、そんなことにばかり引っ張られ、焦り、苦しんでいた。虚しさが育っていった。

 「自分の存在価値を人に、会社に、社会に認めてもらいたい」という欲求を手放すと、少し楽になりそうだ。本当に欲していたものを手放す、という感覚とは違う。誰かが敷いた「こうあるべきだ」への囚われを手放す、が近い。安直かもしれないけれど、自分を再度見つめ直そうとしている。「もう難しそうだな、僕には無理だな」は、強い悔しさを含むものでもない。何がしたいか、何ができそうかを見直して、初めて自分で選択をするのだ。

 新しい日々に踏み出すのだろう。忘れてしまいたい記憶は沢山あるけど、過去を切り離して考えたい訳でもない。以前の自分を取り戻そうと志すのは違うのかなと思っている。時間を取り戻そうと必死になると、色々と見失いそうな気がする。別に時間や過去の自分を取り戻そうとする訳でもなく、病気になる前の日常を生き直す訳でもなく、自分に少し違った人として、輪郭を掘り起こして、新しい生き方に進んでいくのだろう。

 「僕は何者でもないんだ、不特定多数の一人なんだ」と大きな声で自分に伝え続ける。「僕は何者かである、特別である」と考えることで生まれる強い欲、我によって、余計に居心地が悪く、誰かの承認の有無で苦しんでいた。「何者でもないんだ」と強烈に自覚的することは、解放的である。死にたいと思うのは、必死に生きようとしている証拠なのだろうと思うけど、「必死さ」の方向性を見直した方が良さそうだ、と僕は思った。「何者かでありたい」「何者かであると知ってほしい」という強く思うことで、本音と違う方向での苦しんでしまうような気がして。

 無理に気持ちを操作する必要はないよ。まずは認めてあげることが大切だと思う。「辛いね、苦しいね」って。そして少しずつ、「なんで辛いんだろう、どうやったら苦しさを和らげられるだろう」「何を我慢していて、何を解放できれば、楽になるんだろう」って対話して理解を深めていければいいね。僕はなぜ虚しくて、何があれば(どういられれば)少しだけでも満たされるのか、よく分からなくなった。センサーが麻痺して、「何をして生きていけばいいんだろう」ってよく分からなくなった。

 心の穴が綺麗に埋まることを期待しすぎているのかもしれないし、自分の本音にずっと蓋をしてきたから、いざ向き合おうとすると、何がなんだか分からなくなっているのかもしれない。ただ、どうせ死ぬんだから、死は近いているんだから、好きなように生きたい。今までずっと押し殺していた気持ちを、どうにか解放してあげたい。それが少しでもできれば、「死にたい」の頻度・強度が、下がるかもしれないなって思う。

 今まではずっと「ダメだ」「足りない」って自分に言い続けるほど、自罰的だった。いつまでもどこまでも、足りないものばかりに目を向け、何にも満足できず、常識や世間の枠組みで自分を見下し、誰かと比べて一喜一憂し、「自分にも価値があるんだ」と嬉しいように感じるときも、成果や能力、人の評価など誰かに依存した歪んだ優越感であるが故に一瞬で強烈な劣等感に転じる脆さを抱えながら、怖くて、不安で、憂鬱で、虚しく、自分に価値がないように感じた。

 少しでいいいから、「僕のままでいいんだ」って思えるようになりたい。無理矢理に肯定する訳でもなく、気持ちを操作する訳でもなく、悔しさや不安がありながらも、「自分でいていいんだ、そのまま生きていればいいんだ」って安心感を感じたい。小さい喜びを見つける練習をして、ありとあらゆる気持ちに気付いて認めてあげる練習をして、ただただ今ここに自分がいることに安心感を感じて、「生きていて大丈夫なんだ」って自信が持てるようになりたい。

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