「とりあえず古典に触れておけ」説を唱えてみる

前回の記事で「努力の意味」を自分なりに解釈し、自分の考えをまとめることの爽快感を覚えてしまった。

というわけで今回も「とりあえず古典に触れておけ説」をなんとなくふわっと考えついたので、ここでまとめておこうと思う。

私は(自分で言うのもなんだが)それなりに本を読むタイプである。
月に多ければ5冊、少なくとも2冊程度は読むようにしている。

何年か前までは最新の本だったり話題になっている本をチョイスして読むことが多かった。
が、ここ1〜2年ぐらいは最新の本などを選びつつも、傾向としては「古典」を選んでみたり、はたまた古典とまではいかないまでも出版されてからそれなりに時間の経っている本を選ぶことが増えた。

理由としてはいくつかあり、特に印象として強く残っているエピソードを述べてみよう。

とあるビジネス書が話題になっている時期があり、クチコミなどでも「これは面白い」と評されていて、そんなに面白いなら…と手を取ってみた。

確かに面白いし、「なるほど」と思える知見もあった。

その後、とある古典書の文庫版を手に取る機会があり、ペラペラと読んでみたところ、「あれ?なんかこれ同じような内容をどっかで読んだ気がするな」と既視感を覚えた。

そう、その古典書に書いてあった内容が、もちろんまるっきり文章までも同じわけではないにせよ、言ってることはまんまこの前読んだビジネス書と同義だったのである。

その後も、何冊か話題になっている本を読んでは古典を読み、「こんな感じの内容、前も読んだな」と既視感を覚えることが続き…。

ふと、「古典ってやっぱり大事なんだな」と思うに至ったわけである。

そもそも、本に限らず…各分野におけるいわゆる「古典」というのは、時代を経てもなお必要とされているからこそ「古典」として存在しているわけである。

逆にいえば、古典となり得ずに継承されていかなかった作品や知見も数多あるわけで、そういう意味でも現代にまで残り続けているそれらは、ある種「洗練された」、あるいは「後世に語り継がれるべき」と判断されたがゆえに今なお存在していると言えよう。

もちろん、最新のモノを取り入れることも大事であるし、何も古典ばかりを取り入れろ!と言うつもりは毛頭ない。

しかし、たまには立ち止まって古典を見聞きしてみると、現代でも通用する技法や知見を発見できるかもしれず、はたまたその技法は今後数十年…いや、我々が死ぬまで使い続けることができる代物になるかもしれない。

それこそ、「音楽の父」という異名を持つバッハ(大バッハ)が活躍したのは1700年代であるが、1700年代の音楽を今聴いても素晴らしいと思えるし、「素晴らしい」と思えるがゆえの理由がそこには詰め込まれているわけだ。

今から300年も前の音楽が残り続けていることに感嘆しつつ、いかに古典の息が長いかを感じざるを得ない。

これらのことから、最新のものにちょっと飽きてきたようなことがあったら、とりあえず古典に触れてみるのも良いのではと提言してみた次第である。

おーわりっ!

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