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人間関係の外に出る

 私は人間関係がきっかけで心が高低する。求職活動をしていても、メールばかり気にして、他人の目ばかり気にして、ビクビクしている。面接に落ちた、「コミュニケーション能力が足りない」と言われた、返信が遅い、など、チクチクと傷付けられる。人や会社、社会にどう評価されるか、を過剰に気にする。ビクビクする。不安に襲われる。落ち込む。

 人間関係に身を置きすぎているのかもしれないと思う。人が自分についてどう思うか、ばかり気になる。頭の中を他人基準が支配している。他人に認められたり好かれたり「できる人、いい人」と思われたりすることを、強く重要視している。認められない私は価値がない、という根強く固い認識がある。この認識を内在したまま、ずっと生きてきて、苦しんでいたんだと思う。

 今までずっと、人間関係の中に存在意義を見つけようとしていた。人間関係が関心の中心にあった。人はコントロールできない。人が自分についてどう思うかは、天気のようなもので、どうにもできない。つまり、どうなるか予想がつかない人間関係に気分が支配され、常に揺さぶられるリスクを抱えていた。認められれば喜び、認められなければ絶望していた。

 「人間関係の中で、誰かから認められなければ」に敏感であるということは、何かしらの接点があるたびに、「この人に認められなければ、私の価値は下がる」と感じてしまう危険に晒される。そして、繰り返しだが、認められるかどうかは天気のようなものだ。何をどうしようが、相手の気分に支配される。吊り橋を渡っているような状態で、傷付かないか、常にビクビクする。

 人間関係で喜びを得ることが間違っている訳でもないと思う。むしろ、人間関係からしか得られない気付き、気持ちがあるはずだ。ただ、人間関係を常に関心の中心に置くと、ぐわんぐわんと気持ちが揺さぶられる。関係性によっては、常に否定に晒される場合もあり、関係に関心を寄せすぎて、自分の価値を依存させると、自罰感、自責感が強くなり、辛くなる。という経験ばかり私はしてきたのかもしれない。

 例えば、仕事という人間関係の箱の中でも、私は「人からどう思われるか」「人とどんな関係を築けるか」ばかりを強迫的に気にしていた。上司に認められること、会社に認められることに注目しすぎて、期待に応えることだけが眼中にあった。素直でいて、期待に応えようと頑張らないと、私は嫌われるかもしれない、頑張らないと「使えない奴だ」とハンコを押されるかもしれない、と怯えていた。

 自分のために頑張っているようだったけど、実際は「自分が誰かから認められず、傷付けられないために」頑張っていた。ある種の自己防衛だったのかもしれない。もちろん頑張ってはいても、低く評価され、「お前はダメだ、能力が低い」と言われることもあった。強烈な憂鬱、不安が湧き上がった。仕事に行くのが怖くなった。劣等感に襲われ、消えてしまいたくなった。

 そんな経験を経て、休みながら色々と考え、「人間関係の中に居すぎた」という結論となった。人間関係というものを高く見積りすぎて、人間関係ばかりに関心を寄せてしまっていた。そして、自分の特性などを考えながら最善を探って、「人間関係から離れ、自分の箱に籠っていても、心地よく暮らせるんじゃないか」と思うに至った。

 全ての人間関係から離れることはできない。私は「人間関係を全て断とう」とは思っていない。「人間関係に自分の価値・気持ちを左右させるな」を意識することが大切だと思っている。「誰から何を言われようが気にならない」という状態は難しいだろうから、まずは自分で自分を認めてあげる、そして辛くなる人間関係からは即座に離れる、そして自分が安心できる人間関係に身を置く、を意識するといいのかもしれない。

 人生の幸せ、確固たる人間としての幸せは、人間関係とは別のところに存在してもいいのでは、と私は考える。人間関係の成功(仕事などの社会的成功)を人生の成功と捉えるのではなく、人間関係の成功は人生の成功の一部・おまけでしかない、人生の中の一つの営みでしかないと捉え直す。人からの評価が充実すると人生が充実するではなく、人生が充実していれば、多少人からの評価が悪くても大丈夫だし、人生の充実が結果として評価されることに繋がるかもしれない、と思考の修正する。

 そう、程よい距離が必要だったのだ。人間関係での成功と人生での幸せを分けて考えるべきだった。「人間関係が人生の中で、最優先の関心、唯一の目的、営み」と考えるから、苦しんだ。人の評価に苦しみ、人と比べて苦しんだ。だから、私は程遠い距離感で、適宜自分の箱に籠りながら、生きていこうと思う。

 人間関係、学校、仕事だけで頭や心をいっぱいにせず、自己受容、自己評価を先に持っていきたい。「幸せや豊かさは人間関係とは別のところにあるかもしれない」と考えていきたい。繰り返しだが、人間関係を全て絶って生きたい、とは思っていない。いや、正直に言うと思っていたことはある。人が怖くて、人の群れに馴染めなくて、しんどいからいっそもうずっと一人でいたい、と思ったことはある。今でもたまに思う。でも、「人間関係の中で自分の価値が決まる、という考えを捨てれば、いい距離感で、いいバランスで、調和できるのでは」という考えに今はなっている。

 自分より人間関係を大切にしていたのかもしれない。自分を大切にするって、どういうことだろう。好きなことをする、嫌いなことはしない、それだけかもしれない。でもそれを無視してしまうことがある。本音を無視して、他人の期待に応えること、他人に好かれることを優先してしまう。自分を丁寧に扱わず、脳や身体を酷使した。無理をした。自分を蔑ろにする癖がついていた。

 小さい頃から真面目に正しく頑張ることが美徳だ、と教えられてきた。だから頑張った。頑張らないのは怠慢、恥だと思い、頑張った。頑張って、認められたかった。頑張らないと価値がないと思われそうだったから。そして、納得感のないまま頑張り続け、「期待に応えるために頑張る」が目的と化してしまった。虚しさだけが溜まり、私は鬱になった。「頑張らないと、認められないと、私は無価値になる」という認識に駆られ、体力や心の限界を超えて仕事をした。

 飲み会に誘われる、今日は帰ってゆっくりしたい、でも断ると何か思われそうだから参加する。職場でコソコソ話が聞こえる、「なぜ職務スペースでコソコソ話をするんだ、私や誰かの悪口ではないか、嫌だからその場を離れたい」と思って注意したくなるけど、嫌われそうだから何も言えない。もうすぐ帰ろうとしていたのに上司に急な仕事を頼まれる、帰って趣味を楽しみたいけど、印象を悪くしたくないから、引き受ける。こんなことばかりずっと続けていた。

 自分の本音よりも、期待されてることを選んでしまう。自分が心地良くなる選択よりも、評価や承認を気にして行動してしまう。自分や自分の時間を守るためには、NOということが大切なのに、自分よりも人間関係を優先し続けた。頻繁に。そして、どこかの段階で、生きる気力を失った。週末はベッドから動けなくなった。シャワーを浴びるのが億劫になった。好きなことができなくなった。映画が観れなくなった。部屋がゴミだらけになった。

 他人の要求を優先したり、自分の中の「こうすべきだ」という社会的規範を優先したりして、自分の「こうしたい」という本音、自分の時間、健康を後回しにしてしまう。これが自分を大切にしていないってことかもしれない。そして自分を大切にすることを怠り続けると、必ず後悔。心身が蝕まれる。そのときに「なぜあのとき自分を大切にしなかったんだ」と苦しむのは自分自身だ。

 「あの人がこう言ったから」「社会に求められたから」と他人を責めても、どうにもならないケースがある。他人の誘いを断ることが絶対的に正しいとか、なりふり構わず自分勝手にしようするのが解決策だとか、そういう一般化ではない。自分にとって何が大切か、自分を大切にする選択肢はどれか、を本当にしっかり考えて慎重に選択をしているか、が大事だと思う。

 もしかしたら実際に「自分勝手だ」「価値が低い」と捉えられるかもしれないけど、その人に自分勝手などと思われたとき、自分の人生にどれくらいの損害があるのだろうか。例えば趣味や友人、自分の心身を労うことよりも、その人によく思われることが大切だろうか。例えば死ぬ直前に、自分の価値観・目標・健康を優先したことで「自分勝手だ」とその人に思われた、ということを後悔するだろうか。落ち着いて考えると、分かると思う。別に自分勝手と思われたって構わないと結論づける方が多いと思う。

 だから、少し勇気やコツが必要かもしれないけど、自分を大切にすること。過去の原体験があって、人の目を気にして、真面目に期待に応えようとする、誰かが示す正解を突き詰めようとする、という習性があるかもしれないから、なかなか簡単にいかないこともある。人間関係(人にどう思われるか、どう評価されるか)を関心の中心の外へやって、断ったり、否定されたときに気にしなかったり、が簡単にできないこともある。私は簡単にできず、模索している。

 でも、難しいけど、それでも自分を大切にしないと大事なものが失われる。私の場合は、鬱を背負うことになって、もう既に何かを失ってしまったのかもしれない。「人からどう思うか」の外に出て、低く評価されたときに「私には価値がない」なんて思わず、本音に素直になりしたいことをして、苦手なこと・嫌いな関係を遠ざけて好きなことに囲まれる、これが「自分を大切にする」ということだと思う。

 今、うつ病になって数年経って、ようやく学んだ。人間関係や仕事で認められようと必死にならなくていい。他人に認められようと、好かれようと必死にならなくていい。人間関係の奴隷となって頑張ることが正解じゃないと思う。「こうあるべきだ、こうあらないと人としての評価が下がる、価値が低くなる」というまやかしの外に出て、休むこと、雑に過ごすこと、テキトーに乗り切ることで、次の日も生きようと私は思える。まだまだ人間関係を優先してしまい、断られるたび、否定されるたび、低く評価されるたびに、苦しむ、ということは多発するけど、気を付けないと大切なことにエネルギーを注げなくなるし、無価値感に拍車をかけてしまうな、と思う。

 それでも「誰かのために頑張る、をやめる」という選択肢を認識するだけでも、私は少し楽になった。まだまだ実践できている訳じゃないけど、もっと気楽でいい、雑でいい、逃げていい、と私は思う。「あなたは能力が足りません」「あなたは評価が低いです」と言われても、相手に自分の存在価値を揺るがされてはいけない。相手に自分の価値を傷付けさせてはいけない。自分で自分の価値を低く見積もって、傷付けてはいけない。

 人間関係から少し離れて、たまに外に出て、自分の感情にもっと素直になる、嫌なことは嫌、苦手なことは苦手、したいことはする、でいいんじゃないかな。もし「あ、無理してるかもしれない」と思ったら、誰かからの評価が下がろうが、休む、自分にご褒美を与える、逃げる。その勇気ある選択を、自分で評価してあげるといい。そうやって自分を大切に生きていこう。そう私は毎日自分に言い聞かせている。

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