書くということへの向き合い方

一年の計は元旦にあり。昨年も一昨年も思い立ちつつ実行できなかった継続的な発信を再度試みる。

最近は、会社でもコミュニケーションが足りない・何を考えているかわからない・伝わらないとフィードバックを受けることが増えた。自己完結的かつ怠惰な思考が習慣化していて、確かに発信が足りない自覚はあった。

「会社のため」と考えると、「発信の成果(短期的)」と「仕事として自分の時間を使うこと」とのコスパをどうしても考えてしまう。「これで正しく伝わるのか・結果どれくらい響くか」に気を使いながら文章を書くのは極めて疲れるもので、とても続ける気にはならない。

しかし、ここに逆説があるのではと思った。そもそも「読まれること」のために「書くこと」があるのではない。「書くこと」はそれ自体が目的であり、技術である。

筆者はもともと「考えること」は好きで、日常的に行っているつもりだ。ある概念について書くには、「考える必要がある」とは言い切れる。一方、考えるために「言語が必要か」については諸説あるようで、特定言語が話者の世界観構築に影響を与えるという仮説を言語相対性仮説といい、これに対するものとして普遍的な心的言語で思考できるという論もあるらしい。
いずれにせよ、書くことが考えることを助けるということは言っていいように感じる。考えをことばにする際に、相対化・空間化・客体化・一般化したうえで外部化・保存することは、論理の輪郭を明瞭にし、より発展的な論理構築を可能にする。改めて「考えて」みると、「書くこと」はほとんど「考えること」に不可欠だ。

啓蒙主義的ではあるが、理性的な主体として成立し、よりよい世界を志す人類の武器は、情報と知性だ。情報伝達は人類の効用と切り離すことができない。この点では、むしろ考えることよりも書くことの方が効用が大きい。どうせ考えているのなら、多少の時間をとって書くことをした方が、自身にとっても人類にとっても効用が大きくなる。

一人の起業家として社会参加するにあたり、軸足は「広く使われるものづくり」においているが、会社もそれなりの規模になり、ものづくり自体よりも考える時間・コミュニケーションの時間が増大してきた。
これに対して今回、「書くこと」を取り入れることで効用最大化ができるのではないかと思うに至った。なので、考えることと書くこと、それらの技術を高めていくことに時間を割いていこうと表明する。結果として会社のためにもなればいいと考えている。



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